243 8月31日 Ⅰサム24Ⅰコリ5エゼ3詩39
サムエル記第一24章……ダビデはサウルに手をかける絶好の機会が訪れたにもかかわらず、サウルに手をかけることはしませんでした。この行為はサウルから、ダビデがやがて王位につくという発言を引き出しました。ダビデは、サウルを剣にかけずして、サウルに勝利し、サウルから自分へと王位を移したのでした。私たちは剣によって権力を得るものではなく、平和をつくり出すことによって主が統べ治める世界を実現させていただく存在です。 コリント人への手紙第一5章……宣教とは、みことばが罪と規定しているような行いにとどまる者たちに向けてするものであり、私たちはあえてそのような者たちと付き合い、そのような者たちとの交わりの中にとどまる必要があります。しかし、その罪の行いはイエスさまを受け入れるまでのものであるべきで、イエスさまを受け入れたならば、教会の中にそのような罪を受け入れてはなりません。私たちはそのような行いにとどまる「兄弟姉妹」とは付き合わないほどに、罪に対して潔癖でなければなりません。 エゼキエル書3章……この世の人々は、世を挙げて神さまのみこころに不従順です。そのような世の人は神さまの警告を聞いて悔い改め、神さまに立ち帰る必要がありますが、その警告を彼らに対して発する責任を神さまから与えられているのは、ほかならぬ私たちです。私たちは愛する人が罪に陥っているならば、彼らに対して警告を発し、彼らを悔い改めへと促す必要があります。彼らが聞き入れなければそれまでですが、もし私たちが、彼らに対して警告を発することをしないならば、主はその責任を私たちに問われます。 詩篇39篇……私たちはことばで罪を犯します。したがって、ほんとうに知恵あることは、ことばを発しようと焦るのではなく、なるべく沈黙することです。しかし私たちは罪人たちに痛めつけられます。そうなると私たちは、ことばを発しないことに耐えられなくなり、ついには神さまに叫ぶようになります。そのようにして発した言葉は偽りのない真実なことばです。私たちのことばひとつひとつが問われています。私たちは無駄なことばを語っていないでしょうか? それとも私たちは、神さまにも受け入れられるような真実なことばを語っていますでしょうか? <祈りの課題>みことばを語るべき人、みことばを語るように神さまから促されている人に対し、私たちが余すところなくみことばを語ることができ...