345 12月11日 Ⅱ歴11-12黙2ゼパ3ヨハ1

歴代誌第二11章~12章……もはや主を純粋に礼拝することができなくなったレビ人たちは、偶像礼拝の施策に妥協することなく、主を堂々と礼拝できるユダへと亡命しました。まさに彼らは「足のちりを払い落した」のです。主に従う者は時に、この地に対する執着を捨ててでも、主にお従いする道を選ばなければならないことがあるものです。しかしその厳しい決断は、子孫に対しても、自分の所属する国や民族に対しても、祝福をもたらすものです。

ヨハネの黙示録2章……罪を犯すことを何とも思わせず、平気で生徒たちに罪を犯させる預言者(聖書の教師)が、終わりの日に大手を振ってまかり通る時代になります。そのような時代においては、キリストにあって敬虔に生きようと願う者は極めて厳しい思いをします。しかし神さまがご自身が、そのような厳しい目にあっている者たちのことを「サタンの深みを知らない者」として高く評価してくださいます。私たちはどんな悪からも身を避け、主のきよさの中に生きることを求める必要があります。

ゼパニヤ書3章……預言者ゼパニヤは、神の民イスラエルがさばきを免れ救われることの幸いを高らかに歌います。私たちもまた、罪を犯す罪人、神の掟に背くむさぼりの者であるゆえに、神の怒りを受けてさばかれ、滅ぼされて当然の存在でした。しかし神さまはあわれみ深い方でいらっしゃり、私たちのことをイエスさまの十字架のゆえに、神の怒りと滅びから救い出してくださいました。私たちはこの恵みのゆえに心から神さまに感謝しましょう。

ヨハネの福音書1章……イエスさまの弟子となったペテロもナタナエルも、アンデレやピリポの紹介によってイエスさまに出会った人でした。この箇所には、イエスさまとのやり取りは、アンデレやピリポといった紹介者とのものよりも、ペテロやナタナエルとのものが特に記録されています。しかしこれは、主の御目に、ペテロやナタナエルよりもアンデレやピリポが劣っていたということではありません。私たちはペテロやナタナエルにあこがれるかもしれませんが、一方で、アンデレやピリポのようにになれるでしょうか? 私たちは「黒子」の役割をしてでも、未来の主の弟子を発掘することに喜びを見出すべきではないでしょうか。

<祈りの課題>私たちの周りから、偉大な主の働き人が起こされますように。未来の働き人のビジョンを描いて、私たちが普段から祈りつつ人づきあいをしていきますように。

コメント

このブログの人気の投稿

210 7月29日 士12使16エレ25マコ11

365 12月31日 Ⅱ歴36黙22マラ4ヨハ21

361 12月27日 Ⅱ歴32黙18ゼカ14ヨハ17