333 11月29日 Ⅰ歴26-27Ⅱペテ1ミカ4ルカ13

歴代誌第一26章~27章……神の箱の安置された家の主人、オベデ・エドムの家は祝福されましたが、その祝福はどのような形で臨んだかといえば、その家の男たちに、神への奉仕にふさわしい力が与えられたということにおいてでした。ほんとうの祝福とは、神に奉仕する力が与えられている、ということです。とは申しましても、からだや心に不具合があって「実質的な」奉仕ができていない人は祝福されていない、ということではありません。そういう人でも神の祝福が臨んでいれば、「その人の存在そのものが」奉仕になっている(キリストのからだなる教会を立て上げるうえでの益になっている)ということは言えます。そうではなくて、からだも心も健康なようでも、神への奉仕に向かっていないことは祝福ということはできない、ということです。私たちがこうして神への奉仕を果たすことができているのは、祝福というべきです。

ペテロの手紙第二1章……ペテロは、自分の教えていることは巧みな作り話ではない、イエスさまを直接目撃し、イエスさまから直接教えていただいて伝えていることであると語っています。私たちが幸いなのは、このことを事実として受け入れていることです。聖書のみことばが事実であることを前提にしなければ、信仰を持つことは一切できません。ゆえに、人にイエスさまを宣べ伝えるとき、聖書に対する十全な信仰を持つことができるようにも祈る必要があります。

ミカ書4章……主の山、ヤコブの神の家に上る、それは、シオン(エルサレム)にくだられるイエスさまからみ教えを聴くためです。シオン、エルサレムが聖なる場所なのは、それがイエスさまがみ教えを宣べられた場所だからです。私たちにとっても、みことばを教えていただく場所には聖都エルサレムが実現しています。私たちが祈りのうちに主のみことばをお聴きするならば、私たちの家、私たちの町、私たちの学校や職場がエルサレムです。

ルカの福音書13章……32節のみことばは、イエスさまがエルサレムに入城されて十字架におかかりになることを、ヘロデに暗示されるおことばです。このおことばから、イエスさまが悪霊を追い出し、癒しを行われるというみわざは、十字架におかかりになって死なれ、葬られることと軌を一にしていることがわかります。悪霊追い出しや癒しのようなイエスさまのみわざは、パフォーマンスのような類ではありません。そのようにしか受け取らないことは、そもそもイエスさまの十字架を全く理解していないことになります。イエスさまがこの地上で悪霊や病から人々を解放されたのは、究極的には、十字架の上で実現されたことです。大事なのは十字架です。

<祈りの課題>私たちの行く先々、いるところで、主の御国が実現しますように。


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