326 11月22日 Ⅰ歴17ヤコ4ヨナ1ルカ6
歴代誌第一17章……イエスさまがダビデのすえとしてこの地上に来られることが預言されています。ダビデは、このお方こそほんとうの王であることを受け入れ、感謝しました。私たちは旧約におけるダビデの記述を読むとき、そこにイエスさまの存在を読み取ります。イエスさまこそは、この世界においでになる1000年も昔から預言された、まことの王の王です。
ヤコブの手紙4章……私たちはいろいろなことを計画します。時にその計画は、はるか先のことにまで及びます。しかし、私たちはそのように計画を立てるとき、時を含めたすべてのものは主のものであることを、どこまで認めているでしょうか。私たちはすべてが神のものであると認めるならば、謙遜にならざるを得ません。計画もおいそれとは立てられなくなります。しかし、それでいいのです。私たちは計画を立てることよりも、神の主権を認めてお従いすることのほうがはるかに大事です。
ヨナ書1章……ヨナは神の怒りを鎮めるための宥めのささげ物として海に投げ込まれました。その後3日3晩大魚の腹の中にいたということ……この一連のできごとは、イエスさまの十字架をほうふつとさせます。船に乗った者たちは積み荷を失いましたが、その代わりにヨナの犠牲をとおして天の父なる神さまに立ち帰りました。人は主を信じ受け入れるにあたり、犠牲を伴うこともありますが、その犠牲はイエスさまの十字架に比べれば何ほどのこともありません。
ルカの福音書6章……私たちの行うべき愛は、敵を愛するほどの愛であってしかるべきであるとイエスさまはおっしゃいました。イエスさまは、ご自身を十字架につけるような反キリストのために祈られ、愛されました。イエスさまのその愛によって主に敵対していた私たちが赦されたのならば、私たちはイエスさまのその愛の力によって人を赦し、愛するという行いをしてしかるべきです。逆に言えば、私たちはイエスさまの十字架の力なしには、敵を愛する力など全く生まれません。
<祈りの課題>私たちにとっての敵に対し、イエスさまの十字架の力によって、愛するという行動の実が結べますように。イエスさまの十字架を黙想し、具体的な愛の行動につながりますように。
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