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365 12月31日 Ⅱ歴36黙22マラ4ヨハ21

歴代誌第二36章……みことばとその語り手をさげすむ群れには、主がそれにふさわしいお取り扱いをされます。そのような群れには主の宮はふさわしくなく、主が敵の手を用いて宮もろとも国を滅ぼされました。しかし、時が来て、主は民を憐れんでくださって、地に回復をもたらしてくださいました。私たちもまた、主のみことばとその語り手をさげすんだ民の歴史につながる者であり、こうして救われて主の民にしていただいているのは、ひとえに主のあわれみのゆえです。私たちは主がこの地を真に回復してくださるように、あわれみをこれからも求めつづける者となりたいものです。 ヨハネの黙示録22章……主は、いのちの水が欲しい者はただで受けよ、とおっしゃっています。福音というものはその本質において、ただで(無料で)分かち合われるべきものです。私たちはあまりに安易に、自分たちのミニストリーが経済的に不足していると、大々的に訴えたりしてはいないでしょうか。この点で私たちは、主が満たしてくださるという信仰にまず立つべきであり、そして、分け与えるときには握った手を堂々と開いて分かち合う者となりたいものです。 マラキ書4章……モーセとエリヤによって証しされたお方はどなたでしょうか? イエスさまです。イエスさまにほんとうにお従いする者は、高ぶることも悪を行うこともなく、義の太陽と癒やしにふさわしい、主の御名に対する恐れが伴います。まことに旧新約すべての聖書のみことばは、イエスさまにお従いすることをもって完成されるものであり、私たちはその御業に参与させていただいている者として、ますます主との交わりの中に生かしていただきたいと願いましょう。 ヨハネの福音書21章……イエスさまは、ペテロたち傷心の弟子たちに対し、おなかがすいただろう、さあお食べ、と、朝ご飯を振る舞ってくださる優しいお方です。もちろんそのあとには、ペテロたちには極めて厳しい弟子の道が控えていましたが、イエスさまは厳しいだけのお方ではありません。その道を堂々と歩みおおせることができるように、力を与えてくださいました。私たちもイエスさまによって力づけられて、弟子の道を歩む者とされています。 <祈りの課題>今年一年の主とともに歩んだその歩みに感謝し、新たな年、ますます主との交わりに励む私たちとなりますように。

364 12月30日 Ⅱ歴35黙21マラ3ヨハ20

歴代誌第二35章……ヨシヤは民を歴史的な礼拝に導いたという点で素晴らしい王でしたが、エジプトに対して起こした野心によって滅びました。しかしこの野心は、単にヨシヤを滅ぼしただけではありません。ヨシヤに率いられるユダ王国を滅ぼすことにつながったのでした。まことに、神の民のリーダーがいかなる判断をするかということは、その群れの命運を左右することです。私たちは、主の民に仕える献身者が肉的な野心から守られるよう、祈って支える必要があります。 ヨハネの黙示録21章……私たち人間はだれもが、死ぬことを恐れます。それは、その死の向こうにある「火と硫黄の池」の存在を、だれしもどこかで意識しているからではないでしょうか。しかし、イエスさまを信じる者、すなわち、子羊のいのちの書にその名の記された者は、もはや死を味わうことがありません。まことのいのちなる神さまと、永遠にともに生きることになります。これ以上素晴らしい福音があるでしょうか。この素晴らしい福音ゆえに私たちは、イエスさまを人々に宣べ伝えるのです。 マラキ書3章……神さまは罪人を憐れんでくださるお方ですが、それでも、正しい者と悪しき者、神さまに仕える者と仕えない者が同じ取り扱いを受けるわけではありません。罪赦されたならば、神さまにお仕えする行動へと実を結んでしかるべきであり、その行いがあってこそ、人々の前にいつくしみ深い主が証しされ、みことばは宣べ伝えられます。その働きのために用いられることは、人にとって最高の祝福です。 ヨハネの福音書20章……復活のイエスさまが私たちに与えてくださった権威は、人の罪を赦す権威です。それはイエスさまが十字架の上で実現してくださったことであり、私たちもイエスさまを主と信じ受け入れた主の弟子であるゆえに、イエスさまの御名によって人々の罪を赦す権威が与えられています。私たちにとって罪を赦すことは、イエスさまに倣うことである以上、弟子の歩みの本質といえることです。罪を赦すということは私たちにとっては極めて難しいことですが、日々、私たちのこの大きな罪を赦してくださったイエスさまと深く交わることをとおして、私たちは人を赦す歩みへと踏み出すことができるようになります。 <祈りの課題>私たちにとって赦しがたい人を赦し、平安をいただくことができますように。

363 12月29日 Ⅱ歴34黙20マラ2ヨハ19

歴代誌第二34章……みことばは、神さまはご自身に対して不従順な者たちに対して激しい怒りを下されるお方だということを示しています。私たちがほんとうにみことばを学んでいるならば、神さまというお方はただ優しいだけのお方ではないことがわかります。私たちに必要なのは、このお方の前に徹底してへりくだって罪を認める、悔い改めです。 ヨハネの黙示録20章……いのちの書にその名が記されていない者は、終わりの日に火の池に投げ込まれ、永遠に滅ぼされるというさばきを受けます。それゆえ、人々はイエスさまとその十字架を信じて御父の怒りから免れさせていただく必要があります。私たちはもし、この世界の愛する人々が滅ぼされることを望まないならば、人々にイエスさまを伝えてしかるべきではないでしょうか。 マラキ書2章……主の民が霊的かどうか、主のみこころにかなっているかどうかということは、結婚という生活をどのようにその者(特に男性の側)がとらえているかということによって測られます。夫婦間で不仲になったり距離をおいたりして、離婚ということを考えるようでは、それは人をひとつにしてくださった主のみこころを踏みにじることになります。まことに、キリスト者にとっての結婚というものは、双方が主との関係をいかに保っているか、主との交わりの中にいかにとどまっているかに左右されるものです。 ヨハネの福音書19章……アリマタヤのヨセフとニコデモは、イエスさまの十字架を目撃して、それまでのこそこそ隠れていたおのが身を恥じて、イエスさまのために行動を起こしました。まことに十字架というものは、弱い者、臆病な者を、行動に駆り立てる大いなる力を持つものです。私たちは日々イエスさまの十字架を前にして、この世を雄々しく生き抜く力をいただく存在です。 <祈りの課題>私たちクリスチャンの結婚(の生活)が、人々に対して大きな証しを立てることができるように。

362 12月28日 Ⅱ歴33黙19マラ1ヨハ18

歴代誌第二33章……マナセ王は苦しみの中で主に立ち帰り、これまでの偶像礼拝を悔い改めました。そうはいっても、聖書全体のマナセに対する第一の評価は、偶像礼拝により南ユダ王国に破滅をもたらした張本人です。私たちにいかに悔い改めの機会が残されているからといって、悔い改めを先延ばしにして、いつまでたっても罪をやめないならば、その末路はどうなるでしょうか。私たちにもし今罪が示されているならば、時を移さず悔い改め、もはやその罪を犯すことのないよう、主の恵みとあわれみにすがる必要があります。 ヨハネの黙示録19章……地を腐敗させるものは淫行です。サタンは淫らなこと、いやらしいことを用いて、神のかたちに創造された人間たちを腐敗させ、自分の勢力に隷属させ、神さま、イエスさまから引き離し、やがて投げ込まれる定めの火と硫黄の池に道連れにします。私たちは滅びに至るサタンの、それでも人間の劣情に働きかけるその策略を知らなくはありません。この情欲と淫行という罪から私たち主の民が守られますように、私たちは祈って取り組む必要があります。 マラキ書1章……形だけの宗教儀式ももちろんいけませんが、だからといって、主の御前に礼拝をおささげする態度がおろそかになっていてはなりません。預言者マラキはいい加減な態度で礼拝をささげる祭司たちを激しく糾弾していますが、私たちも、イエスさまが身代わりになって十字架にかかってくださるほどに神に愛されている存在ならば、誠心誠意、神さまに礼拝をおささげしてしかるべきではないでしょうか。私たちの礼拝の態度が問われています。 ヨハネの福音書18章……ペテロは、いかに恐ろしくなったからとはいえ、人々の前で公然と、「(イエスさまの)弟子ではない」と言い放ちました。ペテロはその瞬間、弟子であることをやめたかのようでした。しかしイエスさまは、彼のことをご自身の弟子として再び立ち上がらせてくださいました。私たちは「魔が差す」ようにして主の弟子であることを否定してしまうこともあるものです。しかし、それで私たちは主の弟子ではなくなったわけではありません。サタンは私たちから言質を取るようにして主から引き離すことを試みますが、いかなる理由にせよ、主の愛から私たちが引き離されることはありません(ローマ8:38~39)。 <祈りの課題>サタンのあらゆる誘惑を超えた主の守りを体験し、さらに主に拠り頼...

361 12月27日 Ⅱ歴32黙18ゼカ14ヨハ17

歴代誌第二32章……アッシリアのセンナケリブはその国の強大さを誇ることにおいて、愚かにも、創造主なる神さまと偶像に過ぎない神々を同列に置き、神さまは神の民を救い出すことなどできないとうそぶきました。主はそのような傲慢な者に対し、軍勢もろともさばきを下されました。まことに、どんな反キリストも主に敵対することはできません。ただ主に従順でありたいと願うのみです。 ヨハネの黙示録18章……反キリストはあらゆる富を掌握し、世界を支配しますが、やがて主に拠って完膚なきまでにさばかれます。私たちはともすると、この世の富や栄華に恋々とする思いを捨てきれず、その滅びを惜しむような思いになったりしないでしょうか。しかし私たちは、そのようなものに対してあこがれるような思いは一切捨てなければなりません。、私たちのすべき選択は「離れること」、これだけです。 ゼカリヤ書14章……終わりの日は世界の国々から主を礼拝する者たちが選ばれ、主のみもとに集められてきます。その日に至るまで地上には混乱と争いが絶えることはありませんが、ついには主が平和をもたらしてくださいます。私たちの待ち望むべきは、主がもたらしてくださる平和、そして世界中から礼拝者が集められた、終わりの日の究極の礼拝です。 ヨハネの福音書17章……イエスさまはこの世界に人となって来られましたが、この世の人ではありませんでした。私たちもこの世に生まれ育っていますが、イエスさまは私たちのことを、この世に属する存在ではないとおっしゃっています。私たちがイエスさまのみあとに従いたいと願うならば、この世と調子を合わせて生きることをやめなければなりません。私たちはこの世から贖い出された者として、心を一新して変えていただきながら生きる必要があります(ローマ12:2)。 <祈りの課題>私たちがこの世のあらゆる悪やけがれの正体を見分け、そこから離れるという選択をすることができますように。

360 12月26日 Ⅱ歴31黙17ゼカ13:2-9ヨハ16

歴代誌第二31章……ヒゼキヤは、公的な礼拝においてのみ主を礼拝したのではありません。自分の財産からもいけにえをささげています。これは主の民の霊的リーダーである献身者に対して非常に示唆に富む模範を示しています。献身者は公的な場のみが礼拝の場所ではありません。私的な場においても、いや、私的な場においてこそ、主の御前にふさわしい礼拝をささげるべきです。 ヨハネの黙示録17章……世の終わりには、地を支配する反キリストの権力者がほしいままに振舞います。この者たちは子羊キリストに戦いを挑みます。しかし、イエスさまは勝利します。それはイエスさまこそ王の王、主の主だからです。しかし世の終わりには、地上の権力こそがすべてと人々は惑わされるようになります。このとき私たちは、それでもイエスさまにお従いすることができるように、今から恵みを求めてまいりましょう。 ゼカリヤ書13章2節~9節……世の終わりとは、主の民が火の試練をもって試されるときです。そのときになると、反キリストの勢力が猛威を振るいます。しかしそのときは、主の民が自分の信仰を大いに証しするときとなります。その証しによって、世の中が何と言おうとも、主こそが礼拝すべき方であることが示されます。それでも主にお従いしないならば、それはその選択をした者の責任であり、その者は滅びを自分で選び取った、ということです。 ヨハネの福音書16章……今私たちがみことばの真理を学ぶことができているのは、真理の御霊、助け主を、御父と御子イエスさまが私たちのところに送ってくださり、御霊なる神さまが私たちに真理を教えてくださっているからです。御霊によって私たちは主のご臨在を体験し、主のお導きを体験しています。まことに、私たちキリスト者の歩みは、御霊に導かれ、御霊に満たされ、御霊とともに歩む体験です。 <祈りの課題>世の終わりに大迫害が予想されようとも、毅然として主にお従いする私たちとなることができますように。

359 12月25日 Ⅱ歴30黙16ゼカ12:1-13:1ヨハ15

歴代誌第二30章……ヒゼキヤは過越の祭りを祝うことをユダのみならず、「べエル・シェバからダンまで」、南北イスラエル全体に呼び掛けました。いかに北イスラエルはもはや神の国といえる状態になく、その結果ヒゼキヤの呼びかけがあざ笑われるようなことになっても、ヒゼキヤはイスラエル全体の回復の鍵は主との関係にあることを心に留め、祭りを進めました。この、不可能を可能にする主に拠り頼むリーダーシップこそ、この時代の教会に必要とされているものではないでしょうか。 ヨハネの黙示録16章……滅びに定められている人間は、神の怒りとさばきにあってもなお、神の御名を冒瀆するものです。私たちは世の終わりに至るまで人々が救われることを祈り求め、そのために伝道と宣教を欠かしてはなりませんが、そのように聖なるもの、真珠のような宝の教えを、けだもののような態度で踏みにじる者たちに対しては、神さまご自身が見切りをつけられる、すなわち、宣教と伝道というものは最終的に、主の主権のもとにあることを、私たちは認める必要があります。 ゼカリヤ書12章1節~13章1節……イエスさまを十字架につけるユダヤ人(ユダ)に対する預言です。彼らはイエスさまを十字架につけて殺しますが、それゆえに激しく嘆くという、矛盾のような感情が描かれています。しかし、私たちの罪はどのようにして贖われるかを考えるならば、それは矛盾ではありません。私たちは、イエスさまを十字架につけて殺すほどの罪人ですが、そんな罪人を十字架の上で赦してくださるのですから、そのようなイエスさまのお姿を見て、私たちは激しく嘆くのです。 ヨハネの福音書15章……世というものは、イエスさまのみことばとそのみわざを前にして、なおイエスさまを否定するばかりか、イエスさまの弟子たちに激しい迫害を加えます。それが、私たちがとどまっている世というものの正体であり、私たちは愛されようと、この「世」というものの友となろうとしてはなりません。それは主に敵対することになります。私たちは終わりの日に、イエスさまに認められていのちを得たいでしょうか、世に認められて滅びる者となりたいでしょうか。 <祈りの課題>厳しい目にあっても、いのちに至る道を選択させていただく私たちとなりますように。

358 12月24日 Ⅱ歴29黙15ゼカ11ヨハ14

歴代誌第二29章……ヒゼキヤは、主を礼拝しないことがユダ王国とその主とエルサレムに主の御怒りを招いたことを知って、それに対して策を講じました。その策とは、国を挙げて主に立ち帰ることでした。実に、主との関係を回復するには、民全体の悔い改めが必須です。私たちにとっての悔い改めは、個人的なものにとどまらず、家族全体や教会全体のような、共同体にてささげるものである必要があります。 ヨハネの黙示録15章……神は憤られるお方であり、世の終わりには、その憤りを余すところなく地の上に注がれます。私たちはつとに、神は愛であると言いますが、その愛の根本には憤りがあり、その憤りを身代わりにイエスさまの十字架に注いでくださったという事実を忘れてはなりません。私たちもまた神の憤りを受けるべき存在でしたが、特別な恵みによって赦していただいたことを忘れてはなりません。 ゼカリヤ書11章……主に背くこの時代の者たちの行動は、のちの日に宗教指導者たちが神の子イエスさまを見捨てることにつながります。まことに人の罪は、イエスさまを見捨てるということにおいて極限に達します。私たちもその中のひとりであるにもかかわらず、あわれみをいただいて、イエスさまとその十字架を信じる者としていただきました。 ヨハネの福音書14章……私たちクリスチャンは、イエスさまを愛していると心から言えるようになりたいはずです。しかし、イエスさまを愛していることは、イエスさまの戒めを守ることによって証明されます。私たちは罪人であることを、戒めを守れないことの言い訳にして、怠けていてはなりません。戒めを守れるように、その力をイエスさまに少しでも求めていく必要があります。 <祈りの課題>イエスさまが与えられた戒めを少しでも守る者にしてください。

357 12月23日 Ⅱ歴27-28黙14ゼカ10ヨハ13

歴代誌第二27章~28章……ユダの王の偶像礼拝は、もはや意識的なものとなっていました。まことの神さまに礼拝をささげないで、偶像の神々を頼りとするその姿勢こそ、やがてユダに破滅をもたらす要因となりました。日本と世界の教会の命運は、指導者が間違った方向に行くかどうかに左右されています。もし、現時点で頑なさがはなはだしくなっているならば、その後の修正はとても大変なものとなります。私たちは指導者のために祈らなければなりません。 ヨハネの黙示録14章……主イエスさまは最終的に勝利されます。しかしその一方で、イエスさまに従わない者は激しいさばきに服さざるを得ません。とても単純なことです。それでも私たちはこの終わりの世を生きるとき、世に妥協してしまいそうになる誘惑に絶えずさらされていることを認める必要があります。それゆえ、私たちには忍耐が必要です。 ゼカリヤ書10章……主の御目はご自身の羊たちに注がれています。羊に対して間違った導きをしたり、羊を傷つけたりする者に対しては、主は激しい憤りをもって罰を下されます。私たちは何者でしょうか? 私たちは羊飼いである前に、主の御前において、主の御目が絶えず注がれている一匹の羊であるという自覚が必要です。 ヨハネの福音書13章……私たちキリスト者、イエスさまの弟子たちの旗印は、主にある兄弟姉妹が互いに愛し合うということです。この姿が世の人たちに示されるならば、世の人たちは私たちのこの姿を見て、主の愛によって愛することのすばらしさ、麗しさを知ることになります。愛すること以上に主を証しするものはありません。 <祈りの課題>世の終わりに向けて日々忍耐する者となりますように。

356 12月22日 Ⅱ歴26黙13ゼカ9ヨハ12

歴代誌第二26章……王が香をたくのは、主が特別に聖別された祭司たちに対する越権行為であり、このことゆえにウジヤは二度と王座に就くことができなくなりました。私たちは自分勝手に信仰生活、教会生活を送ることはできません。主が立てられた霊的秩序を、主にあって尊重すべきです。そうするとき、私たちは平和のうちに保たれ、私たちが健全に行使すべき権威が尊重されます。 ヨハネの黙示録13章……反キリストを礼拝することは、反キリストの陣営に属することであり、いのちの書に名前が記録されることに最もふさわしくないことです。この世界は反キリストを喜ばせるものにあふれており、反キリストはそのようなものによって純朴な人をだまし、自分に隷属させ、地獄に道連れにしようとします。私たちは主とともに過ごす終末と、地獄で永遠に過ごす終末と、どちらを選びますか。 ゼカリヤ書9章……ゼカリヤはエルサレムの回復を預言しましたが、その預言はさらにのちの時代の、イエスさまのエルサレム入城まで予告していました。旧約のみことばは新約において成就し、さらに私たちの時代において実現します。私たちはみことばを体験し、また、体現する存在として、日々みことばから学ぶことを大事にしたいものです。 ヨハネの福音書12章……イエスさまはしるしを行われましたが、それにもかかわらず、政治指導者や宗教指導者のようなエリート層は、多くがイエスさまを信じませんでした。しるしはご自身が神の子であることを証しするものでしたが、それは人を自動的に救いへと導く、すなわち、イエスさまが主であると信仰告白させるものではありませんでした。それはこんにち、人々が、イエスさまが多くのしるしを行われたことを知ってはいても、イエスさまを主であると信じ受け入れないことと同じです。私たちはそのような中で、イエスさまのみわざを、神の栄光の現れたしるしとして受け入れているのですから、まことに神の恵み、感謝なことです。 <祈りの課題>私たちが反キリストの産物(文化など)を避け、主のみこころにかなう歩みをするように。

355 12月21日 Ⅱ歴25黙12ゼカ8ヨハ11

歴代誌第二25章……南ユダと北イスラエルの、いわば内戦のようなことになった原因は、主がともにおられない戦いに南ユダのアマツヤ王が北イスラエルから傭兵を招集したことにあります。主の民の強大さは主がもたらされたものであることを自覚しないならば、リーダーはその強大さを、あたかも自分のものであるかのように勘違いします。しかしそのように思い込むことは、それだけ、主との交わりが形式的にすぎないことを証明しています。 ヨハネの黙示録12章……聖徒たちが竜(サタン)に打ち勝つのは、子羊(イエスさま)の血と、自分たちの証しのことば(聖書のみことばを口と行いで証しすること)のゆえです。いずれにせよ、それは私たちのすばらしさに起因するのではありません。すべてはイエスさまがしてくださったことであり、また、イエスさまがしてくださることです。ゆえに、サタンに打ち勝つようにしてくださるのは、イエスさまです。 ゼカリヤ書8章……主がご自身の民に、その罪にしたがってわざわいを下されたのは確かなことですが、主はそののち、ご自身の民に幸いを与えられると語ってくださいました。私たちはただ主がわざわいとさばきを下される恐ろしい方だと思ってはなりません。主は私たちのことをふさわしい悔い改めに導いてくださり、幸いを与えてくださるお方です。 ヨハネの福音書11章……信じる者が神の栄光を見ます。ゆえに、主とそのみことば、そしてそのみわざを信じる信仰を与えていただいた者は幸いです。私たちはひとりでに主の御業を体験し、ひとりでに主のご栄光を見るのではありません。私たちの側にも、信じる、ということが必要になります。信仰を増し加えていただくように祈りましょう。 <祈りの課題>私たちの信仰を増し加えてください。

354 12月20日 Ⅱ歴24黙11ゼカ7ヨハ10

歴代誌第二24章……ヨアシュはエホヤダの死後、いとも簡単に主を見捨て、偶像に仕えました。これが人間の罪性というものの恐ろしさです。それまでどれほど主にお仕えしていたかということは、そののちの人生においてカウントされません。問題は「今」主の御前でどのように生きているかということです。私たちは「今」主の御前においてどのような態度でいますでしょうか。 ヨハネの黙示録11章……反キリストに魅入られた者たちは、主に従順な働き人が死ぬとき、贈り物を贈り合って記念するほどに喜びます。これが、私たちの生きている世界の様相です。私たちはこのような世にあって、預言者の役割を果たします。当然、私たちを待ち受けている状況は、極めて厳しいものです。しかし、最後まで耐え忍ぶならば、主は私たちのことを天の御国に携え挙げてくださいます。 ゼカリヤ書7章……私たちが気をつけなければならないことは、主を礼拝すること、主に仕えていることと自分で思っていることが、実は主のためではなく、自分のためのものでしかなくなる場合です。主はこのように、私たち主の民が形式的な宗教に陥って、隣人に対して具体的に愛を実践しないことを、大いにお嫌いになります。 ヨハネの福音書10章……イエスさまは御父のみこころにしたがって十字架にかかられましたが、それは同時に、イエスさまご自身が自分からいのちを捨てる権威を行使された、ということです。しかしこの権威は、私たち人間、イエスさまを信じる者を生かすために用いられた権威であって、自分のためではありません。いのちを捨てることが尊いのは、人を生かすためにそうするからです。 <祈りの課題>今日も私たちの助けを必要としている人のために、具体的に行動する私たちとなりますように。

353 12月19日 Ⅱ歴22-23黙10ゼカ6ヨハ9

歴代誌第二22章~23章……ユダの歴代の王のうち、女王アタルヤだけはダビデの直系ではなく、しかも、イスラエルに偶像礼拝をさせたイゼベルの娘でもありました。そのようなユダの暗黒期に宗教改革を行おうと立ち上がった祭司エホヤダの姿を見ましょう。私たちの置かれている世界も、霊的には極めて暗い状態にあるかもしれません。しかし、私たちはそのような中にあっても、まず自分から改革されるように祈って取り組む必要があります。その自分の改革はやがて、周囲全体の改革につながります。 ヨハネの黙示録10章……みことばは蜜のように口に甘いものですが、いざそれをわがものとし、そのとおりに行おうと黙想し、適用していこうとするならば、きわめて苦い思いをします。みことばはよいものであることがわかっていても、いざそれを行うことはなんと難しいことでしょうか。しかし、私たちは苦みに打ち倒されそうになりながらも、主に立ち上がらせていただいて、みことばを行う者としていただきたいものです。 ゼカリヤ書6章……イエスさまというお方は、ご自身のみからだという神殿を、十字架から3日で建て直され、ご自身が神の子であることをお示しになりました。私たち神の民は、この王なるイエスさまのみそばにて、王である祭司、聖なる国民としてお仕えする者、父なる神さまがイエスさまによってもたらしてくださった平和を享受させていただく存在です。 ヨハネの福音書9章……ユダヤの宗教社会ならびにその指導者たちは、盲人であった者の親の、生殺与奪の権限を握っていました。親たちはほんとうならば、喜びにあふれてイエスさまのことを証しできるはずだったのに、その喜びの証しは封じられていました。盲人だった者がその縛りを超えてイエスさまを証しできたのは、恵みというべきことでした。私たちもこの異教の社会に生きていて、イエスさまが堂々と証しできないもどかしさの中にいると感じるかもしれませんが、主は私たちに、そのような中でもイエスさまを証しする恵みを与えてくださいます。その恵みを祈り求めてまいりましょう。 <祈りの課題>時が良くても悪くてもイエスさまを証しできますように。

352 12月18日 Ⅱ歴21黙9ゼカ5ヨハ8

歴代誌第二21章……ヨラムはあまりにも破壊的な反キリストの道に歩み、国を淫行のごとき偶像礼拝によって迷わせ、ついには彼自身の最後もそのけがれた行いにふさわしいものとなりました。もちろん、神さまは父祖ダビデのゆえに、ヨラムの乱行をもってユダを滅ぼすことはなさらなかったわけですが、ユダに罪をもたらした責任者として、聖書はヨラムを激しく糾弾しています。私たちも恵みによって、私たちの住むこの世界は守られているわけですが、それは私たちひとりひとりの罪がさばかれないままでいる、ということではありません。私たちに悔い改めるべき罪があるならば、速やかに悔い改めるべきです。 ヨハネの黙示録9章……この描写は現代の(あるいは未来の)戦争を連想させるものであり、私たちは今にもこのような終末的破滅にさらされていることを思いますが、問題は、それでも人々が偶像礼拝、殺人、魔術、淫らな行い、盗みをしていることを悔い改めない、ということです。それほどまでに人は頑なだということを私たちは念頭に置きながらも、それでも神さまがこのような人間のことをあきらめてはおられないという、そのみこころを胸に、人々が悔い改めるように、この終わりの世においてみことばを宣べ伝えるべきです。 ゼカリヤ書5章……終末論的な描写です。全地はみことばによってさばかれ、それでもそのさばかれるべきこの地の民は、世界を支配する女に身をやつした反キリストに淫する者となります。私たちは全地を覆うようにみことばが天を飛び駆ける、その幻が見えるようにして生きていますでしょうか? この世界で目に見えるものがすべてだと思ってはなりません。この世界は主のみことばによってやがてさばかれます。 ヨハネの福音書8章……イエスさまの弟子になる条件は、イエスさまのみことばにとどまることです。もし、人がイエスさまのみことばにとどまるならば、罪が赦され、したがって律法ののろいから自由になるという恵みをいただきます。イエスさまの弟子とは、自分自身がイエスさまにあって自由であり、その自由をもって人を自由にする人です。 <祈りの課題>世の終わりに祈りつつ備えながらも、イエスさまに命じられたとおり、平和をつくり出す者となりますように。

351 12月17日 Ⅱ歴19-20黙8ゼカ4ヨハ7

歴代誌第二19章~20章……ユダという国の命運は、王が主にお従いする行いをしたか、しなかったかにかかっていました。王が主に従ったということは、国全体を主にお従いするように動員したということにおいて証しされました。まことの指導者は、主に対する自分の従順から来るその影響を、その率いている集団全体によい形で及ぼすことのできる人です。 ヨハネの黙示録8章……聖徒たちの祈りとは、すべてがひとつとなって御前に香のごとく立ちのぼるものです。私たちの祈りはひとつとして無駄なものはありません。私たちの祈りは、終わりの日のさばきに向けて積み重ねられるものです。それゆえ私たちは、祈ることに飽いてはなりません。すべてが天で聴かれ、地でかなえられるという信仰の確信をもって、今日も祈りましょう。 ゼカリヤ書4章……人は、大いなる山のごとき反キリスト、主のみこころを妨げる存在を見るとおののき、力を失います。しかし主は、そのような存在をものともされず、みこころを成し遂げられます。私たちは気落ちしていてはなりません。私たちは現実を見て気落ちするのではなく、現実を超えて働かれる全能なる主のご存在とそのみことば、御業に目を留めて、力をいただくべきです。 ヨハネの福音書7章……イエスさまは、主の兄弟たちがよかれと思ってアドバイスしたようには行動されませんでした。イエスさまは神の時にしたがって行動されました。私たちも主に動いていただき、ああしてほしい、こうしてほしいと希望することの多い者ですが、私たちが忘れてはならないことは、主はご自身の時にしたがって行動されるということです。そしてこれも確実なことですが、主がご自身の時にしたがって行動されることは、人の考えよりはるかにまさっています。 <祈りの課題>私たちが現実に左右されず、主の御力に委ねる者となりますように。

350 12月16日 Ⅱ歴18黙7ゼカ3ヨハ6

歴代誌第二18章……自分では主の霊を受けているつもりでも、実は悪霊を受けているならばそれは悲惨なことです。しかし、時が悪ければ、聖霊の人が悪霊の者どもによって大いなる迫害を受けることになります。私たちはしかし、どのようなことになろうとも主にお従いするために、世と悪魔に妥協せずに聖霊の満たしを受けつづけなければなりません。 ヨハネの黙示録7章……神のしもべたちは、地上において激しい迫害にさらされ、苦しみます。その苦難ゆえに涙を流します。しかし主は、終わりの日に、聖徒たちが主のゆえに流した涙に、必ず報いてくださり、イエスさまとともに過ごす永遠の安息、永遠の礼拝を与えてくださいます。私たちはその日を目指して日々歩むべきです。 ゼカリヤ書3章……私たちはサタンに絶えず訴えられています。私たちが罪あるものであることは避けがたく、サタンは私たちの犯した罪、それ以前に、抜きがたく抱えている罪性をあげつらい、救いには到底ふさわしくないととがめます。しかし、神さまが、そのように私たちのことをとがめるサタンをとがめられ、最終的にさばいてくださることを、私たちは覚えておかなければなりません。私たちはイエスさまの十字架によって赦されているのです。 ヨハネの福音書6章……私たちが忘れてはならないことは、私たちがイエスさまにお従いすることができるのは、イエスさまが私たちのことを選んでくださったからです。私たちからイエスさまについて行くかどうかを選択するのではありません。今日喜んでイエスさまにお従いできているのは、ひとえに、神さまの恵みです。感謝しましょう。 <祈りの課題>私たちがサタンの脅かしから守られ、イエスさまにだけ従っていけますように。

349 12月15日 Ⅱ歴17黙6ゼカ2ヨハ5

歴代誌第二17章……ヨシャファテの富と名声の秘訣は、国民に主のみことばを教えることを組織的な国策としたことにあります。主の御国を治めるうえで第一に執り行なったことが、目に見える経済や軍事の政策ではなく、みことばを教えることであったわけです。このことは、主の御国に仕える私たちにとっても大事な示唆を与えています。私たちが何よりも優先すべきは、組織としての教会を保たせること以上に、みことばが互いに教え合われることです。 ヨハネの黙示録6章……世界各地で行われている、キリスト者に対する残虐な迫害のニュースを目にするたび、主はいつまで沈黙しておられるのかと思わずにいられなくはならないでしょうか? しかし、私たちは正義の主のさばきを信じるべきです。主はご自身の御名のゆえに迫害を受けた者たちを覚えていてくださいます。そして、そのような目に合わせる者たちに、それにふさわしいお取り扱いをしてくださいます。落胆しないで主の御手を信じましょう。 ゼカリヤ書2章……私たちは時に、主の懲らしめにあって厳しい体験をしますが、主は私たちの味方でいてくださいます。私たちのことをお見捨てになりません。そして、私たちに触れる者たちをご自身の瞳に触れる者とみなし。そのしたことにしたがってお取り扱いをされます。私たちは、私たちの味方でいてくださる主に拠り頼みつつ、今の試練から脱出させてくださる主を最後まで信じましょう。 ヨハネの福音書5章……実にみことばとは、イエスさまがキリスト、救い主であることを証ししているものです。いろいろな立場の者がみことばを解釈し、そこから真理を導きだそうとしますが、イエスさまによらずしてはみことばをほんとうの意味で解釈することはできません。私たちはみことばによってイエスさまを知り、イエスさまによってみことばを知る者として成長したいものです。 <祈りの課題>みことばの真理を知るために、ますます、イエスさまのことを知ることができますように。

348 12月14日 Ⅱ歴16黙5ゼカ1ヨハ4

歴代誌第二16章……アサは王にふさわしく、非常に丁重に葬られました。それはそれだけ、ユダ王国において愛されていたからといえますが、アサの最後は悲惨なものでした。北イスラエルとのいわば「内戦」において主以外のものを求めることをし、今わの際にも医者を求めることはしても、主を求めることはしませんでした。人の真価はこのようなときに明らかになります。私たちはこのようなとき、主を求めることができていますでしょうか。 ヨハネの黙示録5章……みことばがあってもそれが読めていない、意味が分からないということは、実は、激しく泣くべき悲しいことです。しかし、悲しむだけで終わることではありません。最後の勝利を取ってくださったイエスさまがこのみことばを開いてくださいます。すなわち、すべてのみことばは、イエスさまによって読み解くことができるものです。イエスさまによって、私たちがみことばを理解できる者としていただいていることに感謝しましょう。 ゼカリヤ書1章……私たち神の民は、主がいつでも御顔を向けて顧みてくださることに期待します。しかしそのためには、私たちの側から主を求めることをしていかなければなりません。主に立ち帰るならば、私たちを懲らしめて私たちからあえて離れておられた主も、私たちへと帰ってくださいます。 ヨハネの福音書4章……王室の役人はイエスさまのしるしと不思議を必要としていました。しかし彼は、しるしと不思議を見なければ決して信じなかったわけではありません。彼には、イエスさまは必ずしるしと不思議に拠って自分の子どもを救ってくださるという信仰がありました。その信仰をもってイエスさまにすがりました。イエスさまが喜んでくださったのは、この役人の信仰でした。信仰がある者が神に喜ばれます(ヘブル11:6)。 <祈りの課題>私たちの信仰を増し加えてください。

347 12月13日 Ⅱ歴14-15黙4ハガ2ヨハ3

歴代誌第二14章~15章……アサの時代まで、ユダは長らく祭司もいなく、律法もない時代を過ごしていました。しかしここで、アサは預言を聞いて全ユダとともに奮い立ち、宗教改革を行いました。リバイバルが起こったのでした。しかしリバイバルとは、もちろん神さまのあわれみで起こしていただくものという前提がありますが、霊的指導者が切に求めるところからすべては始まります。私たちに主を心から求める飢え渇きが与えられるように、大いに祈ってまいりましょう。 ヨハネの黙示録4章……万物はなぜ存在するのでしょうか。それは創造主なる神さまのみこころのゆえです。みこころのゆえに創造され、存在させられています。ゆえに、この世界に存在するすべてのものは、創造主なる神さまの目的に従った生き方をしてしかるべきです。私たち、主によって召され、主のみこころを守り行うべく遣わされた者こそ、主のご栄光を顕す生き方をせよという主の目的に従って生きるとはこうである、と、世に示す必要があります。 ハガイ書2章……私たちは長い人生の中で、かつて自分が体験した恵みは今自分の置かれている状況よりもはるかにまさっていたと比較し、落ち込んでしまうことの多いことはないでしょうか。しかし、主は私たちが今、過去と比較してどのような状況にあるとしても、私たちに対して「強くあれ」と言ってくださいます。問題は今どうであるかではありません。神さまが未来をどう導いてくださるかです。神さまに対して信仰を持ちましょう。 ヨハネの福音書3章……イエスさまがこの世に来られたのは、イエスさまによって人々が救われるためです。しかし、救われるためには、イエスさまを信じなければならず、それ以外の道は一切ありません。イエスさまを信じない者の行いは明白で、神さまのみこころに反する悪の行いを愛し、決して神さまのほうに行かない、という形で現れます。しかし、私たちも本来は、そのような悪い者のひとりではなかったでしょうか。神さまの恵みによってイエスさまを信じる信仰が与えられ、今こうして救われていることに感謝しましょう。 <祈りの課題>私たちが未来における主の導きに期待し、今の苦境または退屈さに打ち勝つ者となりますように。

346 12月12日 Ⅱ歴13黙3ハガ1ヨハ2

歴代誌第二13章……アビヤは、自分の戦いが主の戦いであることを意識して、そのように北イスラエルの軍勢に宣言していました。この宣言を聞いたとき、ヤロブアムと北イスラエルのすべきことは、自分たちの金の子牛礼拝、そして神に仕えることをやめた罪を悔い改め、南ユダと和合することでした。しかし彼らは頑なでした。私たちも自分の頑なさのゆえに、主にあってひとつであるべき教会の一致を乱すことになっていないか、ヤロブアムの頑なさを反面教師として自分自身を省みましょう。 ヨハネの黙示録3章……ラオディキア教会の聖徒たちは激しく叱責されています。しかし、それは彼らがキリストのからだなる教会の交わりから切り捨てられるためではありません。むしろ、神さまが彼らを愛していらっしゃるからです。愛していらっしゃるから、悔い改めてご自身との交わりを回復するため、叱ったり懲らしめたりなさるのです。私たちも主の叱責や懲らしめを受けたからと、自分はもうだめだなどと思ってはなりません。そのときこそ、自分の捨てるべき罪を捨て、主の御前に大いに立ち帰る者となりましょう。 ハガイ書1章……ハガイの時代、帰還したユダヤ人たちが自分たちの安定よりも主の宮を建てることを命じられたように、私たちは自分の安逸を主を礼拝し、キリストのからだなる教会を立てることよりも優先させるようではいけません。要は、私たちの関心がどこに向かっているかです。私たちの第一の関心の対象は、私たちが主にある共同体であることを自覚して、この地に教会を形成していくことであるべきです。 ヨハネの福音書2章……イエスさまというお方は第一に、人からの証言を必要とされない、まことの神さまです。私たちクリスチャンは伝道や証しをしようとするとき、このお方が神さまであることを、人間的なことばを動員して力説しようとする必要はありません。罪人のことば、肉に属することばは、しょせんイエスさまの神性を引き下げるものでしかありません。私たちは御霊に属する者として、御霊に教えられたことばを語る者となりたいものです。 <祈りの課題>私たちの生活における最優先の関心事が、キリストのからだなる教会を立て上げることになりますように。

345 12月11日 Ⅱ歴11-12黙2ゼパ3ヨハ1

歴代誌第二11章~12章……もはや主を純粋に礼拝することができなくなったレビ人たちは、偶像礼拝の施策に妥協することなく、主を堂々と礼拝できるユダへと亡命しました。まさに彼らは「足のちりを払い落した」のです。主に従う者は時に、この地に対する執着を捨ててでも、主にお従いする道を選ばなければならないことがあるものです。しかしその厳しい決断は、子孫に対しても、自分の所属する国や民族に対しても、祝福をもたらすものです。 ヨハネの黙示録2章……罪を犯すことを何とも思わせず、平気で生徒たちに罪を犯させる預言者(聖書の教師)が、終わりの日に大手を振ってまかり通る時代になります。そのような時代においては、キリストにあって敬虔に生きようと願う者は極めて厳しい思いをします。しかし神さまがご自身が、そのような厳しい目にあっている者たちのことを「サタンの深みを知らない者」として高く評価してくださいます。私たちはどんな悪からも身を避け、主のきよさの中に生きることを求める必要があります。 ゼパニヤ書3章……預言者ゼパニヤは、神の民イスラエルがさばきを免れ救われることの幸いを高らかに歌います。私たちもまた、罪を犯す罪人、神の掟に背くむさぼりの者であるゆえに、神の怒りを受けてさばかれ、滅ぼされて当然の存在でした。しかし神さまはあわれみ深い方でいらっしゃり、私たちのことをイエスさまの十字架のゆえに、神の怒りと滅びから救い出してくださいました。私たちはこの恵みのゆえに心から神さまに感謝しましょう。 ヨハネの福音書1章……イエスさまの弟子となったペテロもナタナエルも、アンデレやピリポの紹介によってイエスさまに出会った人でした。この箇所には、イエスさまとのやり取りは、アンデレやピリポといった紹介者とのものよりも、ペテロやナタナエルとのものが特に記録されています。しかしこれは、主の御目に、ペテロやナタナエルよりもアンデレやピリポが劣っていたということではありません。私たちはペテロやナタナエルにあこがれるかもしれませんが、一方で、アンデレやピリポのようにになれるでしょうか? 私たちは「黒子」の役割をしてでも、未来の主の弟子を発掘することに喜びを見出すべきではないでしょうか。 <祈りの課題>私たちの周りから、偉大な主の働き人が起こされますように。未来の働き人のビジョンを描いて、私たちが普段から祈りつつ人づきあいを...

344 12月10日 Ⅱ歴10黙1ゼパ2ルカ24

歴代誌第二10章……レハブアムは最初から、長老たちが善政を敷くようにとアドバイスしたその意見を聞く気はありませんでした。それは、それだけレハブアムがかたくなだったということですが、15節にあるとおり、神さまがそのように仕向けられたわけです。しかし、それはみこころには所詮あらがえず、人は罪を犯す定めであるということではありません。レハブアムがソロモンのように、民を治めるために知恵を求めたような敬虔さ、謙遜さ、知恵深さをはじめから持ち合わせていたならば、神さまがそう仕向けられることはありませんでした。 ヨハネの黙示録1章……イエスさまを見たヨハネは死んだ者のように倒れこみました。まるでイエスさまのお墓を守っていた番兵たちが、御使いを見て倒れて死人のようになったみたいにです。しかし、ヨハネのことをイエスさまは励まして起こしてくださいました。人はイエスさまに出会うならば、十字架にくぎづけになって死にます。しかし、イエスさまご自身が、永遠のいのちに生かしてくださり、もはや恐れることはありません。 ゼパニヤ書1章……主の民をそしるような異邦人たちは、主のさばきを受けてしかるべき存在でした。しかし主は、そのような世界中の民の中からも主を信じ、主を礼拝する者たちを起こしてくださると約束してくださいました。私たちもそのひとりです。私たちも滅びから免れさせていただき、主の民とともに、主を礼拝する恵みにあずかっていることに感謝しましょう。 ルカの福音書24章……イエスさまご自身が旧約聖書を要約されたおことばに注目しましょう。「キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」十字架と復活、そして世界宣教は、旧約の初めからひとつづきの永遠のテーマであり、私たちはこのテーマを念頭に置いてすべてのみことばを読むものです。そして私たちも、このテーマを神さまによって形づくらせていただいている一員にしていただいています。 <祈りの課題>私たち個人が、また、私たちの教会が支援している世界宣教の働きのために。

343 12月9日 Ⅱ歴9ユダゼパ1ルカ23

歴代誌第二9章……ソロモン王の栄華は大変なものでしたが、その栄華は実際に来て体験するまでわからないものでした。私たちも伝道や宣教の働きをするとき、イエスさまの統べ治める神の国のすばらしさを宣べ伝えるものですが、やはり神の国というものは、自分が実際に見て体験してこそ、その素晴らしさがわかるものです。私たちがキリストを宣べ伝える際には、ぜひともその相手がキリストのからだなる教会のひと枝になり、その御国のすばらしさを知り、また、御国を建て上げて御国の主なるキリストを宣べ伝える人になれるよう、祈る必要があります。 ユダの手紙……不自然な肉欲という淫行にふけることは、御使いが自分のいるべき領域を守らずに悪魔・悪霊になったように、人が自分のいるべき領域、すなわち、神によって創造された目的(神の栄光を顕す生き方)を守らないことです。そのような者には永遠の火の刑罰、すなわち、いのちなる神との永遠の断絶による永遠の苦しみこそがふさわしいことを、私たちはどれほど意識していますでしょうか。私たちはそれゆえ、この世界があらゆる性的な不品行から救われ、守られるように祈る必要があります。 ゼパニヤ書1章……善王ヨシヤの時代にして、主はご自身を礼拝しない偶像礼拝の者、主を礼拝しながらも偶像礼拝をやめない者、主に従順ではない者、主を尋ね求めない者、主を人格的な存在として認めない者もろとも、全地を完膚なきまでにおさばきになることが宣告されました。平和な時代、主のみこころが行われている時代に生きては、主のさばきというものが意識しにくいかもしれませんが、主はそれまでの歴史において積み重ねられてきた人間の罪を見逃しにされることなく、必ず大いなる御手をもっておさばきになることを覚えておく必要があります。私たちは平和な時代に生きようと、いずれ迫り来る終わりの日をつねに意識し、この時代において見張り人の役割、荒野で叫ぶ者の声の役割を果たしてまいりたいものです。 ルカの福音書23章……私たちは罪人です。息をするように罪を犯すような存在です。それゆえに私たちは、当然、神の怒りを受けるべき存在です。しかし、イエスさまは十字架の上で両手を広げ、御父の御怒りを全身に受けられ、私たちを御怒りからかくまってくださいました。イエスさまの十字架のとりなしは完全です。私たちはどれほどイエスさまの十字架に感謝しなければならないことで...

342 12月8日 Ⅱ歴8Ⅲヨハハバ3ルカ22

歴代誌第二8章……ソロモンは主の宮と自分の宮殿を建てるのに、20年の歳月を要しました。天の神さまと地の人を結ぶ神殿、そして、ダビデの裔の名の置かれる王宮を建てるには、それだけの歳月が必要だったわけです。これは、天の神と地の人を結ばれるイエス・キリストのからだなる教会がこの地にしっかり立てられることも、20年は見ないといけないということではないでしょうか。 ヨハネの手紙第三……教会の兄弟の愛というものは、人をキリストの愛によって受け入れているか受け入れていないかによって計られます。なまじリーダーシップらしき強さがあるばかりに、その強さが人を排除する方向へと作用するようなら最悪です。教会とは非寛容な場所であってはなりません。私たちはどのような人でも受け入れ、また、みこころとあらば送り出せるような、寛容にして人に固執しない、すなわち、人を大事にする歩みをしていく必要があります。 ハバクク書3章……私たちが生きている世界は疫病も存在します。食料の供給もいつ安定しなくなるかわかりません。それは、私たちの生きているこの世界が不完全だからです。しかし私たち神の民は、それで終わりではありません。私たちは神さまによって、雌鹿のごとく高いところを歩ませていただきます。それは、神さまは私たちのことを、天のみことばの糧をもって養ってくださる、ということです。そこには移ろう地上の不安定さに翻弄される人間の弱さはありません。 ルカの福音書22章……聖餐は別名を「主の晩餐」と呼びます。それは、主イエスさまご自身が給仕してくださり、弟子たちに食事をもって仕えてくださったということも意味します(26)。まことに聖餐とは、一過性の宗教儀式ではなく、イエスさまが直接仕えてくださっている現場において、イエスさまのその給仕をともにいただく、厳かにしてもったいないほどの恵みに満ちたひとときです。今度聖餐にあずかるとき、イエスさまのこの給仕してくださるお姿がそこに実現していることを心に留め、心からの感謝をもって聖餐にあずかりましょう。 <祈りの課題>私たちがお持ちしている聖餐(主の晩餐)を一過性の宗教儀式と捉えるのをやめ、そこにおいてイエスさまが仕えてくださっているその奉仕を心から受け、感謝するひとときとさせていただきますように。

341 12月7日 Ⅱ歴7Ⅱヨハハバ2ルカ21

歴代誌第二7章……主は、ご自身に従順であるならば、民が祈りをささげる宮を顧みてくださると約束してくださいました。しかし、不従順に歩み、主を捨てて偶像の神々に仕えるならば、宮を投げ捨てるとも語られました。主を捨てる歩みをやめない者にとって、もはや宮は無用の存在だからです。宮は天と地をつなぐイエスさまの象徴ですが、私たちクリスチャンも罪の歩みをやめないならば、イエスさまがその生活から取り去られ、極めて悲惨になることを心得る必要があります。 ヨハネの手紙第二……ヨハネは、婦人たち特有の弱さに配慮してこの手紙を書いています。巧言を弄してキリストの教えにとどまらない者が家を訪問してきたとき、そのことばにしてやられることにより、婦人たちから始まって教会全体に異端の教えが広がるようになってはなりません。昨今流行している異端は、多くが婦人どうしの人間関係を通じて広がっているものです。寂しさ、無聊さを一時的に紛らわしてくれるからと、話し相手になってくれる人に信頼し、それが取り返しのつかないことになる前に、こうしてみことばによってそれぞれが、教会に腐敗が蔓延することに備えての予防をする必要があります。 ハバクク書2章……主にお仕えしない者からは不品行や暴虐が実を結ぶしかなく、そのような者は嘲られ、滅ぼされるべき存在です。私たち神の民はいつの時代も、今の時代も、そのような存在によって苦境に追いやられるものですが、そのような反キリストの民も神を知る知識を得る日が来ると預言されています。私たちは同じ神のかたちに創造された彼らの滅びを願うのではなく、彼らがそのしている行いを悔い改め、主を信じ救われるように祈るべきです。 ルカの福音書21章……私たちの世界に大災害や戦争、大きな変化が起こると、そのことが世の終わりのしるしと結び付けられることは多いものです。そのとき人はなぜ恐れるのでしょうか。これから何が起こるか、「予測」するからです(26)。しかし、私たちのすることは「予測」するあまり絶望することではありません。このあらゆることを超えてこの地に来られるイエスさまを贖い主として、恥じることなく堂々とお迎えすることです(27~28)。 <祈りの課題>教会を食い物にするさまざまな異端から聖徒たちが守られますように。

340 12月6日 Ⅱ歴6:12-42Ⅰヨハ5ハバ1ルカ20

歴代誌第二6章12節~42節……ソロモンは、主が必ず祈りを聴き入れてくださるという信仰をもって、神殿を建てました。主は祈りを聴き入れてくださる、私たちの信仰はすべてそこから始まります。神殿が天におられる神と地に住む人とをつなぐ場所であるように、イエスさまという神殿は天の父と私たちをつないでくださるお方です。それゆえ私たちは、イエスさまの御名によって祈る祈りは聴いていただけると信じるべきです。 ヨハネの手紙第一5章……イエスがキリストであると信じるその信仰によってこそ、まことの神を信じたということになります。その信仰が神への愛を生み、兄弟を愛することにつながります。兄弟を愛せないクリスチャンが問われるのはそのためです。その問われる状態をそのままにしていてはなりません。ますます信仰を増し加えていただき、その信仰が兄弟愛につながる神への愛へと実を結ぶように、そのためにも、神さまが自分のことをどれほど愛してくださっているかつねに思う者となりたいものです。 ハバクク書1章……神の民が神の敵によって攻められ、悲惨な境遇に陥っていることは、主が民に懲らしめの御手を下しているからだということを、ハバククは嘆きながら告白しています。しかし、ハバククはそのことを、宿命のように自分が受け入れるとともに、主の民にも受け入れさせているわけではありません。神に嘆きつつこの悲惨さを切々と訴えています。私たちは自分に起きていることを無条件に受け入れれば、それが模範的な信仰の態度なのではありません。懲らしめの御手における主のご主権を認めながらも、訴えるべきを訴える、それこそ、主が私たちに望んでいらっしゃる態度です。 ルカの福音書20章……宗教指導者たちは、神からみことばを託されて遣わされた働き人を排除し、ついにはイエスさまさえも十字架につけました。それは、自分たちの既得権が失われては、彼らにとって都合が悪かったからです。しかし、彼らが既得権と思っていたものは、実際には彼らのものではなく、神のものでした。御子を十字架につけてまで神のものを盗む彼らには、どれほどのさばきが臨むことでしょうか。私たちもまた、教職者であれ信徒であれ、主の働きに従事する存在ですが、本来主のものゆえに手離すべきものに、主の正義を曲げてまでして固執するようならば、それはイエスさまを十字架につける罪と一直線上にあることを心得るべきで...

339 12月5日 Ⅱ歴5:1-6:11Ⅰヨハ4ナホ3ルカ19

歴代誌第二5章1節~6章11節……ソロモンによって任命された賛美の歌い手、演奏者たちはおびただしい数でしたが、まるで一人のように一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえたとあります。主の御前に召された会衆は、主を賛美することにおいて一致してしかるべきです。一致へと導いてくださる聖霊の導きも意識しないで、自分の快適さを求めて好き勝手に歌ったり演奏したりするならば、不協和音を生んでしまい、主にささげるにふさわしくない音楽になってしまいます。私たちは賛美において一致を求めてまいりましょう。 ヨハネの手紙第一4章……人となられたイエス・キリストを告白しない偽の教えは、いつでもキリスト教会において一定の影響力を行使します。神の子が肉体を取って人としてのこの世界に来られたこと、その身をもって十字架に死なれて人の罪を赦し、神の怒りから人を救い出してくださったこと……このようなことを主張しながらなお自分の教えを「キリスト教」の範疇に入れるような者、さらには自分たちこそキリスト教の主流であると主張するようなものは、霊を否定する唯物論の立場にありますが、実は彼らは反キリストの霊が働いていることにおいて、とても霊的です。私たちは聖霊の力により、彼らの偽りを見抜き、純粋な信仰を保つ必要があります。 ナホム書3章……アッシリアがその身に主のさばきを招く原因になった暴虐の行為は、もとをただせば遊女の淫行に例えられる呪術的な霊的姦淫に端を発するものです。人間はどんな民族であれ、創造主なる神のかたちに創造されているゆえ、イエスを主と告白しない霊的風土を保つ限り、それは神の目には霊的姦淫とみなされます。そのような者からは主のみこころを踏みにじる、愛に反する破壊的な実が結ばれるのは当然のことであり、それゆえに主はそのような偶像礼拝の民をおさばきになります。私たち神の民もそのような者たちに当然のように痛めつけられますが、最後まで耐え忍ぶならば、主はご自身とその民に敵対する者に破滅的なさばきを加えられ、私たちのことをイエスさまの十字架を信じる信仰ゆえに救い出してくださいます。 ルカの福音書19章……イエスさまはエルサレムに入城されてから、毎日神殿でみことばを教えられました。群衆はそれを聴いて喜びました。宗教指導者たちはそのようなイエスさまに対して怒りを燃やしましたが、神殿は宗教指導者たちのものではなく...

338 12月4日 Ⅱ歴3-4Ⅰヨハ3ナホ2ルカ18

歴代誌第二3章~4章……ソロモンが建てた神殿は、黄金と宝石に輝く壮麗なものでした。神の宮というものはこのように、最高のものをもって建てられるべきものでした。私たち聖霊の宮も、最高のものをもって神を礼拝する生き方、神にご栄光をお帰しする生き方をすべく、神ご自身が設計されたものです。自分自身のことを低く見積もってはなりません。私たちは最高の存在に設計されており、その最高の存在をもって神の栄光を顕すのです。 ヨハネの手紙第一3章……私たちが神の子どもであるということは、兄弟を愛することによって証明されます。兄弟を憎んでいることはそれ相応の理由があると主張しようとも、神さまの目から見れば神の愛のない者、直截的な言い方をすれば「人殺し」ということになり、私たちはさばき主なる神さまにあわれみを求める必要があります。私たちは、敵を愛し、敵を赦されたイエスさまの十字架をつねに黙想し、赦しがたい兄弟を赦すことができるように、あわれみを求めるべきです。 ナホム書2章……神の民を滅ぼそうと暴虐のかぎりをつくしたニネベ(アッシリア)への主のさばきがどれほどのものかを預言者ナホムは語ります。私たちは攻められる(責められる)とき、自分のことを、そのような目にあうにふさわしい卑小な存在と捉えたくなるかもしれません。しかし、その攻撃は私たちにとどまらず、私たちを贖い、ご自身の民にしてくださった神さまに対するものです。神さまはそのような攻撃を加え、栄光をけがす者に対し、徹底した復讐を加えられます。 ルカの福音書18章……目が見えなくて他人のあわれみにすがって生きるしかなかった人は、イエスさまに出会って目が開かれました。それは肉体の目が開かれたにとどまらず、イエスさまを主と信じ受け入れ告白する、霊の目が開かれたことであり、さらにはイエスさまについていくという行動の実を結んだということです。私たちもひとたびイエスさまに対して目が開かれた者ですが、そのように目が開かれたことによってどれほど私たちの生き方がイエスさま中心へと変えられたか、よく考える必要があります。このように目が開かれたのは私たちの努力によることではなく、ひとえに神さまの恵みによることです。 <祈りの課題>どうしても赦せない兄弟姉妹を赦す力が与えられますように。

337 12月3日 Ⅱ歴2Ⅰヨハ2ナホ1ルカ17

歴代誌第二2章……ソロモンは在留異国人の男子を、主の宮と王宮を建築するために徴用しました。これはソロモンの栄華のなせるわざでしたが、そのようにソロモンが徴用したことの是非とは別に、在留異国人という弱い立場の者が、神の宮、そしてダビデ王朝の宮殿を立てる働きに携われたことは、大いなる栄光といえなかったでしょうか。私たち、この地上の寄留者も、この地上に遺せる働きは、目に見えるような消えゆくものであってはあまりにもむなしいです。私たちは信仰をもって地上に主の共同体を立てる働きに携わるとき、その人生にはじめて主にある意味を持ちます。 ヨハネの手紙第一2章……だれかに教えてもらう必要がない、ということばは、表面的に読むと誤解するかもしれませんが、これは、教会の共同体(公同の教会)の外で勝手な教えを説く者に教えてもらう必要はない、教えてもらってはならない、ということです。同時に、教会という共同体の中には聖霊が働き、聖霊の油注がれた(聖霊の満たしのある)教師が教えているわけで、その教えを教会において受けることが、御子のうちにとどまるということです。それが御子のうちにとどまることになるのは、教会とは御子キリストのからだだからです。私たちは教会にとどまって、しっかり教えられながら成長しましょう。 ナホム書1章……主は、ご自身の民に敵対する者によって民が大いなる痛手を受けたとき、そのような目に合わせた者に対し、大いなる復讐をなさるお方です。私たちは主に属する者であるという、ただそれだけの理由で、理不尽な攻撃や迫害にあうものです。しかし、それで終わりではありません。主は私たちの敵に復讐してくださり、私たちを救い出してくださいます。 ルカの福音書17章……神の国は目に見える形では臨まない、あなたがたのただ中にあるとイエスさまはおっしゃいました。政治的な国家は神の国とはなりえません。しかし、私たちがみことばにしたがって神と人を愛するとき、そこに神の国、すなわち、神さまが王となって統べ治めてくださる、平和の御国が実現します。私たちは神の国がますます自分たちの間に実現するように祈りましょう。 <祈りの課題>今日も私たちが神の国を実現する働きに用いられますように。

336 12月2日 Ⅱ歴1Ⅰヨハ1ミカ7ルカ16

歴代誌第二1章……神さまはソロモンの、知恵が欠けていることを認める謙遜さ、しかし、その中にあっても全イスラエルに対して責任を負っていこうとする態度を喜んでくださいました。私たちが神の共同体なる教会でリーダーシップを発揮するということは、みこころにかなうことでありますが、多大な知恵を必要とすることでもあります。その知恵は人間的に身につけられるものではなく、神さまに切に願ってはじめて与えられるものです。自分には知恵がないことを認め、しかし多大な責任を背負うために神さまに知恵を切に願う、これが私たちに求められている態度、神さまが喜んでくださる態度です。 ヨハネの手紙第一1章……私たちは罪を犯しており、したがって今もなお闇の中にあることを認める姿勢が必要です。それは、闇を抜け出してキリストの光に照らされ、みこころにかなう者となるためです。私たちは、自分には罪がない、悔い改める必要などないと思った時点でアウトです。そのようではどうやって、イエスさまの十字架にすがる信仰が生まれるでしょうか。私たちはキリストの光に照らされれば照らされるほど、なお自分の罪が明らかにされるものですが、そのとき私たちがためらわずに悔い改めるならば、神さまは私たちとより強い交わりを保ってくださいます。 ミカ書7章……私たちは本来、主の激しい怒りを身に受けている者、すなわち、その怒りのゆえに地獄に落とされるに値する罪人です。しかし、このような私たちは、それでも、イエスさまの十字架を信じる信仰によって救っていただいているということを告白する恵みにあずかっています。主はその告白(訴え)を取り上げてくださり、私たちのことをその怒りから救ってくださいます。私たちが神の怒りから救われる道は、ただ、イエスさまの十字架を信じる信仰だけです。 ルカの福音書16章……人が救われるべき条件は、モーセと預言者、すなわち、みことばを信じることによります。人が復活することを見てもイエスさまを信じない人は、そもそもみことばを正しく信じていないわけです。いみじくもこの物乞いと同じ名前のラザロがよみがえるということをユダヤの宗教指導者たちは目撃したわけですが、彼らはイエスさまを信じなかった(すなわち、永遠のいのちに至ることができなかった)ばかりか、ラザロもろともイエスさまを滅ぼそうとしました。私たちはなぜ幸いなのでしょうか? それは、み...

335 12月1日 Ⅰ歴29Ⅱペテ3ミカ6ルカ15

歴代誌第一29章……ダビデは神の宮のために、決めていた以上のささげものをふんだんにささげ、その姿を見せたうえでイスラエルのリーダーたちに、さらにささげることを呼びかけ、結果、彼らはささげ、それがイスラエル全体の喜びとなりました。ほんとうの喜びは所有することにあるのではありません。主に喜びをもって自発的にささげることによってこそ、人はほんとうに喜ぶことができます。 ペテロの手紙第二3章……神の日の到来は早めなければならないものです。そのために私たちに求められていることは、かぎりなく高い水準をもって敬虔な生き方をすることです。私たちはこの世界が悪に満ちているにもかかわらず、なお忍耐をもってその日を来たらせないでいらっしゃる神さまのみこころに心を留めていますでしょうか。 ミカ書6章……主は人為的な宗教生活に関心を持ってはいらっしゃいません。主の御目に正しいことを行い、主のみこころに歩むことを愛し、主に近づいて主とともに歩むことを、主は私たちに求めていらっしゃいます。これはいわゆる宗教生活とは一線を画すもので、みことばに従った敬虔の生活、愛の生活というものは、きわめて具体的なものです。 ルカの福音書15章……兄息子は父から子やぎが与えられなかったことを、弟のためには子牛が屠られてパーティーが開かれたことと比較して、父のことを恨んでいますが、兄はなぜ自分には子やぎが与えられなかったのか理解していませんでした。友達と楽しむために子やぎが屠られたところで、それが父の栄光になるでしょうか。死んでいた子どもがよみがえるという父の喜びとは関係のないことです。私たちクリスチャンは、主に立ち帰る人が教会の人たちに喜ばれ、受け入れられていることを見て、うらやましがったり、ねたんだりするべきではありません。私たちのすべきことは、むしろともに御父の喜びに加わって喜ぶべきです。 <祈りの課題>きたるべき主の日を日々待ち望みつつ、主のみこころにかなう生き方をますますしていく私たちとなりますように。

334 11月30日 Ⅰ歴28Ⅱペテ2ミカ5ルカ14

歴代誌第一28章……ダビデはソロモンによる神殿建築において、「強く、雄々しく、事を成し遂げなさい」と激励しました。というのも、ソロモンはダビデの召天が間近だったとき、異母兄アドニヤに王位もろともいのちを狙われる立場にあったからです。それはソロモンのいのちが失われること以上に、神さまがダビデに託された神殿建築のみこころが損なわれることを意味していました。それゆえにソロモンは雄々しく立って、アドニヤとその一味に対して容赦なくさばきの剣を振るい、ついには神殿建築を実現させました。これと同じで、私たちは、主が私たちをとおして成し遂げられる御心が実現するために、雄々しく生きつづけなければなりません。 ペテロの手紙第二2章……偽教師は滅びの奴隷です。それは滅びの子であるサタンの奴隷であるということでもありますが、自分自身が地獄に落とされて永遠に滅びる定めにある、ということでもあります。したがって、彼らの約束する自由は偽りであり、彼らの奴隷になったら当然、滅びの奴隷にさせられてしまいます。だから私たちは偽教師、異端・カルトに従ってはならないのです。私たちは自由を得させてくださるお方、キリストによって自由な存在ですから、自由でありつづけるべきです。 ミカ書5章……私たちの主は、だれにも注目されないようなところでお生まれになりました。いと小さい存在から君なるお方を生まれさせてくださるということは、主のみこころでした。このことは、自分など何者でもないと落ち込むことの多いような私たちにとって、慰めとなることではないでしょうか。主は私たちと同じようになってくださったゆえ、そのような私たちの味方となってくださいます。 ルカの福音書14章……24節にわたる食事の場面は、パリサイ人の家でのできごとです。このことから、イエスさまは決してパリサイ人という存在と敵対されていたわけではないことがわかります。このパリサイ人はイエスさまに友好的で、イエスさまのみおしえを受け入れる用意があったようです。イエスさまは彼(ら)に対し、間違った律法主義の愚かさを癒しのわざをもって教えられ、また、神の国における食卓とはどうあるべきかをいくつものたとえをもってお語りになりました。このようにイエスさまは、食卓というものを大事にお用いになりました。私たちも食卓という場所をとおしてイエスさまのみおしえを受けます。信仰を持つ者...

333 11月29日 Ⅰ歴26-27Ⅱペテ1ミカ4ルカ13

歴代誌第一26章~27章……神の箱の安置された家の主人、オベデ・エドムの家は祝福されましたが、その祝福はどのような形で臨んだかといえば、その家の男たちに、神への奉仕にふさわしい力が与えられたということにおいてでした。ほんとうの祝福とは、神に奉仕する力が与えられている、ということです。とは申しましても、からだや心に不具合があって「実質的な」奉仕ができていない人は祝福されていない、ということではありません。そういう人でも神の祝福が臨んでいれば、「その人の存在そのものが」奉仕になっている(キリストのからだなる教会を立て上げるうえでの益になっている)ということは言えます。そうではなくて、からだも心も健康なようでも、神への奉仕に向かっていないことは祝福ということはできない、ということです。私たちがこうして神への奉仕を果たすことができているのは、祝福というべきです。 ペテロの手紙第二1章……ペテロは、自分の教えていることは巧みな作り話ではない、イエスさまを直接目撃し、イエスさまから直接教えていただいて伝えていることであると語っています。私たちが幸いなのは、このことを事実として受け入れていることです。聖書のみことばが事実であることを前提にしなければ、信仰を持つことは一切できません。ゆえに、人にイエスさまを宣べ伝えるとき、聖書に対する十全な信仰を持つことができるようにも祈る必要があります。 ミカ書4章……主の山、ヤコブの神の家に上る、それは、シオン(エルサレム)にくだられるイエスさまからみ教えを聴くためです。シオン、エルサレムが聖なる場所なのは、それがイエスさまがみ教えを宣べられた場所だからです。私たちにとっても、みことばを教えていただく場所には聖都エルサレムが実現しています。私たちが祈りのうちに主のみことばをお聴きするならば、私たちの家、私たちの町、私たちの学校や職場がエルサレムです。 ルカの福音書13章……32節のみことばは、イエスさまがエルサレムに入城されて十字架におかかりになることを、ヘロデに暗示されるおことばです。このおことばから、イエスさまが悪霊を追い出し、癒しを行われるというみわざは、十字架におかかりになって死なれ、葬られることと軌を一にしていることがわかります。悪霊追い出しや癒しのようなイエスさまのみわざは、パフォーマンスのような類ではありません。そのようにしか受け...

332 11月28日 Ⅰ歴24-25Ⅰペテ5ミカ3ルカ12

歴代誌第一24章~25章……ヘマンの子たちは、みことばをとおして王の威厳を高く上げる役割を果たしました。王とはのちにその裔として生まれるイエス・キリストを表しており、したがってみことばとは、イエスさまの威厳を高くほめたたえるという役割を果たすために、人々の口に上るものです。みことばは決して、私たちの威厳が上げられるために用いられてはなりません。 ペテロの手紙第一5章……悪魔は私たちを食い尽くそうと歩き回っています。悪魔はまるでライオンのごとく吼えたけっているので、見るからに震え上がりたくなりはしないでしょうか。しかし、私たちは恐れることはありません。悪魔はいかにも自分の存在を誇示するように吼えたけりますが、それは悪魔があまりにもわかりやすいということであり、また、私たちはそのような悪魔に主の御力によって勝つことができる、ということです。恐れてはなりません。 ミカ書3章……預言者ミカは、預言者たちが金目当てで働きをしていることを激しく糾弾しています。この糾弾はこんにちにおいても有効で、ますます意味のあることです。主の働き人は主から供給されることに期待すべきであって、人におもねって神のみことばのみ告げを曲げては絶対にいけません。私たちもまた、そのような誘惑に絶えずさらされていることを自覚し、金銭など目に見えるものに対する執着から自由にならせていただきたいものです。 ルカの福音書12章……人は死というものを恐れます。サタンはそれを知っていて、何かにつけて人に死の恐怖をちらつかせ、その恐怖心で自分に隷属させようとします。しかし、サタンにできることはそこまでです。人が死んだ後のさばきをなされるお方は神さまであり、神さまを恐れているならば、この地上でサタンを恐れずに生きることができるようになり、サタンはむしろそのことを恐れています。私たちは死の恐怖を超えて働かれる、死とよみの鍵を持ったお方イエスさま(黙1:18)を恐れて生きてまいりましょう。 <祈りの課題>すべてのクリスチャン、特に主の働き人が、金銭に対するこだわりから自由になりますように。

331 11月27日 Ⅰ歴23Ⅰペテ4ミカ2ルカ11

歴代誌第一23章……ダビデの最後の仕事は、主の宮で奉仕をするレビ人たちを任命することでした。ダビデは一国の王であったゆえ、その為政はあらゆる領域に及んでいたわけですが、その中でも、神を礼拝する献身者のためにこれほど献身的であったことは注目すべきことです。私たちは「王である祭司」であるとⅠペテロ2:9は語りますが、この地を統べ治める王としての権限が与えられた私たちは、何よりも、主の御国のために献身した者たちに特別な関心を持ち、彼らとともに主に献身してしかるべきです。 ペテロの手紙第一4章……私たちはみな苦しみますが、罪人としてさばきを受けているゆえに神から苦しめられるのと、神の義のゆえに世の人から苦しめられるのとでは、同じ苦しむのでも天と地の差です。私たちは世の人たちから苦しめられるのをいやがるあまり、神からさばかれる苦しみを受けるような貪りの生活をしてはなりません。私たちはこの地上でキリストのあとを追って十字架を背負うゆえに苦しみますが、それは天国に至る大いなる祝福です。 ミカ書2章……主の民はみなみこころにかなっていたわけではなく、みこころにかなっていた真っ直ぐな者はごく少数でした。しかし彼らは虐げられていました。主はそのような弱者、ほんとうに主の憐れみを必要とする者たちの味方でいらっしゃり、そのような者たちを選び出して御国を立て上げてくださいます。 ルカの福音書11章……イエスさまは、執拗に祈り求めるべきであると勧められるにあたって、突然の訪問客のために深夜にパンを貸してほしいと友達の家に行く者のたとえを語られました。訪問客をもてなすことは必要なことであり、主のみこころにかなっています。とはいっても、友人のあずかり知らないことであり、本来ならばパンを提供する義理もありません。しかし、友の窮状を見るに見かねるなら、深夜であろうともパンを提供します。それがみこころにかなうことだからです。神さまに、みこころにかなう祈りをささげることは、それ以上の意味のあることであり、神さまは切に求める者の祈りを必ずかなえてくださいます。 <祈りの課題>どんなときにも切に祈り求める姿勢で御前に出る私たちとなりますように。

330 11月26日 Ⅰ歴22Ⅰペテ3ミカ1ルカ10

歴代誌第一22章……ダビデはその息子ソロモンに、主の宮を建てるための多大な財産を遺しました。すなわち、主の宮を建ててイスラエルの神の名をその民の真ん中に置くことは、ダビデひとりの事業ではなく、イスラエルの王家の事業であった、ということです。私たちも神の名を家に置くことは、自分の代で終わらせることではなく、子どもたちに受け継がせることであることを肝に銘じ、子育てをすべきです。 ペテロの手紙第一3章……信者である妻は、未信者である夫に対して、主を証しする責任があります。未信者である夫を救いに導くのはもちろん、聖霊なる神さまのみわざですが、主はそのみわざを行われるうえで、信者である妻によい行いを与えてそれを行わせ、証しを立てさせてくださいます。しかしみことばは、妻が夫に服従することだけを説いているのではありません。夫は妻を尊敬する必要があります。主を信じ受け入れた夫ならば、すべからく妻を尊敬すべきです。そのようにして、みこころにかなった相愛関係を妻と夫はこの地上において実現するのです。 ミカ書1章……神の民がもし神さまに対して不従順であるならば、その不従順に対するさばきは全地に及びます。私たち神の民は全地の民を祝福するという大きな使命をもって生かされているわけで、その使命に従わないことは、神を捨てて偶像を拝む貪りの罪を犯すところから始まります。私たちは神さまの創造し生かしておられるこの世界を見捨て、自分の好きなことをしているようでは絶対にいけません。私たちからまず悔い改め、神さまのみこころにお従いし、この地を祝福してまいりましょう。 ルカの福音書10章……私たち主の働き人に主が託された権威はどれほどのものでしょうか。もし、私たちが宣べ伝える福音に人々が耳を傾けなければ、その人々はもはや救われることがないのです。なぜならばそれは、私たちを拒んだのではなく、イエスさまを、すなわち御父を拒んだからです。しかし私たちは、この恐るべき霊的権威が託されていることに恐れを覚えなければなりません。私たちはこの地上に生かされているかぎり、最後まであきらめずにみことばを語りつづけなければなりません。私たちがみことばを語るのをやめるならば、人々は救われるための道を永遠に失ってしまいます。 <祈りの課題>私たちの祈りを通してこの地が祝福されますように。

329 11月25日 Ⅰ歴21Ⅰペテ2ヨナ4ルカ9

歴代誌第一21章……神の民のリーダーも隙があるとサタンの声に耳を傾けてしまいます。その結果、民全体に大変な悪影響が及ぶことになります。しかし、神さまの恵みとあわれみがあるならば、リーダーは悔い改めに至ることができます。その真剣な悔い改めによって、民は破滅から救われます。神さまはリーダーをサタンの攻撃にさらされたままにされません。すなわち、神の民をサタンの攻撃にさらされたままにされません。リーダーがほんとうに、民のことを思っているならば、民が神の怒りに触れることがないように、つねに徹底した悔い改めを神さまの御前にささげる必要があります。 ペテロの手紙第一2章……肉の欲とは、私たちが寄留しているこの世に隷属させるためのものです。私たちはこの世の奴隷、すなわち、この世を神さまから遠ざけるべく主権を振るうサタンの奴隷になってはなりません。そのためにも、私たちはあらゆる肉の欲、情欲と貪りから自由になっていなければなりません。私たちは神のものであるのに、サタンのものになることを当然のこととしてはいけません。 ヨナ書4章……このときのヨナがそうだったように、前任にも悪人にもあわれみをくださる神さまの恵みを見失うならば、神のしもべとしての歩みは肉の歩みに変じ、思いがかなわないことに憤って死にたくなります。しかしそれはなんと、主のみこころから遠ざかっていることでしょうか。私たちは主の働きをするにあたって、みこころを見失ってはなりません。それは、私たちを愛を持って生かしてくださっている主のみこころのためです。 ルカの福音書9章……イエスさまは子どもに特別な関心を持っていらっしゃいます。子どもはいつの時代も、世の中の最底辺に置かれて疎外されます。しかし、イエスさまが子どもを受け入れられたゆえに、私たちも子どもを受け入れることがみこころと受け取っているならば、あとはその受け入れる行為を具体的に実践するならば、私たちは主のみこころを守り行う者となります。 <祈りの課題>私たちの周りの子どもに対して、愛を実践する私たちとなりますように。

328 11月24日 Ⅰ歴19-20Ⅰペテ1ヨナ3ルカ8

歴代誌第一19章~20章……ダビデは、厚意に対して嘲りで返すような者たちに対しては、それ相応の報復をしました。私たちはこの世界に対してキリストの愛を実践するにあたり、あまりにもひどい反応を返されることがある者です。その辱めも私たちはキリストのゆえに耐え忍ぶことが求められていますが、神は怒ってはおられないでしょうか。私たちは彼らに対して戦いを仕掛けるべきではなく、彼らがたとえ敵であろうともなおも愛を施すべきですが、神の怒りに任せるならば、神さまは彼らを必ず悔い改めに導かれるか、滅亡に導かれます。いずれにせよ、彼らが私たち神の軍勢よりも栄えたままにされることはありません。 ペテロの手紙第一1章……神さまは私たちをイエスさまの十字架によって救ってくださり、罪のない者にしてくださいました。そのような私たちがどうして、あえて罪の中に入っていこうとするのでしょうか。罪は私たちにとって最もふさわしくないことです。私たちは聖なる神さまとつねに交わるならば、ひとつひとつの罪から別れることができる恵みをいただきます。 ヨナ書3章……神に反逆する都市ニネベは、ヨナのたった1日の宣告に、完全な悔い改めをしました。この悔い改めのわざはもちろん、神さまが超自然的に介入してくださったからですが、その悔い改めの御業はひとりでに起こったことではなく、神さまご自身がしもべヨナを遣わされたことによって起こされたことです。リバイバルというものは自分と無関係なところで起こされると、他人事のような態度でいてはいけません。私たちがリバイバルにかかわる、すなわち、大々的な悔い改めにかかわるために、みことばを宣べ伝えるのです。 ルカの福音書8章……イエスさまの御国というものは、十二使徒の派遣に端を発することは確かですが、その背後には、ゲラサの墓場にてイエスさまに悪霊を追い出していただいたこの男性のような存在がありました。彼のような人はイエスさまにお供をすることがみこころではありませんでした。彼はその代わり、その地域にイエスさまが統べ治める神の国を、イエスさまに代わって宣べ伝えるという役割を果たし、多くの人をイエスさまへと導きました。イエスさまに対する従い方は人それぞれですが、神さまはあらゆる従い方をとおして神の国を拡大してくださいます。 <祈りの課題>私がその置かれているところで、主の弟子としての働きを果たすことが...

327 11月23日 Ⅰ歴18ヤコ5ヨナ2ルカ7

歴代誌第一18章……ダビデが戦いで手にした戦利品を、神を礼拝するための道具として用いるべく再利用したことに注目しましょう。本来それらの道具は、悪魔と悪霊が身をやつした偶像の神々において用いられていたものでした。私たちにとっての霊的な戦いは、神のもとにあらゆるものを奪還するという戦いでもあります。 ヤコブの手紙5章……金持ちの富は腐るとみことばは語ります。終わりの日になると、金持ちたちは自分の拠り頼んだ富は何の役にも立たず、自分のいのちを一切救わないことを悟らされて絶望します。私たちはこのみことばが突き付けられてもなお、この世の富が大事だと思ってはいないでしょうか。この世の富を貧しい人のために手離すことが身についている人は、神の国にふさわしい人です。 ヨナ書2章……いのちを粗末にしたヨナを、神さまは憐れんでみこころに留めてくださいました。ヨナはそのような絶望的な海の底で神さまにほんとうに出会う体験をします。その体験は悔い改めを生み、悔い改めは感謝を生みました。私たちも時に、選択の誤りによって絶望の底へと叩き込まれることがあります。しかし神さまは私たちのことをお見捨てになりません。私たちを悔い改め、そして感謝へと導いてくださり、より強い神さまとの絆をそこで私たちは体験させていただきます。 ルカの福音書7章……イエスさまは、シングルマザーにやさしいお方、子どもを亡くして悲しみの中にあるシングルマザーに「泣かなくてもよい」と言ってくださるお方です。亡くなってしまった子どものいのちは主の御手のうちにあります。いのちをなくして悲しむのは本人ではなく、シングルマザーであり、慰めを必要としています。どんな人によっても何の慰めもうけられないそのお母さんも、しかし、イエスさまのとの出会いによってまことの慰めをいただきます。 <祈りの課題>私たちの周りにいる悲しみの中にある人が、イエスさまとの交わりの中で、まことの慰めをいただきますように。

326 11月22日 Ⅰ歴17ヤコ4ヨナ1ルカ6

歴代誌第一17章……イエスさまがダビデのすえとしてこの地上に来られることが預言されています。ダビデは、このお方こそほんとうの王であることを受け入れ、感謝しました。私たちは旧約におけるダビデの記述を読むとき、そこにイエスさまの存在を読み取ります。イエスさまこそは、この世界においでになる1000年も昔から預言された、まことの王の王です。 ヤコブの手紙4章……私たちはいろいろなことを計画します。時にその計画は、はるか先のことにまで及びます。しかし、私たちはそのように計画を立てるとき、時を含めたすべてのものは主のものであることを、どこまで認めているでしょうか。私たちはすべてが神のものであると認めるならば、謙遜にならざるを得ません。計画もおいそれとは立てられなくなります。しかし、それでいいのです。私たちは計画を立てることよりも、神の主権を認めてお従いすることのほうがはるかに大事です。 ヨナ書1章……ヨナは神の怒りを鎮めるための宥めのささげ物として海に投げ込まれました。その後3日3晩大魚の腹の中にいたということ……この一連のできごとは、イエスさまの十字架をほうふつとさせます。船に乗った者たちは積み荷を失いましたが、その代わりにヨナの犠牲をとおして天の父なる神さまに立ち帰りました。人は主を信じ受け入れるにあたり、犠牲を伴うこともありますが、その犠牲はイエスさまの十字架に比べれば何ほどのこともありません。 ルカの福音書6章……私たちの行うべき愛は、敵を愛するほどの愛であってしかるべきであるとイエスさまはおっしゃいました。イエスさまは、ご自身を十字架につけるような反キリストのために祈られ、愛されました。イエスさまのその愛によって主に敵対していた私たちが赦されたのならば、私たちはイエスさまのその愛の力によって人を赦し、愛するという行いをしてしかるべきです。逆に言えば、私たちはイエスさまの十字架の力なしには、敵を愛する力など全く生まれません。 <祈りの課題>私たちにとっての敵に対し、イエスさまの十字架の力によって、愛するという行動の実が結べますように。イエスさまの十字架を黙想し、具体的な愛の行動につながりますように。

325 11月21日 Ⅰ歴16ヤコ3オバルカ5

歴代誌第一16章……ダビデは神の箱の前で毎日仕えさせるために、アサフとその兄弟たちを任命しました。私たちは主の御前で毎日仕えるために、主から任命された礼拝者です。私たちが日々お持ちしているディボーションは、主の御前で毎日礼拝をもって仕えているということであり、私たちは毎日のディボーションをするために選ばれていると言っても過言ではありません。 ヤコブの手紙3章……人がことばで犯す罪は、神にかたどってつくられた人を呪い、大言壮語して自慢するということに表れます。そのように、主のみこころに反することばを口に出すことは、きわめて破壊的であり、主の御国を建て上げるべく選ばれている教師たちは、その働きに用いる自分のことばが時に御国を破壊する道具としてサタンに用いられかねないことをよく自覚し、自分のことばをたえず聖霊なる神さまにコントロールしていただく必要があります。 オバデヤ書……神さまがエドムをおさばきになる理由は、主の民が危機に瀕していたときにただ傍観していただけで、助けようとしなかったからだ、ということでした。主が神の民に注いでおられる特別なまなざしを侮ってはいけません。主の民が奪い取られるままになることに無関心である者、主の民よりも偉大であろうとする者は、主が必ずおさばきになります。私たちは今、苦しめられている中にあるかもしれません。しかし、主は私たちのことを、敵に報いてくださりながら必ず救い出してくださいます。 ルカの福音書5章……イエスさまのもとには大勢の群衆が集まってきましたが、イエスさまは寂しいところに退いて祈っていらっしゃいました。イエスさまは、働きをすることで支えられていたお方ではありません。どこまでも、御父との交わりの中に生きておられたお方です。私たちも働き(仕事)に支えられることにアイデンティティを見出していてはなりません。私たちのすることは何よりも、御父との交わりを最優先にすることです。 <祈りの課題>私たちが仕事中心に生きるのではなく、主との交わりを中心に生きるものとなりますように。

324 11月20日 Ⅰ歴15ヤコ2アモ9ルカ4

歴代誌第一15章……神の箱がいかにして賛美の音楽とともにダビデの町に入ってきたかをみことばが描くにあたり、その楽器を担当した人たちの名前を詳細に記しています。ここから、賛美というものを担当する演奏者たちの重要性を見ることができます。私たちは単に習慣として賛美をするのではありません。歌であれ演奏であれ、賛美をする者の名は天で覚えられています。私たちは賛美の「代表選手」とされていることを覚え、普段から霊性を主の御前に整える必要があります。 ヤコブの手紙2章……信仰に行いがないならば死んだものである、ということを説明する実例として、兄弟姉妹に着るものや食べるものがないときのことが挙げられています。私たちにはこのような兄弟姉妹が見えていますでしょうか? そして、イエスさまが私たちのためにいのちを捨ててくださったことに感謝する信仰が、その人たちに対する施しという形で実を結んでいますでしょうか? アモス書9章……主の怒りは完全です。神の民はその身分にもかかわらず、神さまに反逆する道を選びました。それゆえ神さまはその民に完全な怒りを注がれました。しかしそのような中でも、民の中に救われる人を残してくださったのは、神さまのあわれみのゆえです。私たちもあわれみによって、神の完全な怒りから救っていただいている者です。私たちはただ、神さまのこの恵みに感謝して生きる必要があります。 ルカの福音書4章……サタンはみことばを盾にイエスさまを誘惑しました。しかしイエスさまは、その誘惑に対してみことばをもって返されました。みことばはただ用いればいいのではありません。時にその用い方次第では、サタンを喜ばせることになりかねません。その間違った用い方とは「自分の栄光のために用いる」ということです。イエスさまの用い方は「神の栄光のために用いる」ということでした。 <祈りの課題>私たちがみことばを適用するとき、自分の栄光ではなく、神の栄光が現れますように。

323 11月19日 Ⅰ歴13-14ヤコ1アモ8ルカ3

歴代誌第一13章~14章……ペリシテ人はイスラエル相手に敗走するにあたり、自分たちの神々を置き去りにしていきました。彼らが後生大事にしていた神々は彼らを救わなかっただけではなく、彼らにとっての神々への献身がその程度のものでしかなかったということです。私たちも、この世の者たちと同じような献身でしかなかったならば、いざというときに私たちは、まことの神さまを見捨てるような暴挙に出ないでしょうか。よくよく省みる必要があります。 ヤコブの手紙1章……この章の最後に、ほんとうの宗教というものについて定義をしています。それは、孤児ややもめたちが困っているときに世話をする、という、極めて具体的な実践内容で現れています。私たちの生きているこの時代にも、施設にいる子どもたちやシングルマザーのような大変な暮らしをしている人たちは、とても残念なことですがたくさんいます。私たちはいったい、彼らに対してどんな具体的な愛の奉仕をしているでしょうか。 アモス書8章……この世は不正に満ちていますが、正しくあるべき神の民までが不正を行うようならばおしまいです。神さまは特別なさばきをもって神の民に臨まれます。そのさばきは、みことばが一切聴けなくなるという形で臨みます。私たち人間はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつのことばで生きる存在です。私たちからみことばが取り去られたら、私たちは死ぬしかありません。私たちはその恐るべき飢饉に臨む前に、私たち主の民が義を行う者となるように祈り、義を実践する必要があります。 ルカの福音書3章……バプテスマのヨハネは、下着を二枚持っている者、食べ物を余分に持っている者は貧しい人に分け与えるように命じました。ここでも、ほんとうに福音に生きる人は、分け与えるという形で実を結んでしかるべきであることが示されています。私たちは何を、どこに、いつ、どのように、分け与える必要があるでしょうか。 <祈りの課題>私たちの持っているもの(お金)を必要なところに分け与えることができますように。その分け与える場所はどこか、示してください。

322 11月18日 Ⅰ歴11-12ヘブ13アモ7ルカ2

歴代誌第一11章~12章……ダビデを助け、ダビデのために戦う者たちに臨む祝福が描かれています。イエスさまはダビデのすえとしてこの世界に来られたので、旧約のダビデはイエスさまの象徴と言えますが、私たちはイエスさまの側について戦うことにより、大いなる祝福を主からいただくことができます。私たちは主のために、また、主とともに戦っていますでしょうか。 ヘブル人への手紙13章……イエスさまは門の外で十字架にかかられ、苦しみをお受けになりました。私たちが行くべき場所は、宿営の外のイエスさまの十字架のみもとです。私たちはイエスさまの十字架を思うならば、宿営の中で安逸をむさぼっている場合ではありません。私たちはイエスさまの十字架の悩みと恥を身に帯びて、この世界に対し、大胆に十字架を証しする者でありたいものです。 アモス書7章……預言する者の預言をとどめようとする者に対して、主がどれほどの呪いをもたらされるかをアモスは語っています。私たちはときに、世の脅かしによって主のみことばを語るのをためらってしまうこともあるかもしれません。しかし、みことばを語ることをとどめる者に対しては、主がそれ相応の取り扱いをなさいます。私たちはみことばを語ることにおいて、人を恐れるのではなく、神さまを恐れるべきです。 ルカの福音書2章……イエスさまは神と人に愛されたとあります。人がキリストの似姿になるということは、神と人に愛されるということをもって証しされます。私たちは神と人に愛されるべくして生まれ、育てられている存在です。愛されることを拒んではいけません。私たちは神と人から受ける愛によって、神と人を愛するのです。 <祈りの課題>私が神を恐れ、神を愛する者として成長しますように。

321 11月17日 Ⅰ歴9-10ヘブ12アモ6ルカ1:39-80

歴代誌第一9章~10章……主がサウルから王位をはぎ取られたその最大の理由として書かれていることは、霊媒に伺いを立てたことでした。主と交わって政治を行うべきイスラエルの王にとって、悪霊と交わるということは、最もしてはならないことでした。私たちも王である祭司として、悪霊を自分の中に取り込むことをしないように、見るもの、聞くもの、行くところに、細心の注意を払う必要があります。 ヘブル人への手紙12章……私たち主の民、主の子どもたちが、主からの訓練を受けるのは当然のことです。訓練とも思えないような生活をただ続けているだけでは、それは祝福とは言えません。私たちは訓練という、できれば避けたいような厳しい目にあいながら、主のきよさにあずからせていただけるのですから、訓練はむしろ祝福です。 アモス書6章……主から離れて安逸をむさぼる姿勢は、主の公義をないがしろにし、弱い人々が踏みにじられるという悲しむべき結果をもたらします。私たちはできれば、厳しくない生き方を選択しようとしますが、そのことはどれほど、みこころから外れた、すなわち、愛を不従順に取り換える生き方しかもたらさないことでしょうか。私たちは主を恐れているならば、むしろ厳しい道を喜んで選択し、弱い人に愛をもって仕えるようにならなければなりません。 ルカの福音書1章39節~80節……ここで繰り返されていることは、「聖霊に満たされること」です。まさしく、イエスさまが来られるということは、聖霊の満たしという喜びを受けることです。イエスさまの臨在と聖霊の満たしは不可分の関係にあります。私たちが聖霊の満たしをいただきたいならば、自分を明け渡し、イエスさまを心の王座にお迎えすることです。 <祈りの課題>私たちが、御霊に満たされなさいという主のみこころに従順になりますように。