362 12月28日 Ⅱ歴33黙19マラ1ヨハ18
歴代誌第二33章……マナセ王は苦しみの中で主に立ち帰り、これまでの偶像礼拝を悔い改めました。そうはいっても、聖書全体のマナセに対する第一の評価は、偶像礼拝により南ユダ王国に破滅をもたらした張本人です。私たちにいかに悔い改めの機会が残されているからといって、悔い改めを先延ばしにして、いつまでたっても罪をやめないならば、その末路はどうなるでしょうか。私たちにもし今罪が示されているならば、時を移さず悔い改め、もはやその罪を犯すことのないよう、主の恵みとあわれみにすがる必要があります。
ヨハネの黙示録19章……地を腐敗させるものは淫行です。サタンは淫らなこと、いやらしいことを用いて、神のかたちに創造された人間たちを腐敗させ、自分の勢力に隷属させ、神さま、イエスさまから引き離し、やがて投げ込まれる定めの火と硫黄の池に道連れにします。私たちは滅びに至るサタンの、それでも人間の劣情に働きかけるその策略を知らなくはありません。この情欲と淫行という罪から私たち主の民が守られますように、私たちは祈って取り組む必要があります。
マラキ書1章……形だけの宗教儀式ももちろんいけませんが、だからといって、主の御前に礼拝をおささげする態度がおろそかになっていてはなりません。預言者マラキはいい加減な態度で礼拝をささげる祭司たちを激しく糾弾していますが、私たちも、イエスさまが身代わりになって十字架にかかってくださるほどに神に愛されている存在ならば、誠心誠意、神さまに礼拝をおささげしてしかるべきではないでしょうか。私たちの礼拝の態度が問われています。
ヨハネの福音書18章……ペテロは、いかに恐ろしくなったからとはいえ、人々の前で公然と、「(イエスさまの)弟子ではない」と言い放ちました。ペテロはその瞬間、弟子であることをやめたかのようでした。しかしイエスさまは、彼のことをご自身の弟子として再び立ち上がらせてくださいました。私たちは「魔が差す」ようにして主の弟子であることを否定してしまうこともあるものです。しかし、それで私たちは主の弟子ではなくなったわけではありません。サタンは私たちから言質を取るようにして主から引き離すことを試みますが、いかなる理由にせよ、主の愛から私たちが引き離されることはありません(ローマ8:38~39)。
<祈りの課題>サタンのあらゆる誘惑を超えた主の守りを体験し、さらに主に拠り頼む私たちとなることができますように。
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