338 12月4日 Ⅱ歴3-4Ⅰヨハ3ナホ2ルカ18
歴代誌第二3章~4章……ソロモンが建てた神殿は、黄金と宝石に輝く壮麗なものでした。神の宮というものはこのように、最高のものをもって建てられるべきものでした。私たち聖霊の宮も、最高のものをもって神を礼拝する生き方、神にご栄光をお帰しする生き方をすべく、神ご自身が設計されたものです。自分自身のことを低く見積もってはなりません。私たちは最高の存在に設計されており、その最高の存在をもって神の栄光を顕すのです。
ヨハネの手紙第一3章……私たちが神の子どもであるということは、兄弟を愛することによって証明されます。兄弟を憎んでいることはそれ相応の理由があると主張しようとも、神さまの目から見れば神の愛のない者、直截的な言い方をすれば「人殺し」ということになり、私たちはさばき主なる神さまにあわれみを求める必要があります。私たちは、敵を愛し、敵を赦されたイエスさまの十字架をつねに黙想し、赦しがたい兄弟を赦すことができるように、あわれみを求めるべきです。
ナホム書2章……神の民を滅ぼそうと暴虐のかぎりをつくしたニネベ(アッシリア)への主のさばきがどれほどのものかを預言者ナホムは語ります。私たちは攻められる(責められる)とき、自分のことを、そのような目にあうにふさわしい卑小な存在と捉えたくなるかもしれません。しかし、その攻撃は私たちにとどまらず、私たちを贖い、ご自身の民にしてくださった神さまに対するものです。神さまはそのような攻撃を加え、栄光をけがす者に対し、徹底した復讐を加えられます。
ルカの福音書18章……目が見えなくて他人のあわれみにすがって生きるしかなかった人は、イエスさまに出会って目が開かれました。それは肉体の目が開かれたにとどまらず、イエスさまを主と信じ受け入れ告白する、霊の目が開かれたことであり、さらにはイエスさまについていくという行動の実を結んだということです。私たちもひとたびイエスさまに対して目が開かれた者ですが、そのように目が開かれたことによってどれほど私たちの生き方がイエスさま中心へと変えられたか、よく考える必要があります。このように目が開かれたのは私たちの努力によることではなく、ひとえに神さまの恵みによることです。
<祈りの課題>どうしても赦せない兄弟姉妹を赦す力が与えられますように。
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