336 12月2日 Ⅱ歴1Ⅰヨハ1ミカ7ルカ16

歴代誌第二1章……神さまはソロモンの、知恵が欠けていることを認める謙遜さ、しかし、その中にあっても全イスラエルに対して責任を負っていこうとする態度を喜んでくださいました。私たちが神の共同体なる教会でリーダーシップを発揮するということは、みこころにかなうことでありますが、多大な知恵を必要とすることでもあります。その知恵は人間的に身につけられるものではなく、神さまに切に願ってはじめて与えられるものです。自分には知恵がないことを認め、しかし多大な責任を背負うために神さまに知恵を切に願う、これが私たちに求められている態度、神さまが喜んでくださる態度です。

ヨハネの手紙第一1章……私たちは罪を犯しており、したがって今もなお闇の中にあることを認める姿勢が必要です。それは、闇を抜け出してキリストの光に照らされ、みこころにかなう者となるためです。私たちは、自分には罪がない、悔い改める必要などないと思った時点でアウトです。そのようではどうやって、イエスさまの十字架にすがる信仰が生まれるでしょうか。私たちはキリストの光に照らされれば照らされるほど、なお自分の罪が明らかにされるものですが、そのとき私たちがためらわずに悔い改めるならば、神さまは私たちとより強い交わりを保ってくださいます。

ミカ書7章……私たちは本来、主の激しい怒りを身に受けている者、すなわち、その怒りのゆえに地獄に落とされるに値する罪人です。しかし、このような私たちは、それでも、イエスさまの十字架を信じる信仰によって救っていただいているということを告白する恵みにあずかっています。主はその告白(訴え)を取り上げてくださり、私たちのことをその怒りから救ってくださいます。私たちが神の怒りから救われる道は、ただ、イエスさまの十字架を信じる信仰だけです。

ルカの福音書16章……人が救われるべき条件は、モーセと預言者、すなわち、みことばを信じることによります。人が復活することを見てもイエスさまを信じない人は、そもそもみことばを正しく信じていないわけです。いみじくもこの物乞いと同じ名前のラザロがよみがえるということをユダヤの宗教指導者たちは目撃したわけですが、彼らはイエスさまを信じなかった(すなわち、永遠のいのちに至ることができなかった)ばかりか、ラザロもろともイエスさまを滅ぼそうとしました。私たちはなぜ幸いなのでしょうか? それは、みことばを信じる信仰が、イエスさまの十字架を復活を信じる信仰に直結しているからです。

<祈りの課題>私が今日も、イエスさまの十字架を信じる信仰のうちに生きる者となりますように。

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