343 12月9日 Ⅱ歴9ユダゼパ1ルカ23

歴代誌第二9章……ソロモン王の栄華は大変なものでしたが、その栄華は実際に来て体験するまでわからないものでした。私たちも伝道や宣教の働きをするとき、イエスさまの統べ治める神の国のすばらしさを宣べ伝えるものですが、やはり神の国というものは、自分が実際に見て体験してこそ、その素晴らしさがわかるものです。私たちがキリストを宣べ伝える際には、ぜひともその相手がキリストのからだなる教会のひと枝になり、その御国のすばらしさを知り、また、御国を建て上げて御国の主なるキリストを宣べ伝える人になれるよう、祈る必要があります。

ユダの手紙……不自然な肉欲という淫行にふけることは、御使いが自分のいるべき領域を守らずに悪魔・悪霊になったように、人が自分のいるべき領域、すなわち、神によって創造された目的(神の栄光を顕す生き方)を守らないことです。そのような者には永遠の火の刑罰、すなわち、いのちなる神との永遠の断絶による永遠の苦しみこそがふさわしいことを、私たちはどれほど意識していますでしょうか。私たちはそれゆえ、この世界があらゆる性的な不品行から救われ、守られるように祈る必要があります。

ゼパニヤ書1章……善王ヨシヤの時代にして、主はご自身を礼拝しない偶像礼拝の者、主を礼拝しながらも偶像礼拝をやめない者、主に従順ではない者、主を尋ね求めない者、主を人格的な存在として認めない者もろとも、全地を完膚なきまでにおさばきになることが宣告されました。平和な時代、主のみこころが行われている時代に生きては、主のさばきというものが意識しにくいかもしれませんが、主はそれまでの歴史において積み重ねられてきた人間の罪を見逃しにされることなく、必ず大いなる御手をもっておさばきになることを覚えておく必要があります。私たちは平和な時代に生きようと、いずれ迫り来る終わりの日をつねに意識し、この時代において見張り人の役割、荒野で叫ぶ者の声の役割を果たしてまいりたいものです。

ルカの福音書23章……私たちは罪人です。息をするように罪を犯すような存在です。それゆえに私たちは、当然、神の怒りを受けるべき存在です。しかし、イエスさまは十字架の上で両手を広げ、御父の御怒りを全身に受けられ、私たちを御怒りからかくまってくださいました。イエスさまの十字架のとりなしは完全です。私たちはどれほどイエスさまの十字架に感謝しなければならないことでしょうか。

<祈りの課題>この終わりの時代、私たちがしっかりこの世界を見張り、この世界においてキリストを証しする者となりますように。

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