340 12月6日 Ⅱ歴6:12-42Ⅰヨハ5ハバ1ルカ20

歴代誌第二6章12節~42節……ソロモンは、主が必ず祈りを聴き入れてくださるという信仰をもって、神殿を建てました。主は祈りを聴き入れてくださる、私たちの信仰はすべてそこから始まります。神殿が天におられる神と地に住む人とをつなぐ場所であるように、イエスさまという神殿は天の父と私たちをつないでくださるお方です。それゆえ私たちは、イエスさまの御名によって祈る祈りは聴いていただけると信じるべきです。

ヨハネの手紙第一5章……イエスがキリストであると信じるその信仰によってこそ、まことの神を信じたということになります。その信仰が神への愛を生み、兄弟を愛することにつながります。兄弟を愛せないクリスチャンが問われるのはそのためです。その問われる状態をそのままにしていてはなりません。ますます信仰を増し加えていただき、その信仰が兄弟愛につながる神への愛へと実を結ぶように、そのためにも、神さまが自分のことをどれほど愛してくださっているかつねに思う者となりたいものです。

ハバクク書1章……神の民が神の敵によって攻められ、悲惨な境遇に陥っていることは、主が民に懲らしめの御手を下しているからだということを、ハバククは嘆きながら告白しています。しかし、ハバククはそのことを、宿命のように自分が受け入れるとともに、主の民にも受け入れさせているわけではありません。神に嘆きつつこの悲惨さを切々と訴えています。私たちは自分に起きていることを無条件に受け入れれば、それが模範的な信仰の態度なのではありません。懲らしめの御手における主のご主権を認めながらも、訴えるべきを訴える、それこそ、主が私たちに望んでいらっしゃる態度です。

ルカの福音書20章……宗教指導者たちは、神からみことばを託されて遣わされた働き人を排除し、ついにはイエスさまさえも十字架につけました。それは、自分たちの既得権が失われては、彼らにとって都合が悪かったからです。しかし、彼らが既得権と思っていたものは、実際には彼らのものではなく、神のものでした。御子を十字架につけてまで神のものを盗む彼らには、どれほどのさばきが臨むことでしょうか。私たちもまた、教職者であれ信徒であれ、主の働きに従事する存在ですが、本来主のものゆえに手離すべきものに、主の正義を曲げてまでして固執するようならば、それはイエスさまを十字架につける罪と一直線上にあることを心得るべきです。

<祈りの課題>今日もイエスさまの十字架を心に留め、祈るべきことを大胆に祈る者となりますように。

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