359 12月25日 Ⅱ歴30黙16ゼカ12:1-13:1ヨハ15
歴代誌第二30章……ヒゼキヤは過越の祭りを祝うことをユダのみならず、「べエル・シェバからダンまで」、南北イスラエル全体に呼び掛けました。いかに北イスラエルはもはや神の国といえる状態になく、その結果ヒゼキヤの呼びかけがあざ笑われるようなことになっても、ヒゼキヤはイスラエル全体の回復の鍵は主との関係にあることを心に留め、祭りを進めました。この、不可能を可能にする主に拠り頼むリーダーシップこそ、この時代の教会に必要とされているものではないでしょうか。
ヨハネの黙示録16章……滅びに定められている人間は、神の怒りとさばきにあってもなお、神の御名を冒瀆するものです。私たちは世の終わりに至るまで人々が救われることを祈り求め、そのために伝道と宣教を欠かしてはなりませんが、そのように聖なるもの、真珠のような宝の教えを、けだもののような態度で踏みにじる者たちに対しては、神さまご自身が見切りをつけられる、すなわち、宣教と伝道というものは最終的に、主の主権のもとにあることを、私たちは認める必要があります。
ゼカリヤ書12章1節~13章1節……イエスさまを十字架につけるユダヤ人(ユダ)に対する預言です。彼らはイエスさまを十字架につけて殺しますが、それゆえに激しく嘆くという、矛盾のような感情が描かれています。しかし、私たちの罪はどのようにして贖われるかを考えるならば、それは矛盾ではありません。私たちは、イエスさまを十字架につけて殺すほどの罪人ですが、そんな罪人を十字架の上で赦してくださるのですから、そのようなイエスさまのお姿を見て、私たちは激しく嘆くのです。
ヨハネの福音書15章……世というものは、イエスさまのみことばとそのみわざを前にして、なおイエスさまを否定するばかりか、イエスさまの弟子たちに激しい迫害を加えます。それが、私たちがとどまっている世というものの正体であり、私たちは愛されようと、この「世」というものの友となろうとしてはなりません。それは主に敵対することになります。私たちは終わりの日に、イエスさまに認められていのちを得たいでしょうか、世に認められて滅びる者となりたいでしょうか。
<祈りの課題>厳しい目にあっても、いのちに至る道を選択させていただく私たちとなりますように。
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