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243 8月31日 Ⅰサム24Ⅰコリ5エゼ3詩39

サムエル記第一24章……ダビデはサウルに手をかける絶好の機会が訪れたにもかかわらず、サウルに手をかけることはしませんでした。この行為はサウルから、ダビデがやがて王位につくという発言を引き出しました。ダビデは、サウルを剣にかけずして、サウルに勝利し、サウルから自分へと王位を移したのでした。私たちは剣によって権力を得るものではなく、平和をつくり出すことによって主が統べ治める世界を実現させていただく存在です。 コリント人への手紙第一5章……宣教とは、みことばが罪と規定しているような行いにとどまる者たちに向けてするものであり、私たちはあえてそのような者たちと付き合い、そのような者たちとの交わりの中にとどまる必要があります。しかし、その罪の行いはイエスさまを受け入れるまでのものであるべきで、イエスさまを受け入れたならば、教会の中にそのような罪を受け入れてはなりません。私たちはそのような行いにとどまる「兄弟姉妹」とは付き合わないほどに、罪に対して潔癖でなければなりません。 エゼキエル書3章……この世の人々は、世を挙げて神さまのみこころに不従順です。そのような世の人は神さまの警告を聞いて悔い改め、神さまに立ち帰る必要がありますが、その警告を彼らに対して発する責任を神さまから与えられているのは、ほかならぬ私たちです。私たちは愛する人が罪に陥っているならば、彼らに対して警告を発し、彼らを悔い改めへと促す必要があります。彼らが聞き入れなければそれまでですが、もし私たちが、彼らに対して警告を発することをしないならば、主はその責任を私たちに問われます。 詩篇39篇……私たちはことばで罪を犯します。したがって、ほんとうに知恵あることは、ことばを発しようと焦るのではなく、なるべく沈黙することです。しかし私たちは罪人たちに痛めつけられます。そうなると私たちは、ことばを発しないことに耐えられなくなり、ついには神さまに叫ぶようになります。そのようにして発した言葉は偽りのない真実なことばです。私たちのことばひとつひとつが問われています。私たちは無駄なことばを語っていないでしょうか? それとも私たちは、神さまにも受け入れられるような真実なことばを語っていますでしょうか? <祈りの課題>みことばを語るべき人、みことばを語るように神さまから促されている人に対し、私たちが余すところなくみことばを語ることができ...

242 8月30日 Ⅰサム23Ⅰコリ4エゼ2詩38

サムエル記第一23章……神さまはダビデのことを、サウルの手から守りつづけてくださいました。このような中でサウルの陣営に属していたはずのヨナタンがダビデのもとに行き、ダビデを力づけました。ヨナタンが恐れていたのは父サウルではなく、ダビデに油を注がれた神さまでした。私たちがほんとうに神さまを恐れているならば、だれを最も神さまにあって尊重して行動すべきかの優先順位を知ることになります。 コリント人への手紙第一4章……コリント教会に対するパウロの親心に注目しましょう。コリント教会の思い上がった態度を戒めるために、パウロはあえて極めて厳しいことば、皮肉なことばを用いています。このような語調を用いなければ悔い改める兆しのないコリント教会の頑なさは、私たちもまた持っているものではないでしょうか。キリストではなく指導者のほうを優先的に見るあまり、傲慢になってはいないでしょうか。しかしそのような態度は指導者を主にあって認めることではなく、党派をつくって指導者を辱めることです。このような罪から私たちは解放されなければなりません。 エゼキエル書2章……神さまはエゼキエルに、反逆の民であるご自身の民に「神である主はこう言われる」と、みことばを語れと命じられました。彼らが聞く、聞かないにかかわらず、みことばを語るのです。エゼキエルのすることは、みことばを聞くこと、そして語ることでした。みことばを聞く者たちの反応にかかわらず、主はみことばを語れと命じられたのです。私たちもみことばを語るとき、相手の反応(顔色)をやたら気にして語れなくなってはいないでしょうか? 主は、そうなったら語るなとはおっしゃっていません。どんなときにも、「語れ」とおっしゃっています。 詩篇38篇……主の民が罪を犯すならば、その犯した罪ゆえに極めて問われる思いになり、その責められる心は痛みと傷となります。しかし主は、それゆえに私たちのことをお見捨てになりません。私たちをその傷と痛みから解放し、回復してくださいます。だから私たちは、自分の罪が何であるかを具体的に示されることを恐れてはなりませんし、その具体的に示された罪を悔い改めることをためらってはなりません。 <祈りの課題>いつ、どんなときにも、だれに対しても、主のみことばを大胆に語る私たちとなることができますように。

241 8月29日 Ⅰサム21-22Ⅰコリ3エゼ1詩37

サムエル記第一21章~22章……ダビデはアヒメレクの家の者が自分のせいで皆殺しにされたことを知りましたが、その中で唯一生き残ったエブヤタルには、「私のいのちを狙う者はあなたのいのちを狙う。しかし私と一緒にいればあなたは安全だ」と告げ、安心させて力づけました。ダビデがイエスさまの象徴だと考えると、このダビデのことばは、イエスさまとともにいる者の保障された立場を表していないでしょうか。私たちもイエスさまゆえに危険にさらされます。しかし、私たちはイエスさまとともにいるかぎり、その身は守られます。 コリント人への手紙第一3章……キリストという土台を立てることは宣教によることですが、その宣教に引きつづく教会形成は、何によって行うかというかということがいざというときに問われます。華麗なこの世の知恵で建てても、イエスさまへの信仰が問われる段になって、それが何の意味も持たなかったということも有り得ます。反対に、石のように凡庸に見えても、けっして燃えず、また崩れない、イエスさまへの揺るがない信仰により宮を立てるということもあるわけです。私たちはこの世の華麗さを求めるでしょうか、それとも、凡庸でも、イエスさまへのゆるぎない信仰を求めるでしょうか。 エゼキエル書1章……エゼキエル書は、預言者エゼキエルが活動的な神の臨在の象徴を見るところから始まります。最強の知恵の象徴の人間の顔、最強の獣の獅子、最強の家畜の牛、最強の鳥の鷲……その頭上に神の臨在があります。主は、この地上の何ものよりも力強いお方であり、私たちはこのお方を礼拝し、また、このお方のみことばに耳を傾けるのです。 詩篇37篇……悪しき者は私たち正しい者の期待に反して、栄えます。そのような栄えを見るとき、私たちの取るべき態度は、みことばに従ったものとなるべきです。人の目にその栄えは永続するもののように見えても、主の御目にそれはとても短いものであり、主はその者がいつまでも栄えることをお許しになりません。なぜならば、それは主の民が虐げられることであり、主のご栄光がいたくけがされることだからです。 <祈りの課題>私たちがこの世のうらやむような華麗さを求めず、どんなに凡庸に思えても、愚直に十字架にこだわって信仰生活を立て上げていくものとなりますように。

240 8月28日 Ⅰサム20Ⅰコリ2哀5詩36

サムエル記第一20章……サウルのダビデに対して危害を加えようとの思いは、遂にヨナタンにまで及びました。ここでのサウルの言動は、主が確立される王位の秩序にふさわしくあろうとしてのものではありません。もはやこれは悪霊に支配されてのものです。ヨナタンはこのような中でダビデを送り出さなければならず、それはきわめて悲しいことでしたが、同時にこのことは、主の恵みの導きに委ねることでもありました。私たちもそのようにして、別れを味わわなければならないときがやってくるものですが、そのような悲しいとき、主の御手に委ねる信仰を働かせてまいりたいものです。 コリント人への手紙第一2章……神さまのことは御霊しか知りません。私たちがこの世の人とちがって、神さまのことを知ることができるとすれば、それは御霊なる神さまが私たちに臨み、神さまについてことごとく私たちに知らせてくださるからです。私たちにこの天に属する知恵が注がれていることは私たちの素晴らしさゆえではなく、ただ神さまの恵みのゆえです。神さまに感謝しましょう。 哀歌5章……エレミヤは神さまに、神の民の悲惨な境遇を告白し、それゆえに神さまのもとに帰る恵みを与えてくださいと訴えています。まことに、主の御許に立ち帰ることも、神さまの恵みがなければ不可能なことです。私たちはそのような、主のご臨在から締め出されるような不義にとどまるのではなく、主の御許にとどまる恵みの中にいるでしょうか。この恵みをたえず求めてまいりましょう。 詩篇36篇……主の恵みはあまりにも高いものですが、なんとも感謝なことに、この、私たちには及びもつかないこの恵みを、主はいと低き私たちに注いでくださいました。この恵みが注がれることにより、私たちは主がおられる天上の恵みにあずかる者としていただきました。私たちはそれゆえに、この地上において天上の主と絶えざる交わりを持つことが許されています。 <祈りの課題>私たちが神の霊により、ますます神さまを知る知識に満たされていきますように。

239 8月27日 Ⅰサム19Ⅰコリ1哀4詩35

サムエル記第一19章……サウルはダビデを殺そうと策を巡らしましたが、彼は預言の霊が注がれ、サムエルの前で人事不省になりました。サウルは王として最強の立場にありましたが、主の御前ではこのとおり、まったく無力な者にさせられてしまいました。このようにして主は奇蹟的にダビデのことをお守りくださいましたが、私たちも主の御力によって守っていただける、特別な存在です。この世の権力、勢力を恐れることはありません。主の御手に委ねてまいりましょう。 コリント人への手紙第一1章……どこまでもイエスさまの十字架にこだわる宣教のことばは、あまりに愚かに映るから、私たちは何かほかのことをつけ加えて語ろうとしてはいないでしょうか? しかし、福音には付け足すことばも混ぜ物も不要です。愚直に語る福音に神の力が顕され、人々はイエスさまを信じるようになります。それはあらゆる知恵を超えたもので、私たちはただ、福音を語ればいいだけです。 哀歌4章……主の民への刑罰は、主の敵を用いてなされます。それはあまりに悲惨なものです。しかし主は時が来れば、主の民をまことの悔い改めに導かれ、今度はそのように主の民を悲惨な目にあわせた者たちにさばきを下されます。私たちはこのように、主の公義と正義をないがしろにする者たちに対して公平にさばきを下される主を恐れなければなりません。 詩篇35篇……私たちは主の愛に満たされているゆえに、主の敵、すなわち私たちの敵が病に苦しむとき、そのことを悲しんでしかるべきです。それでも彼らは私たちのそのような態度を評価せず、相も変わらず私たちのことをののしり、攻撃を仕掛けてくるかもしれません。しかし、私たちのすることは、怒りをもって怒りに対応したり、あざけりをもってあざけりに対応したりすることではありません。なお彼らのために、彼らの救いのために祈ることです。 <祈りの課題>私たちが福音を宣べ伝えるとき、ただストレートにイエスさまの十字架を恐れずに語る者となりますように。

238 8月26日 Ⅰサム18ロマ16哀3詩34

サムエル記第一18章……ダビデが戦うたびに大勝利を得ることができたのは、主がともにおられたからでしたが、それはサウルがそのように仕向け、敵の手によってダビデを滅ぼそうと考えたからだったともいえます。サウルがこれほどまでにダビデを憎んだのは、劣等感のなせるわざであり、それは突き詰めればセルフイメージが低いことに起因するものでした。もし、サウルが健康な自我像を持っていたならば、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」という女たちの歌を耳にしたら、「おお、余より十倍も有能な忠臣を持った余は幸せだ」と言えたはずではないでしょうか。このように、サウルはダビデを滅ぼしたくてたまりませんでしたが、主の祝福は、サウルのねたみをはるかに上回りました。 ローマ人への手紙16章……教会とは、すべての他教会によろしくと言うべきで、また、よろしくと言ってもらえる恵みを持つ存在です。教会が公同の存在であるということは、自分たちの群れのみが単体で存在して完結するということではなく、同じ教団教派(組織)にとどまらずにほかの立場の教会も、同じ日本にある教会にとどまらずに世界中に存在する教会も、すべてひとつの交わりの中にある、ということです。私たちは自分の属する群れを超えて、ほかの教会に、そして世界に目を向ける余裕を持ちたいものです。 哀歌3章……エレミヤは、主に見捨てられて敵のあざけりの的となったユダを自分自身になぞらえて、悲しみの告白をしています。しかし、エレミヤのこの告白はただの悲しみの告白に終わりませんでした。ついにはこの祈りを主が聴いてくださったことを知り、エレミヤは希望を回復しました。私たちもこの国のためにとりなして祈るとき、絶望に襲われてならないときがあるのではないでしょうか? しかし、主は私たちのこの切なる祈りを聴いてくださり、私たちをまことの回復へと導いてくださいます。 詩篇34篇……私たちはこの世界を生きていると、私たちのしてしまう言動の失敗をことさらに取り上げ、攻撃を仕掛けてくる者に出会い、その攻撃にさらされて弱るものです。しかし、私たちはそれで終わりではありません。私たちには主の御許という、逃げこめる場所、力づけられる場所があります。主のもとに行くならば、だれも私たちに決定的な攻撃を下すことなどできません。 <祈りの課題>思いつくかぎりの教会の祝福のために。

237 8月25日 Ⅰサム17ロマ15哀2詩33

サムエル記第一17章……ダビデはサウル王の下賜品にも等しい武具と武器を拒否して戦いに出ていきました。私たち主の民にとって戦いは真剣です。たとえ自分に対して影響力を及ぼせる立場にある人の「ありがたい」アドバイスも、時と場合によっては拒否して、主にあって確信するところに進みゆく勇気も必要です。ダビデは、サウル王との関係以上に、主との関係に根ざして行動しました。 ローマ人への手紙15章……霊的な祝福を受けた者は物質的な奉仕をその人にすべきである、という、パウロのことばに注目しましょう。みことばを教える立場にある人は、たしかにあふれるばかりの主の恵みに動かされて、無償でもいいから奉仕したいという気持ちに満たされたいます。しかし、その奉仕者の恵みを受ける立場にある人は、その奉仕を当然のものと受け止めるようであってはいけません。奉仕者が相応の犠牲を払っていることに対する感謝を、それなりの形にして、その働き人を送ってくださった主への感謝を表すべきです。礼拝における献金も礼拝の一部であるということは、そういう意味です。 哀歌2章……主の民の壊滅的な滅亡は、主に敵対する者どもが心から待ち望んでいたものだといいます。しかし、このような滅びをもたらしたのは強大な敵ではなく、主を捨てて偶像に走った主の民です。そのような民に対し、主は怒りをもって臨まれます。私たちもまた、主はまだ怒っておられないとばかりに、勝手なことをしていないでしょうか? そのような者が敵の攻撃にあい、敵のあざけりの的となったら、どうするのでしょうか? そのような絶望的な状況に陥る前に、つねに主との愛の交わりの中にとどまっている必要があります。 詩篇33篇……主が仰せられるとそのとおりになる、これは事実であり、私たちは何よりも、このことに信仰を働かせるべきです。このように御思いをみことばにしてお語りになって私たち人間に知らせてくださり、そのはかりごとをそのとおりになしてくださるのですから、私たちがこの世界を生きていく上ですべきことは、主のみことばをそのとおりに受け取り、みことばを語り伝えることです。 <祈りの課題>私たちにとっての戦いの武器(ダビデにとっては川原の石)が何であるか、主が明らかにしてくださり、それを普段から、またいざというときに使いこなすものとなりますように。

236 8月24日 Ⅰサム16ロマ14哀1詩32

サムエル記第一16章……主の霊が臨む人は、人のたましいを回復に導きます。そのような人はいつまでも隠れていることはありません。王の前に引き出されたように、用いられるべき場所で用いられました。私たちにも主の霊が臨んでいる以上、人を癒す働きに用いていただけます。私たちは、主がお入用だとおっしゃるとき、お応えする信仰の準備ができていますでしょうか? ローマ人への手紙14章……私たちはつい、自分の信仰スタイルがいちばんしっくりきていると思うあまり、それが真理だと思い込み、そのようなライフスタイルを持たないほかの兄弟姉妹をさばいてしまうものです。しかし、忘れてはならないのは、彼らほかの兄弟姉妹は私たちに属するのではなく、主に属しているということ、したがって、彼らもまた主との関係の中で生活しているということです。彼らをさばくことは、彼らとの関係を結んでおられる主をさばくことであり、たいへんなこと、してはいけないことです。私たちはそういうわけで、ほかの兄弟姉妹が大切にしている神さまとの関係を尊重してまいりたいものです。 哀歌1章……主に対する背きの罪を犯したならば、その刈り取りもすることになります。しかし、その刈り取りはあまりにも悲しく、涙を流すしかないものです。主は私たち人間に、黄海の涙を流すという感情をお与えになりました。このような悲しみと苦しみの中で、人は自分のしたことの重大さにあらためて向き合い、悔い改め、神さまを求めるようになります。ゆえにこれは、神さまとの関係を結び直すために必要な過程であり、この過程をなおざりにしてはなりません。 詩篇32篇……哀歌にも共通する主題、罪の中で御手が重くのしかかる人のさまを描いています。しかし、この詩篇には希望があります。詩人は主に向かって自分の咎を、自分の背きの罪を隠さず告白したとき、主がその罪のとがめを赦してくださるという体験をしたのでした。私たちもそうです。主の御前にて自分の罪を正直に認め、告白し悔い改めるならば、主はその罪をことごとく赦してくださいます。悔い改めを恐れたり、恥ずかしがったりするべきではありません。 <祈りの課題>私たちが罪を犯すようなとき、すぐにでも悔い改めて神さまとの関係を結び直す恵みをたえず体験させていただきますように。

235 8月23日 Ⅰサム15ロマ13エレ52詩31

サムエル記第一15章……サウルのしたことは主にいけにえをささげるためにアマレクの家畜を取っておいた、というのは、言い訳にすぎません。そのようなサウルの態度は、不従順であり、それは占いの罪(御霊以外の霊に伺いを立てること)に等しく、高慢であり、それは偶像礼拝の罪(主以外の存在を神として礼拝すること)に等しいとサムエルは断じます。私たちはそのように、主にお従いしながら、どこか主以外のものに心の領域が奪い取られたままになっていないでしょうか。 ローマ人への手紙13章……世の権威が私たちに対してその力を行使するのは、結果として私たちが主のみこころに従順にお従いし、主の栄光を現すためです。そういうわけで私たちは、世の権威を嫌がってはなりません。もちろん、世の権威が明らかに主のみこころに反することをしている場合はそのかぎりではありませんが、そうでないならば、私たちはこの世界において善良な市民として振る舞うことによって、主の証しを立てることになります。 エレミヤ書52章……神殿の華麗な装飾は、敵の手によってことごとく打ち壊されました。まるでそれは、主の民のこれまでの虚飾に満ちた礼拝態度に対する究極のさばきのようです。私たちもそのように、いずれの日にか、私たちにとって大事に思えても、主の御前にはむなしいものでしかないものが明らかにされます。私たちはそのようなことのないように、いちばん大事な、主との交わりを決して失わないようにしましょう。 詩篇31篇……偶像は悩みの中にある者を救わず、かえって、悩みの中にある者を責め立てる原動力となります。そのような者の目には私たち主の民はとても弱く、また憎たらしい存在のように見えるかもしれません。しかし主は、そのような私たちの味方となってくださり、いつでも私たちのことを守り導いてくださいます。 <祈りの課題>私たちが不従順と高慢の罪から守られ、いつでも主にお従いする謙遜な者となりますように。

234 8月22日 Ⅰサム14ロマ12エレ51詩30

サムエル記第一14章……サウルが立てた誓い、だれでもその日に食べ物を口にする者はのろわれる(死ななければならない)というものは、あまりにも間違ったものです。この箇所を読むと、一見すると息子ヨナタンは父親に不従順なようでしたが、彼の従順の対象は主ご自身でした。ゆえに彼は主の御声を聴いて行動したまでのことです。彼は危うく死にそうになりましたが、軍団の声によって彼が生きることができたのは、主のお導きで、これによってサウルはますます面目を失うことになりました。 ローマ人への手紙12章……礼拝というものは、日曜日の限られた時間にささげるものだけを指すのではありません。もちろんその礼拝もとても大事ですが、ほんとうの礼拝は、世に出ていって人々の前で主にある生き方を示していくときに実現します。私たちの従順の生き方を見て、人々も神さまを礼拝するようになる、それを私たちは目指してまいりたいものです。 エレミヤ書51章……主に敵対するバビロンの完膚なきまでの滅びが宣告されています。主はまた同時に、この中に住む主の民が逃れて、バビロンの破滅に巻き込まれないようにとも語っておられます。私たちの生きる世界も、その支配主であるサタンとともに滅ぼされます。そのとき私たちの逃れる先は、天のシオン、主のみもとです。私たちにはいついかなるときにも逃れるお方がいらっしゃることに感謝しましょう。 詩篇30篇……私たちはときに自分の犯した罪深い行いのゆえに、主の御怒りに触れて懲らしめを受け、涙します。しかし、主はいつまでも怒ってはおられません。もし私たちが悔い改めるならば、主は何度でも立ち上がる力と、その力を用いて主のご栄光をあらわすチャンスを、私たちにくださいます。今日も主のご栄光を顕す機会が与えられていることに感謝しましょう。 <祈りの課題>主が私たちを罪から遠ざけ、どんなときも主のご栄光を顕す証し人となれるように整えてくださいますように。

233 8月21日 Ⅰサム13ロマ11エレ50詩28-29

サムエル記第一13章……当時のイスラエルがペリシテに対してどれほど劣勢だったかというと、日常生活の器具を銀貨3分の2シェケルでわざわざペリシテに行って打ち直してもらって武器にしていたほどで、剣に至ってはサウルとヨナタン王子しか持っていませんでした。そのようにサウルはきわめて追い詰められていましたが、起死回生の手段として、サウルはサムエルが来るのを待たずに、勝手にいけにえをささげてしまい、それゆえに、代々永続するはずだった王位を自ら手離してしまいました。私たちも、いま自分が置かれている状況が極めて厳しいために、うかつな選択をする誘惑につねにさらされています。しかしこのようなときこそ、私たちは落ち着いて主のお導きにお従いすべきです。主のみこころはときに、厳しい状況に心がざわついているようなときには見えなくなるものです。 ローマ人への手紙11章……私たち異邦人の救いは、やがてイスラエルの救いにつながります。人類全体に及ぶ壮大な救いのご計画の完成は、イスラエルの救いをもって成し遂げられます。私たちはイスラエルに対して、遠い中東の一国だからと、無関心であってはなりません。イスラエルと、世界に離散しているユダヤ人の救いを覚えて、積極的に祈りましょう。これはみこころにかなったことです。 エレミヤ書50章……主の民を懲らしめる役割を果たすバビロンを、主は最終的にさばかれます。このことにより、主の民は回復をいただきます。主は、ご自身の愛する者たちが罪の中にとどまらないように、時には敵の手を用いてでも懲らしめられますが、同時に主は、敵が勝ち誇ったままにはなさいません。必ずおさばきになり、ご自分の民の回復をもって、そのご栄光を顕してくださいます。 詩篇28篇~29篇……29篇には「主の声は」ということばが7度繰り返し登場します。主の御声にどれほど力があり、威厳があり、その前に立ちおおせるものはないか、この描写に私たちちっぽけな者たちは震え上がらないでしょうか? しかし、同じ主の御声によって、私たちは慰められ、癒され、励ましていただいたりもします。今日もこの大いなる主の御声に耳を傾ける幸いが与えられていることに感謝しましょう。 <祈りの課題>私たちを取り巻く環境がどんなにきびしくても、あるいは、100人のうち99人が間違った道を行くようなときも、妥協せずに主のみこころを最後まで守り行う力を...

232 8月20日 Ⅰサム12ロマ10エレ49詩26-27

サムエル記第一12章……サムエルは、イスラエルの民が王を求めたことをはっきり悪であると語る一方で、イスラエルの民のために祈ることをやめるのは罪であるから、祈るのをやめることなどできないと宣言しました。私たちがもし、とりなしの祈りをやめてしまうならば、それは罪です。今日もこの世界を覚え、とりなして祈ってまいりましょう。 ローマ人への手紙10章……私たちはもともとが異邦人であり、民族を挙げて神さまを求めることのなかった者たちです。しかし、神さまは恵みによって、キリストを宣べ伝える宣教のことばをとおして私たちのことを救ってくださり、ご自身の民にしてくださいました。このように、神さまが恵みをもって救ってくださる人たちが起こされるために、私たちは主の器として用いられます。私たちがその御手に自分自身を差し出すとき、そこには大いなる御業が起こされると期待しましょう。 エレミヤ書49章……神さまは、主の民イスラエルに敵対する民族に対してさばきと滅びを宣告される一方で、彼らのことを終わりの日に回復されることを同時にお告げになりました。この場合、さばきは天下から消し去られる滅亡を意味するのではなく、最終的には悔い改めによって神さまのみもとに立ち帰ることによって救われるための道を意味します。私たちの民族もかつては滅びを体験しましたが、そのような中で今こうして私たちが救われ、主の回復の御業が実現しつつあります。恐れつつこの救いのみわざを完成させていただき、この民の救いのために用いていただきましょう。 詩篇26篇~27篇……私たちにとっての祝福は、いのちの日のかぎり主の家に住まうことです。それは、主が私たちといつまでも、どこにでも、ともにいてくださるということです。この祝福があるかぎり、私たちは主の家に住まう祝福をいただいているわけですが、私たちがそのように、主の家に住まっているにふさわしい行動をしているか否かで、私たちの受け取る祝福は違ってまいります。この祝福の中にいることをつねに思い、今日も主がともにいてくださる恵みを体験してまいりましょう。 <祈りの課題>ともにおられる主の恵みの中に住まおうという意識をしっかり持ち、目を留めるべきではないものを避け、目を留めるべきものに積極的に目を留めていくことができますように。

231 8月19日 Ⅰサム11ロマ9エレ48詩25

サムエル記第一11章……サウルは戦うべき相手をよくわきまえていました。主がヤベシュ・ギルアデに対して勝利をもたらしてくださったことそのものを喜ぶべきで、その戦いにおいてサウルにつかなかった者を処罰すべきではありませんでした。いわば、神の民が敵に勝利するために神さまが用いられた手段である、同士討ちが起こることで、神の栄光が損なわれることがないように配慮したのでした。私たちの戦いは主の栄光のためのもので、悪魔と悪霊を相手としたものであって、間違っても自分たち神の民の内側に戦いの矛先を向けてはなりません。 ローマ人への手紙9章……救いとは、神さまによってあらかじめ選ばれていることです。救いはもはや人間業によるものではありません。私たちがすることは、そこまでの全能の御手をもって選んでおられる神さまや、そのような神学を語る教師たちに対して、文句を言うことではありません。世界が始まる前から自分のことを特別に選んでくださっている神さまに対し、ただ感謝をすることだけです。 エレミヤ書48章……モアブへのさばきの宣告です。モアブへのさばきは、彼らが礼拝していた神ケモシュへのさばきであることが繰り返し述べられています。ここで、彼らモアブがケモシュのゆえに恥を見ることが、イスラエルがベテルのゆえに恥を見たことになぞらえられています。イスラエルはベテルに金の子牛を据え、それを礼拝したことにより、滅亡が始まりました。まことに偶像礼拝は、主の民にであるなしにかかわらず、主が滅亡をもたらされる重大な要因です。 詩篇25篇……私たちは罪人ゆえに罪を犯します。その罪を、世というものはいちいち覚えていて、私たちをその罪に従って攻撃します。しかし、そのようなとき、私たちには、私たちのことを救ってくださる神さまがいらっしゃいます。豊かに罪を赦していただけることを感謝しましょう。 <祈りの課題>神さまの選びに感謝します。

230 8月18日 Ⅰサム10ロマ8エレ47詩23-24

サムエル記第一10章……この箇所を読むと、油注ぎは、公になるまであえて公言するような性質のものではないことがわかります。神さまは時が来れば、その油注ぎを公にしてくださるわけで、サウルがそうなる前に自分のおじ(アブネル?)に告げなかったのは、知恵ある行動だったと言えます。私たちにも主の油が注がれている以上、主は私たちのことを必ず用いてくださいますが、その御力が臨む前にわざわざ私たちは、自分のことを力ある者のように公言する必要はないわけです。 ローマ人への手紙8章……私たちは神さまのきよさに出会い、そのきよさの法則ゆえにさばかれることを意識してはいないでしょうか。しかし、私たちのさばきはイエスさまがことごとく受けてくださいました。私たちはもはやさばかれることがありません。神さまご自身が私たちの味方でいてくださっています。 エレミヤ書47章……神さまはさばき主です。神さまがひとたびさばきを定められたならば、そこから免れることのできる人はだれもいません。しかし、神さまは私たちを、恵みによって救ってくださいました、そのさばきをイエスさまがことごとく受けてくださり、イエスさまのその十字架の贖いを信じるように、神さまが私たちを導いてくださったからです。 詩篇23篇~24篇……私たちが人生において勝利するには、勝利の主なるイエスさまを自分の心の扉の中にお迎えすることです。心の門の扉を開くのは、私たちの側ですることです。主はいつでも、私たちに勝利を与えてくださることを願っていらっしゃいますが、私たちの側の応答がまず必要になります。心の扉を開き、主をお迎えしましょう。 <祈りの課題>私たちがイエスさまの十字架を信じる信仰ゆえに、神さまのさばきを免れていることに感謝しましょう。

229 8月17日 Ⅰサム9ロマ7エレ46詩22

サムエル記第一9章……サウルにとって、父親のろばをさがしに行き、その行方を尋ねようと先見者のところに行くことは、王として油を注がれることにつながりました。ろばをさがすことは責任の伴うことであり、また危険の伴うことであったので、どれだけ不安だったことでしょうか。そのような中でサウルは、神さまの導きを求める選択をしたわけですが、結局、ろばが見つかっただけではありません。王として、ペリシテの手から救う者として立てられました。彼の果たす責任は父の家だけではなく、イスラエル全家がその対象となりました。私たちも今取り組んでいることはごく小さいことかもしれません。しかし、やがて大きなこと、神の御国を主とともに治めることへとつながっていきます。 ローマ人への手紙7章……私たちにはみな、罪の律法があります。罪を犯させる肉の性質です。私たちは救っていただき、神の律法に従いたいという思いが与えられているゆえ、このような罪の思いが今なお自分の中に存在することに悩み、恥じます。このような私たちですが、それでも神の律法が与えられ、この神の律法にお従いしたいという思いが与えられているのは事実であり、それゆえに罪の中に陥ることから守られていることは感謝なことです。しかし、この神の律法を守り行うとは実際にはどういうことなのでしょうか? ユダヤの宗教指導者が解くようにではありません。イエスさまの十字架を信じよという神さまのみこころに従順にお従いすることです。信じることだけで、何の努力もいりません。 エレミヤ書46章……エジプトの滅亡が預言されています。エジプトは、バビロンの手によって滅亡することが告げられました。しかし、これは単なる国々の栄枯盛衰の物語ではありません。エジプトがさばかれるのは、神の民に特別に神さまが御目を注いでくださっているゆえです。私たちも大いなるみわざをもって神さまが守り導いてくださることを信じ、神さまに感謝しましょう。 詩篇22篇……私たちは時に、自分はだれにも助けてもらえない孤独な存在のように思えてならないことがあるでしょう。この詩篇は、そのような境地に置かれた詩人ダビデの詩ですが、同時にこれはイエスさまの十字架の預言となりました。イエスさまが十字架の上で孤独な戦いをされたのは、私たちのためです。私たちもイエスさまの十字架の勝利によって、勝利をいただいています。 <祈りの課題>...

228 8月16日 Ⅰサム7-8ロマ6エレ45詩20-21

サムエル記第一7章~8章……サムエルは神さまのご命令により、王とはどういう存在であるかを民に示しました。これほどまでに横暴な存在をあなたがたは自分たちの上にいただくのか、ということです。それでもイスラエルは、自分たちの上に王を立ててほしいと懇願しましたが、それは神さまご自身にもうこれ以上、王であってほしくないと願う、きわめて不信仰な態度でした。しかし、神さまはそのような民の態度と選択さえも利用され、至上の王であるダビデをお立てになり、そのすえとしてイエスさまをこの地に誕生させられました。 ローマ人への手紙6章……私たちがイエスさまを主と信じ受け入れたということは、罪に対して死に、神に対して生きるものとなったということです。ゆえに、私たちが選び取るべきことは、死ぬべき罪の行いにもうこれ以上惹かれることなく、主がみことばにおいて示しておられる義の生き方です。私たちは、このみこころにかなう生き方、献身の生き方を選び取ることにより、神さまに喜ばれるものとなってまいりましょう。 エレミヤ書45章……神さまがみこころをもってわざわいを下すことを定められた者たちに対し、それでもみことばを語るということは、どれほどつらく、また悲しいことでしょうか。そのような使命に生きることそのものが大変なストレスとなり、死ぬことさえ意識してしまうかもしれません。しかし、神さまはそのようなご自身のしもべに、最後まで戦いおおせた証しとして、いのちをその戦いの戦勝品として与えてくださいます。私たちもこの日本で宣教すると、反対にあうか無視されるかが大半の反応で、しかも教会の中にさえ問題はしょっちゅう起こるので、そのストレスは大変なものになりますが、神さまは最後まで忍耐する者に永遠のいのち、まことのいのちの祝福を与えてくださいます。信じて日々忍耐しつつ、神さまの祝福をいただいてまいりましょう。 詩篇20篇~21篇……神さまはその御力のゆえにほめたたえられるべきお方です。その御力を神さまは、私たち弱い者に注いでくださいます。私たちは主の御名のゆえに日々苦難にさらされているものです。しかし、私たちは倒されたままでいることはありません。私たちが神さまに祈り求めるならば、神さまは必ず私たちに応えてくださり、その御力をもって私たちのことを助けてくださいます。私たちはこの神さまの御力を、今日どのようにして求めますか。 ...

227 8月15日 Ⅰサム5-6ロマ5エレ44詩19

サムエル記第一5章~6章……ペリシテは神の箱を奪いましたが、それをどうすることもできませんでした。奪って自分たちのものにしようとしたばかりに、たいへんな災難を被(こうむ)ることになりました。彼らは、イスラエルに勝利をもたらすその霊的な力を手に入れたかったのでしょうが、神さまはそのような、偶像のように人に仕える存在ではありません。私たちも、神さまの御前でどのように振る舞っているか、その姿勢が問われます。私たちは神さまを、何かの機会に呼びつけて自分の欲望を満たしてくれるような、しもべのようにしてはいないでしょうか? そのような姿勢で信仰生活を送っているならば、悔い改めるべきです。 ローマ人への手紙5章……私たちは罪人ゆえに、神の怒りを受けるべき存在です。神の怒りを受けるならば、だれも生きることができません。しかし、御父なる神さまは、そのような私たちをご自身の怒りからお救いになるため、イエスさまを十字架につけられました。私たちはイエスさまの十字架を信じれば救われますが、その救いは何からの救いかというと、何よりも、神の怒りからの救いです。 エレミヤ書44章……主を捨てて偶像を拝む者は、その偶像礼拝の結果大いなる栄えを得たと思っていても、主が必ず滅ぼされます。そのことを知っているエレミヤが、偶像礼拝におぼれる者たちにみことばにより警告するのは大変な力を要したことで、どんなに語っても彼らは聞きませんでしたが、それでもエレミヤは語りつづけました。ここに、預言者の忍耐を見ることができます。私たちが生きている世の中も、主の警告のみことばを拒否する限り滅びますが、彼らは本気にして聞くことをしません。それでも私たちがみことばを語りつづけるのは大変な忍耐を必要とすることですが、私たちはどうかその力を、神さまからいただいてまいりたいものです。 詩篇19篇……私たちを教え諭すみことばをお語りになる主は、天地万物を秩序と美をもって統べ治める創造主です。私たちはこの被造物の雄大さに触れ、このお方の御前にひれ伏し、このお方の語られるみことばゆえに従順にお従いすることを願うのです。私たちの周りには今日も、被造物の雄大な世界が存在し、活動しています。これらの被造物に目を留めて、創造主に思いをはせ、創造主のご存在とそのみことばの前に、今日もひれ伏しましょう。 <祈りの課題>私たちをイエスさまの十字架によっ...

226 8月14日 Ⅰサム4ロマ4エレ43詩18

サムエル記第一4章……イスラエルは自分たちの陣営に勝利をもたらそうとして、神の箱を戦陣に持ち込みましたが、結果、大敗を喫し、祭司ホフニとピネハスは殺され、神の箱は奪われました。つまり、この戦いにおいては、神の箱の神通力に拠り頼もうとしたイスラエル軍の浅はかさが露呈してしまったばかりではなく、致命的な被害を負ってしまったわけでした。これは私たちにとっても警告の記述ではないでしょうか。私たちは神さまの栄光と関係なく、自分の栄光のために神さまの御名を利用しようとすると、痛い目に遭います。神さまの御名は人間的に利用されるような、軽薄なものではありません。 ローマ人への手紙4章……私たちはアブラハムのことを「信仰の父」と呼びます。アブラハムは律法が与えられる以前、まさしく、信じることで義と認められるというみこころにかなうものとなりました。私たちもアブラハムにならうものであり、膨大にして複雑な聖書のみことばをすべて守り行うことによって救っていただくのではなく、イエスさまの十字架を信じる信仰によって救っていただきます。私たちはユダヤ人ではなく異邦人でしたが、この信仰による救いに入れられ、神の子どもとしていただきました。 エレミヤ書43章……エレミヤを抱き込もうとしたユダの者たちはエジプトに拠り頼むことでいのちを長らえようとしましたが、エジプトの実体は、創造主なる神さまではない、神々に仕える異教の宗教的な国家であり、彼らはエレミヤの宣べ伝える神さまよりも、異教の神々の庇護を受けようとした、ということになります。しかし、主のお許しによって放たれたバビロンの王ネブカドネツァルは、エジプトとその神々を完膚なきまでに滅ぼすと、エレミヤは宣告します。神さまに従順にお従いすることは、ときに自分にとって我慢できないようなプロセスを経るように思えても、お従いすべきときにお従いしなければなりません。さもなくば、その拠り頼んでいた神ならぬものともども、手ひどく損なうことになりかねません。 詩篇18篇……私たちは神につく者ですが、時に私たちは、神の敵の手によって手ひどく痛めつけられることがあります。しかし私たちには、武器よりも強力な対抗手段があります。それは、すべてを統べ治めていらっしゃる創造主なる神さまに叫び求めて祈ることです。神さまは私たちの叫ぶ祈りにこたえてくださり、私たちを痛めつける、すなわち、...

225 8月13日 Ⅰサム3ロマ3エレ42詩17

サムエル記第一3章……主がサムエルを預言者としてお立てになるにあたっておしめしになった最初の預言は、エリを師と仰いできたサムエルにとって、とてもつらいものではなかったでしょうか。しかし神さまは、人間的な常識ではまだ幼いと見なされるような少年に対して、もう充分にみことばを取り継げる、それも霊的な師に対しての警告のことばでも取り継げると思し召されたからこそ、サムエルにこの厳しくもつらいみこころをお示しになったのでした。私たちも、自分はまだ経験がないとか、若いなどといって、主のみことばを取り継ぐことをためらってはいないでしょうか。しかし、主がひとたびみことばを授けてくださったならば、私たちの状態がどうあれ、私たちはみことばを取り継ぐべきなのです。 ローマ人への手紙3章……私たち人間は律法を守り行うことによってではなく、イエスさまを信じる信仰によって、神さまに義と認めていただきます。しかしだからといって、律法が無効になったわけではありません。私たちが信仰によって義と認められるということにより、律法は確立するのです。だから私たちは、信仰があるからと、律法を無用にするようなことをして、たとえば旧約聖書(もしかすると新約聖書も)を読まないで済ませるようなことをしては絶対にいけません。私たちが信仰によって確立していただいたみことばとして、ますます旧新約聖書全体を大切にしたいものです。 エレミヤ書42章……ユダの残りの者たちは、どうしてもエレミヤの口から、生き残るためにバビロンではなくエジプトに落ち延びよとの託宣を聞きたがりましたが、そのような態度でいることそのものが不従順であり、その態度ゆえに相応のさばきを受けることがエレミヤから告げられました。主のみこころははっきり決まっていて、彼らがそれを知らなかったはずがありません。それなのにこの期に及んで、自分たちの聞きたいようにみことばを聞こうというのでしょうか。私たちにもそういうところがないか、よく考えましょう。いわんや、自分たちにとって耳ざわりのいいみことばを聴こうと、群れの指導者をコントロールしようとする信徒は、どんなお取り扱いを主から受けることか、恐れ、もしそのようなことをしかけているならば、即刻悔い改め、正しくみことばに聴き従いましょう。 詩篇17篇……詩人ダビデは主に向かい、自分の祈りを聞いてくださるようにと、何度も祈っていま...

224 8月12日 Ⅰサム2ロマ2エレ41詩15-16

サムエル記第一2章……ハンナはサムエルを主にささげ、親子で離れて生活しましたが、それでもハンナは、毎年の祭りの日に備え、サムエルのために小さな上着をつくってあげるのを常としました。ここに母の祈りを見ることができないでしょうか。子どもというものは決して親の所有物ではなく、神さまのものですが、しかし親は、子どもがいかに神さまのものであったとしても、子どもが健やかに成長するために最善を尽くす必要があります。ハンナが決してサムエルのことを見捨てていなかったどころか、祈り心をもって上着をつくってやったように、私たちも子どもたちを主にささげながらも、祈りのうちにできるかぎりのことをしてあげたいものです。 ローマ人への手紙2章……クリスチャンはただ単に罪赦されたものにとどまらず、罪赦されたその生き方を人々に対して示す存在です。しかし私たちはなんと、他人の罪に不寛容である一方で、自分の犯す罪には驚くほど寛容なのでしょうか。そのような者に下る神の怒りを、私たちはあまりにも甘く見ています。そんな私たちに必要なのは、その世に神の怒りに値する自分であることにおののき、日々徹底した悔い改めの祈りを神の御前にささげることです。 エレミヤ書41章……イシュマエルの起こしたクーデターは、一見すると、もともとが神の民の敵であったカルデヤ人(バビロン)に対抗する行動のようですが、実際はユダの亡国に乗じて乗っ取りを計る、やはり神の民の敵であるアンモンの手先になることであり、少なくともユダを神のみもとに奪還する行動とは程遠いものです。そのようなよこしまな動機は、彼の取ったきわめて残忍な行動に表れています。現代における神の民の共同体は教会ですが、徳にならないリーダーシップを「発揮」して自分の好きなように教会をかき回す人というのはいるものです。私たちは主のご栄光を顕すという、クリスチャンとしての生きる目的をつねに見失うことなく、イシュマエルのようなよこしまな者から教会という主の共同体が守られるよう、祈って取り組んでまいりましょう。 詩篇15篇~16篇……主が私たちに与えてくださる割り当ての地、ゆずりの地は好ましく、素晴らしいものです。では、私たちにとっての割り当ての地、ゆずりの地とは何のことでしょうか。それは、この地上のあらゆる物質的なものを超えた、主ご自身です。ふつう人は、主ご自身が割り当てられるという恵み...

223 8月11日 Ⅰサム1ロマ1エレ40詩13-14

サムエル記第一1章……ハンナは悲しみの中にいましたが、祈り、答えをいただいたら、その顔はもはや以前のようではなかったと、みことばは語ります。私たちが祈るときに必要なのは、その祈りが応えられるという信仰です。その信仰をもって祈るならば、私たちの顔は、もはや以前のようではなく、喜びに満たされ、主の栄光を映すようになります。私たちは落ち込んだ顔、怒りに満ちた顔をしていてはなりません。喜びに満ちた者となるためにも、信仰をもって主の御前に進み出ましょう。 ローマ人への手紙1章……被造物である人間が神を神として認めないゆえ、神の怒りが天から啓示されました。その怒りの表れは、人間が性的に乱れた状態になることを放っておかれるということです。人間はその恥ずべき状態の中にのめり込み、ますます神さまから離れるようになります。神を離れた世界はそのような性的乱れを素晴しい文化のように称えますが、少なくとも私たちクリスチャンは、そのような性的文化に対する称賛に、断固としてノーを突きつけなければなりません。 エレミヤ書40章……列王記第二25章に記録されているゲダルヤに関する記録が、ここではより詳細に語られています。ゲダルヤはヨハナンの忠告を聞かなかったばかりに、イシュマエルの凶刃に倒れることになりますが、このことは、イスラエル再建という大事なプロジェクトにおいて、裏切る者は近しい関係の中にいたことを示しています。私たちは宣教と教会形成をするにあたり、充分にお互いを信頼できなかったならばそれは悲しいことですが、ふさわしい教会を立てるために、時に「蛇のようにさとく」人を見分ける力が必要になります。 詩篇13篇~14篇……私たちが敵に勝ちを与えることは、私たちにとっての屈辱である以上に、主のご栄光がいたく損なわれることです。私たちはそれゆえ、つねに敵に対する勝利を祈り求めなければなりません。私たちにとって、主のご栄光をけがす敵のような存在は、いつでも私たちの周りを取り囲んでいるのではないでしょうか。私たちがそのような者から守られ、主のご栄光が私たちの勝利を通して現されますように祈りましょう。 <祈りの課題>性的に乱れるこの社会において私たちがきよく守られ、私たちの従順の生き方が世によい影響を与えていくことができますように。

222 8月10日 ルツ3-4使28エレ39詩11-12

ルツ記3章~4章……人生経験が豊富なナオミは、ボアズがルツについてことが定まるまで落ち着かないだろうと読んでいました。おそらく、ボアズがルツに取りつづけた一連の行動から、ボアズはルツに気があるのではないかと察したのではないでしょうか。しかし実際のボアズは、自分の欲望のとおりに行動したのではなく(打ち場にはだれもいなかったので、ルツに対してどんなことでもできたにもかかわらず、ルツに指一本触れずに送り出した)、主のみこころどおりに行動しました。そうしてめでたく結婚し、やがてその子孫からダビデが生まれたのでした。おそらく多くの兄弟姉妹が、結婚ということを覚えて祈っておられると思いますが、はやる感情をみことばへの従順により抑えることができるならば幸いです。 使徒の働き28章……私たちがみことばを宣べ伝えるとき、しるしが伴うということはあるものです。そのようなとき、人々はその力を与えてくださったお方である神さまよりも、むしろ私たちのほうに注目し、私たちのことを神のように扱うかもしれません。しかしこのときパウロが粘り強くマルタ島で宣教したように、私たちも表面的な誤解をものともせずに、みことばを語りつづけてまいりたいものです。もし、みことばを聞く人たちが、私たちを霊的な存在とみなしてくれるならば、それは宣教するにあたって大きなプラスとなるはずです。 エレミヤ書39章……ついにユダはバビロンの手に陥落し、エレミヤを通して語られた警告のことばは実現しました。このことでエレミヤもまた、いのちが危険にさらされることになりましたが、主ご自身がエレミヤに対して、ご自身への信頼の報酬としていのちを戦利品として与えると約束してくださいました。みことばはこの世界にわざわいが臨むことを予告し、そのわざわいは私たちにも例外なく臨みますが、私たちはそのような中にあっても守っていただくべく、主の御名に信頼してまいりたいものです。 詩篇11篇~12篇……主は正しい者も悪者も「調べられる」お方です。私たち人間の言動はことごとく、主に見通され、調べられています。私たちがふと思ったことも、つい口にしたことも、何もかもです。私たち人間がそのような存在であり、主の御前から逃げ出すことができないならば、いっそのこと、私たちのほうからつねに主にお近づきし、主の御前に徹底して生きることを選択してはいかがでしょうか。主はその...

221 8月9日 ルツ2使27エレ38詩10

ルツ記2章……ボアズのルツに対する特別な配慮を見ましょう。これは、神さまが私たちに注いでくださっているおこころの象徴ともいうべきものです。特に注目すべきは、ルツが少しでも落穂拾いの成果を得られるように、束の間からわざと穂を落とすようにとボアズが命じたことです。これはもはや「落穂」ではなく「落とされ穂」です。神さまはそのように、本来ならば私たちの望むべくもなかった救いという恵みを、特別に私たちのために落としてくださったのでした。 使徒の働き27章……一幅の冒険物語のような章です。ここでほんとうのリーダーシップを発揮したのは、船主や船長や百人隊長ではなく、囚人だったパウロでした。しかしパウロは囚人ではあったものの、特別に一目置かれていた様子がこの箇所から伝わってきます。特に注目すべきは、パウロは神さまからの特別な語りかけがあったゆえに、船に乗った者たちが全員助かると確信し、そのようにみなを励ましたことです。主はいざというとき、主のしもべを用いて多くの人のいのちを救われます。私たちもそのように用いられたいと願いますでしょうか? そのときはいつ来るかわかりません。祈りつつ備えましょう。 エレミヤ書38章……エレミヤは、ゼデキヤ王の優柔不断な態度により、泥の穴に落ち込むというひどい目に遭いました。しかしそこから助け出され、エレミヤはゼデキヤ王にみことばを語るに至りました。果たして、ゼデキヤの政治が正しかったのか、エレミヤのことばが正しかったのか、答えは明らかです。神さまはこのようにして、まことのリーダーシップはだれにあるのかを明らかにしてくださいました。私たちは決断を迫られるとき、優柔不断になってはいないでしょうか、それとも、語るべきことを大胆に語っているでしょうか。 詩篇10篇……悪しき者はなぜ悪しき者なのでしょうか? それは、弱い立場にある者を虐げて飽くことを知らないからですが、根本的な理由は「神はいない」とうそぶくからです。生活のただ中で徹底して神を認める生き方をしない者は、悪しき者、傲慢な者になるしかなく、そのような者の結ぶ実はひどい生活です。私たちはそのような生き方をしている者の表面的に敬虔に見える言動にだまされてはなりません。私たちこそ主を恐れ、その態度にふさわしい生き方をこの世に示していきましょう。 <祈りの課題>私たちが混迷するこの世において、ふさわしくリーダ...

220 8月8日 ルツ1使26エレ36-37詩9

ルツ記1章……ルツの選択は、創造主なる神さまを神とする生活に身を投じることであり、それは落穂拾いの異邦人の身になることで、人間的に考えれば、モアブに住むよりもはるかにつらい選択をすることでした。しかし、ほんとうにつらいことは、エリメレクとナオミの一家が信じお従いした神さまから離れ、モアブの神々のもとに行くことだとルツは知っていました。私たちもまことの神さまにお従いするゆえに、厳しい選択をすることがあります。しかし、神さまは必ず、その選択を大いなる祝福に変えてくださいます。 使徒の働き26章……アグリッパ王にとっては、パウロは「罪人(ざいにん)」として拘留するような者ではありませんでした。そのことは聡明なパウロにはわかっていたはずです。それでもパウロはカエサルに上訴することにより、囚人として生きることを選択しました。結果として、そうすることでパウロはユダヤ人の暴徒たちの手から守られ、生きつづけて、書簡を用いて遠隔的に諸教会を指導することができたのでした。私たちは近視眼的な選択をしてはなりません。主にあってふさわしい選択をすることができるように、祈ってまいりましょう。 エレミヤ書36章~37章……主のみことばを語る者は、大いなる迫害にあうものです。私たちは主にお従いすることの代価を、この世的な祝福(金銭や人間関係における豊かさのようなもの)と捉えるような現世利益的発想で理解してはなりません。かえって、イエスさまの御跡を十字架を背負ってお従いするような厳しい道です。しかし、エレミヤがあえてその道を選び取り、どのような迫害にあおうとも王たちの前でみことばを語りつづけたように、私たちも主の恵みの中で、あえて厳しい道に踏み出していくことができるならば幸いです。 詩篇9篇……私たちは時に、自分が神さまから見捨てられたと思えてならないときがあるのではないでしょうか。しかし詩人ダビデは、主を求める者を主はお見捨てにならない、と歌います。私たちは窮地に陥ったとき、すべきことは嘆くことではありません。主の御名を徹底して呼び求めることです。そのとき私たちは、私たちに御手を伸ばしてくださる、生きておられる神さまのご存在を体験することができます。 <祈りの課題>いざというときにみこころにかなった選択をすることができるよう、つねにみことばに耳を傾ける私たちとなることができますように。

219 8月7日 士21使25エレ35詩7-8

士師記21章……イスラエルは民族からベニヤミン部族がかけないように配慮しましたが、そのために取った行動は相当に乱暴なものでした。そのような手段を取らざるを得なかったのは、残る11部族から嫁がせるならば呪われると神に誓いを立てていたからでしたが、ここに彼らの葛藤を見ることができます。ベニヤミン部族はさばかれるべき、しかし同時に守られるべきという心情の間を、全イスラエルは揺れ動きました。しかしいずれにせよ、ベニヤミン部族は守られ、その部族からイスラエルを治めるサウル王が起こされたのは、主の特別なお取り計らいによることでした。 使徒の働き25章……この章は基本的に、パウロの裁判をめぐる権力者どうしのやり取りで構成されていますが、一見すると極めて不自由な立場に置かれていたパウロは、かえってこのように守られていたことにより、社会に対して影響力のある場所において堂々と福音を語る機会が与えられていたといえます。しかしこれはカエサルに上訴することを希望したパウロの選択による結果でした。どのような状況に置かれても福音を宣べ伝えるために最善を尽くす姿勢を、私たちはここに見ることができます。私たちもいざというときに取るべき選択をすることができるように祈ってまいりたいものです。 エレミヤ書35章……自分たちの言い伝えは後生大事に守り行なっても、いざ神さまからみことばが与えられたときにはそれを守らない……この時代のユダヤはまさにそのような状況にありましたが、私たちもひとつ間違えれば、そのような、従順の対象を取り違える罪を犯すことにもなりかねません。そのような罪を犯すのは、心の状態が主の御前に正しくなく、悪いからです。私たちは主への従順を果たすために、いついかなる時もきよめをいただいていく必要があります。 詩篇7篇~8篇……詩人ダビデは、自分の敵に対するさばきを主に祈り求める前に、まず自分のことを主のさばきの座に差し出し、公正であるように祈っています。私たちは主のさばきの前に立ちおおせるでしょうか? しかし主が、人が御前にてきよい者であることを願われるゆえ、私たちはさばき主のさばきに耐えられるように、日々イエスさまの十字架の血潮によるきよめをいただいていく必要があります。私たちの罪は緋のように赤いです。しかしイエスさまは、私たちの罪を雪よりも白くしてくださいます。きよめ主なる主の御前に、日々自...

218 8月6日 士20使24エレ34詩5-6

士師記20章……イスラエル民族の中の悲惨な内戦の様子です。これはベニヤミン族に対するさばきのゆえということができますが、このようなことが起こったのは元をたどれば、イスラエル全体が、それぞれ自分の目にかなう好き勝手なことを行なっていたことに起因します。サタンの方法は、主にあってひとつであるべき神の民に罪を犯させ、その罪の取り扱いをめぐって不和と分裂と争いを生じさせ、もはや神の御前で民がひとつになれないようにさせることです。私たちはそのような策略から自由になり、罪はどんな罪でも悔い改め、民が主の御前にひとつになれるように祈り、努める必要があります。 使徒の働き24章……フェリクスとその妻は、キリストを信じ受け入れる機会が与えられていました。しかし、パウロが正義と節制と来るべきさばきを含め、ストレートにみことばを語ると、フェリクスはそれ以上パウロから伝道されることを拒みました。これは、聴く側の問題でした。結果としてフェリクスはイエスさまを受け入れませんでしたが、パウロはそれでも伝道を全うしました。伝道における成功はイエスさまを信じさせることではありません。聖霊の力によってキリストを伝えることさえできれば、伝道は成功なのです。 エレミヤ書34章……ゼデキヤとユダの家は、一度は主を恐れて従順の実践を誓っても、いざとなるとその決定を翻しました。その裏切りに対する主の怒りは極めて激しいものでした。私たちの主は侮られるお方ではありません。私たちは従順を願うならば、最後までその道を曲げずに歩むことができるように、主の助けを徹底していただいていく必要があります。 詩篇5篇~6篇……私たちは泣くほどうめき、衰えることもあります。しかし、神さまはそのような私たちの、声にならない声を聞いてくださいます。私たちがどのような状況に陥っても倒れて起き上がれなくなることがないのは、主が、私たちが何によって傷つき衰えているかをよくご存じで、それに従ってみわざを行われ、私たちを立ち上がらせてくださるからです。いま、私たちが悩みの中にいるならば、ためらうことなく主に叫びましょう。 <祈りの課題>私たちが主の御前に決心することを、最後までやり遂げる力を主が与えてくださいますように。

217 8月5日 士19使23エレ33詩3-4

士師記19章……かつてアブラハムの時代、ソドムとゴモラに起こったことをそっくりそのままベニヤミン族の男たちが繰り返しています。いや、ここでは殺人さえ起きているのだから、ソドムのできごとよりもひどかったと言えるでしょう。聖書に記録された、目をそむけたくなるような罪のできごとの数々は、私たち主の民にとっては関係のないものでいてほしいですが、実際は、そのような醜い姿は、私たち罪人を映す鏡にもなっています。私たちが悲惨な罪を犯すことなく生きていられるのは、ひとえに主の豊かな恵みのゆえです。 使徒の働き23章……もし、パウロがこのときに殺されていたならば、獄中書簡や牧会書簡が書かれることはありませんでした。パウロに手をかけようとする者たちは、のろいをかけてまでして殺すことを誓ったりと、それがみこころのように信じ切っていましたが、神さまのほんとうのみこころは教会を世の終わりに至るまでも養うことであり、そのためにパウロはこのとき殉教してはならなかったのでした。人はいろいろなことを考えますが、ただ、主ご自身がそのご栄光を現されるみこころだけが成ります。 エレミヤ書33章……主の民を回復されるというみこころは、昼と夜が交代でやってくるのと同じくらい確実なことであると神さまはご自身はお語りになりました。このときエレミヤは、亡国を目の当たりにして、どれほど意気消沈していたことでしょうか。しかし、そのようなエレミヤ自身からまず回復を体験するためには、何よりも確実な約束のみことばを聞く必要がありました。私たちにとっても現実は無視できない大事なものですが、それ以上に大事なのは、変わることのない神さまのみことばです。 詩篇3篇~4篇……私たちはイエスさまの十字架を信じる信仰により、聖徒としていただいた存在です。神さまはそんな私たちのことを、特別に扱ってくださっています。それは、神さまを呼び求めると聞いてくださる、ということにおいてです。私たちはこの特権が与えられていながら、神さまを呼び求めないで済ましてはいないでしょうか。いつでも神さまを呼び求め、神さまに応えていただける祝福を私たちがみな体験してまいりますようにお祈りします。 <祈りの課題>私たちがもし何らかの理由で落ち込んでいるならば、主がそこから回復を与えてくださり、その回復の御業をとおしてご自身のご栄光を現してくださいますように。

216 8月4日 士18使22エレ32詩1-2

士師記18章……ミカの家の祭司はもともとが間違った選択をしていましたが、それに加え、ダン族の妻子となるという二重のあやまちを犯しました。その選択の根拠となったことは、ダンという部族全体の妻子となるといいという誘惑です。結局、このことがみこころにかなわなかったのは、ダン族が土地を得たのち、その地に「自分たちのために彫像を立てた」ことから明らかです。私たちも事を起こそうとするとき、問われるのはその動機です。私たちは主のために事を起こすのでしょうか、それとも自分の欲望のためでしょうか。時が来ればそれは白日のもとに明らかにされます。 使徒の働き22章……パウロは語る機会が与えられたとき、躊躇することなく、自分の救いと召命の証しを語りました。その結果がたとえ更なる迫害の到来であったとしても、パウロは自分が主を迫害した罪人であったこと、しかし主がそのような生き方からキリストの証人へと自分を作り変えてくださったことを雄弁に語りました。パウロは機会さえ与えられれば、このように証しをする備えをつねにしていたのでした。私たちも救いと召命の証しをつねに備え、いついかなるときにも語る者とならせていただきたいものです。 エレミヤ書32章……神の民が偶像礼拝に陥ることは主の願っておられることでも、みこころでもありません。それは主のみこころへの不従順であり、反逆です。もし人が主の民である名乗るならば、少なくともその人は、主が自分に望んでおられるみこころをよく知り、そのみこころから外れない生き方を選ぶことです。私たちは主のみこころが何であるかを知っているならば、主の恵みによって従順の道を歩めるように祈ってまいりたいものです。 詩篇1篇~2篇……この世界で幅を利かせる権力者、思想、基準……それらのものはみなこぞって、私たちが「イエス・キリストの父なる神さま」を礼拝することを、あたかもかせや綱につながれた不自由なこと、すなわち悪いことであるかのように喧伝し、そこから自由になること、すなわち神さまに対してあからさまに不従順になることを人々に推奨してやむことを知りません。それが私たちの生きる世界というもので、私たちはそのような中でかえって不自由な思いを味わいますが、私たちは、そのような地上の者たちの営みを笑い、怒りをもって彼らのことをおさばきになる主にこそ目を留め、主を恐れる者でありたいものです。 <祈り...

215 8月3日 士17使21エレ30-31マコ16

士師記17章……それぞれが自分の目によいと思えることをすることは、宗教的な態度にも反映されます。家庭内でどろぼうを行い、それを元の持ち主である母親に返したら、今度はそれで偶像をつくらせるようなミカの家庭は、勝手に主の宮をつくり、祭司を任命するような者たちでした。見えるところが敬虔であればいいのではありません。敬虔を利得の手段にするような姿勢は、忌まわしいものです。私たちの主にお従いする姿勢は、このような自己中心によるものであってはなりません。自分の目によいと思う信仰の姿勢から自由になるためにも、私たちは教会に所属し、教会中心の信仰生活を送る必要があります。 使徒の働き21章……主のしもべが十字架の道を歩み、そのいのちさえも犠牲にしようとしているのを見るのは、教会に属している者たちにとっては忍びないものです。なんとしてでも犠牲になるような道を歩まないように引き留めようというものです。しかしこのときパウロは、引き留める者たちを諫め、主イエスさまの名のために死ぬことも覚悟していると語り、彼らを黙らせました。私たちも教会の人たちのことを思うと、十字架の道に踏み出すことに躊躇してしまわないでしょうか? しかし、イエスさまがお語りになった一粒の麦のたとえを想起しましょう。教会が働き人のためにとりなして祈るべきは、いのちが守られることであるのはもっともですが、それ以上に、その働き人の生き方をとおして主のご栄光が豊かに現されることではないでしょうか。 エレミヤ書30章~31章……神さまはご自身の民を建て直されます。それは、新しい契約を民と結んでくださることによってです。新しい契約は、過ぎ去っていく律法の文字(もんじ)によるものではなく、御子イエスさまご自身がもたらしてくださるものです。私たちがイエスさまの十字架を信じる信仰によって結んだ契約は、私たちの心に書き記されています。つまり、私たちにいのちあるかぎり有効なものです。決してお見捨てになることのないイエスさまに結ばれていることに感謝し、生涯お従いしましょう。 マルコの福音書16章……マルコの福音書には結びが2つありますが、一方は、宣教をイエスさまがご自身が行われたと語り、もう一方は、宣教を弟子たちが行なったとあります。これは、主のみことばを宣べ伝えるということにおける二面性を語っています。私たちがイエスさまの十字架のみことばを宣...

214 8月2日 士16使20エレ29マコ15

士師記16章……サムソンの愛した女が敵に通じていたために、隙を突かれたサムソンは両目をえぐり出されて敵の意のままにされました。しかし、主はサムソンを負けたままになさらず、ナジル人の象徴である髪を伸ばされることによって、サムソンに再びチャンスを与えられました。サムソンは死にましたが、その死は主の敵に途方もない打撃を与えてのものでした。私たちも罪を犯して打撃を受けることがありますが、神さまはその上を行かれ、私たちに勝利をもたらされることによってご自身の栄光を現されます。 使徒の働き20章……主の働き人は最善を尽くして群れを主のみに献身させますが、それでもいつかはその群れを離れ、自分が導いてきた働きを手離すときがやってきます。それは、凶暴な狼のごとき攻撃者がやってこようとも、どう振る舞うかを群れの後継指導者の選択に任せるということであり、それは大局的に見れば、彼らのことを「神とその恵みのみことばにゆだね」るということです。私たちはいつでもその決断ができるように、今与えられている教会形成の現場において最善を尽くす必要があります。 エレミヤ書29章……主の民はバビロン捕囚というものを、わざわいではなく、いのちと平安を与える主の計画として受け入れる必要がありました。主のご計画はしばしば、人間的な目から見ての祝福と大いに異なることがあります。しかし私たちは、自分にとってよいことが起こらなかったとしても、主のみこころがなるならば、それで喜ぶ必要があります。私たちにとっての喜びはいつでも、主のみこころがなることであるべきです。 マルコの福音書15章……ピラトはイエスさまを十字架につける決定を下しただけではありません。まるでだめ押しのように、イエスさまをむちで打ちました。神の子さえも好き勝手にできるかのように振る舞う、神をも恐れぬ行為です。時折、ピラトはやむにやまれずイエスさまを十字架につけたなどと、ピラトを弁護するような言説に出会いますが、このようなピラトの行為は一言も弁護のしようもありません。しかし、弁護のしようのない罪を犯す罪人であるという点では、私たちも同じです。私たちが使徒信条を告白するとき「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と唱えますが、それはイエスさまの十字架が歴史的事実であり、ローマの権力のもとに執り行われたということを言い表すのとともに、ピラトのごとき弁護できぬ罪...

213 8月1日 士15使19エレ28マコ14

 士師記15章……ユダの者たちは士師ではなく、ペリシテ人を君主と抱くような負け犬根性の中にありました。主はそのような敗北感に支配されたユダを目覚めさせるため、サムソンをお用いになりました。サムソンのもたらした大勝利はユダの勝利であるとともに、神さまの勝利でした。私たちの弱いものであることを自覚する必要がありますが、主は私たちのことを弱いままに留め置かれません。必ず大いなる勝利を与えてくださり、精神的にまで敗北感に支配されているような私たちを目覚めさせてくださいます。 使徒の働き19章……パウロがアジアで展開した宣教は、魔術を行う者たちを大勢主のもとに立ち帰らせたような、霊的な戦いです。彼ら魔術を行なっていた者たちは過去と決別したしるしとして、売れば銀貨50000枚にもなる高価な魔術書を、売ったのではなく、焼き捨てました。売ったならばその魔術書をだれかが手にしてオカルトの罪に手を染める可能性があるわけで、それを惜しげもなく焼き捨てたことは、過去への決別と悔い改めという意味とともに、だれにも罪を伝染させないという意味もあったわけです。私たちも罪を悔い改めるときに、このような徹底した悔い改め、人にも罪を犯させまいとする悔い改めに至っているでしょうか。 エレミヤ書28章……預言者が主の御目に認められるのは、その取り次いだとされる預言がほんとうに成就したときだけです。預言は、一部の権力者がその権力が行使されるとおりになるようにするためのプロパガンダの類では決してないのですが、預言というものはなんと、そのような人間的な権力の「霊的お墨付き」のような扱いを受けてきて、主の御名の栄光はいたく損なわれてきたことでしょうか。私たちはそのように主のみこころを粗末に扱ってはなりません。エレミヤのように、権力者が主のみこころを曲げて反抗するようなことがあろうとも、変わらずにみこころを語りつづける者でありたいものです。 マルコの福音書14章……大祭司の裁判は、イエスさまを死刑に処することなどできませんでした。どんな証言も一致しなかったからです。しかし大祭司は、イエスさまを死刑に処するための奥の手を持っており、それを行使しました。イエスさまが神の子キリストであると、主ご自身の御口から証言させたのでした。イエスさまなら当然そう証言されることを知っての上でのことでした。しかし、その結果イエス...

212 7月31日 士14使18エレ27マコ13

士師記14章……主はイスラエルに敵対する民族ペリシテと事を起こすため、サムソンをお用いになりましたが、この箇所を読むと、サムソンはしたい放題のことをしていることがわかります。獣の死体に触れてそこから食べ物を取るなど、してはいけないことですし、その一連の不思議なできごとをなぞかけにすることも、それを女性の情にほだされて解き明かしてしまうことも、なぞかけに負けたために大量虐殺に手を染めることも、どれをとってもイスラエルの士師にふさわしい行動とは言えませんでした。主は私たちを用いてみわざを行われ、ご自身の栄光を現されますが、そのように主の器となっている私たちは、何をしても許されるとばかりに勝手に振舞ってはなりません。何事もふさわしい行いというものがあり、主はその行いの基準を、みことばによって示していらっしゃいます。 使徒の働き18章……アテネに続くパウロによるギリシア宣教の地はコリントで、この地での働きは1年6か月の長きにわたりました。この地にてパウロは、ローマ出身のディアスポラユダヤ人、アキラとプリスキラの夫婦という同労者を得ました。この夫婦を宣教の同労者にしながら、パウロもまた彼らにとっての糧を得るための仕事を手伝いました。このような強い協力関係が、宣教と教会形成を前進させます。私たちの教会において、そのような教職者と信徒の強力な関係は成り立ち、宣教と教会形成は前進していますでしょうか? エレミヤ書27章……まことの主のみこころは、主の民ユダがバビロンに捕らえ移されることで、主を捨て去り偶像礼拝におぼれた彼らを懲らしめられることでした。しかしユダの宗教指導者たちは、この期に及んで主のみこころを曲解し、ユダの地にとどまることがみこころであると主張し、そのように語らないエレミヤを偽預言者扱いしました。どの時代においても、本物の主のみこころを語る者は迫害を受けます。私たちもそうではないでしょうか? しかし、いかなる目にあうとしても、主は私たちを用いてそのご栄光を現し、主のしもべとしての生き方を全うする私たちには、永遠のいのちの冠を与えてくださいます。 マルコの福音書13章……イエスさまが再びこの地に来られるときは、イエスさまご自身も知らないと言っておられます。しかしこれはイエスさまも全能ではないということではなく、その再臨の時刻、終わりの時刻がいつかということに対して、イエ...

211 7月30日 士13使17エレ26マコ12

士師記13章……ナジル人は体内にいるときから、身ごもった親が口にするものなどに気をつけて過ごすように主から命じられています。こうして生まれたのがサムソンなわけですが、このできごとは、結婚して子をもうける夫婦が、その生まれる前から子どもを主のしもべとしてささげる、信仰の実践へと適用することができます。まことに、子どもは体内に授かった時点でひとつの人格であり、その生まれる前から親は、その子どもが主のものであることをしっかり認識して育んでいく必要があります。 使徒の働き17章……ベレアのユダヤ人たちの姿勢をご覧ください。パウロの語ることばを受け入れるのみならず、そのとおりかどうか毎日聖書を調べたとあります。まことの信仰の成長、教会の成長は、日曜日に聖書の解き明かしを聞いてさえいればそれでいいという人によるものではありません。みことばの解き明かしを聞いたならば、その裏付けとなるみことばをしっかり自分のものとする作業を怠りなく行うこと、これが大切です。 エレミヤ書26章……こんにちの日本においては、みことばを語ったからといのちが危険にさらされることは、基本的にはありません。しかし、みことばを正しくまっすぐに語るということは、本来、いのちを危険にさらすということです。私たちは信仰の先達や世界各国で宣教に献身している兄弟姉妹のことを心に留めたいものです。エレミヤは死をもいとわずみことばを語りましたが、私たちはみことばを語るにあたって、何を差し出すでしょうか。 マルコの福音書12章……貧しい寡婦が献金したできごとについてですが、イエスさまが献金の「多寡」ではなく「率」を問題にしておられると読み取るのは浅はかです。第一にこれは、イエスさまが、貧しい寡婦のような社会の最底辺で苦しむ人に慈しみの目を注がれ、その人の完全な献身を最大限のことばでほめておられるということであり、私たちもそのように慈しみとあわれみの心を持ち、寛大であるようにとのチャレンジと受け取るべきです。私たちは持てるものを手離してでも、社会の底辺に追いやられた人たちをケアしているでしょうか? イエスさまは表面的な宗教心になど興味を持たれず、私たちの実践を問題にされます。 <祈りの課題>私たちの周辺にいる(はずの)困窮した人たちに注がれた主のまなざしをわがものとし、私たちもそれ相応の隣人愛の実践ができますように。

210 7月29日 士12使16エレ25マコ11

士師記12章……エフタはイスラエルの中のもめ事を暴力的な方法で解決しようとし、それは内輪もめの様相を呈していました。その解決には時に大量虐殺が伴い、ここにエフタの残忍さを垣間見ることができます。主の民のリーダーにほんとうにふさわしいかどうかは、このように内輪に問題が起こったときどのように対処するかにかかっており、その対処は時に、リーダーの人格がみこころにかなっているかどうかをあぶりだしにします。私たちのリーダーの人格陶冶のために祈ってまいりたいものです。 使徒の働き16章……マルコと決別したパウロにとって、宣教旅行の途上でのテモテとの出会いは「天与の出会い」ともいうべきものでした。マルコの育成にいわば「失敗」した分、パウロは特別な愛情をこめてテモテを育成したに違いありません。私たちにもそのような「師弟関係」を築ける人が与えられるように祈ってまいりましょう。 エレミヤ書25章……主の与えられた地にとこしえに住むことができる条件は、主の御声に聴き従うことです。しかし、神の民はそれを拒み、偶像に仕えるという選択をしたゆえ、主は彼らをご自身の約束の地から移されました。私たちがこのことから学ぶことは、主は侮られるお方ではない、私たちの不従順の罪は必ずその実を極めて不利益な形で刈り取らされる、ということです。私たちはそのことを本気で信じて、主を恐れていますでしょうか? マルコの福音書11章……祈ったらそうなるという信仰のとおりにかなうことについて。イエスさまはこのとき、神の時を知らずにいたために滅ぼされる御民になぞらえ、いちじくの木にみわざを行われました。祈りが聞かれたのは、まさにそのようにみこころがあらわされるためであり、人間的な欲望を叶えるためではありませんでした。私たちの祈りを聞いてくださる方は全能のお方ですが、だからといってなんでも祈れば聞いてもらえるのではありません。聞いていただけるのは、みこころにかなう祈りです。ゆえに私たちは的を外さない、みこころにかなう祈りをささげる必要があり、私たちはみこころをつねにみことばから学ぶことで、聞いていただける祈りをささげるのです。 <祈りの課題>よい師弟関係を築ける人に出会いますように。

209 7月28日 士11:12-40使15エレ24マコ10

士師記11章12節~40節……エフタの娘の従順をご覧ください。主がイスラエルに勝利をもたらされたことを娘は感謝し、主の御名をほめたたえるゆえに、きわめて不条理なこの誓いに応えようとしました。もちろん、神さまはこのような犠牲を人にお求めになるお方ではなく、エフタは極めて愚かな誓いをしたとも言えなくもありませんが、それはともかく、私たちの献身や従順は、このエフタの娘のことを思うと、口だけのものにしかなっていないと恥じ入りはしないでしょうか。 使徒の働き15章……律法に生きることは、キリスト以前の主の民にもできなかったことです。それなのに、イエスさまを信じる信仰が宣べ伝えられたのちも、依然として律法主義に生きるように導こうとする勢力は、なかば自然発生的に教会の中に現れるものです。私たちはそれゆえ、まず自分自身が主の十字架に生きるようにこだわり、その生き方を教会の中に伝える必要があります。 エレミヤ書24章……主がみこころにかけてくださるということは、主を知る心が与えられるという形で実を結ぶものです。金銭的な祝福や健康上の祝福、人間関係の祝福があることを、私たちはつい、主がみこころにかけてくださっている結果だと考えてはいないでしょうか? しかし、神さまご自身を知るということはそれ以上のことで、神さまを知ることができるということは、それだけ神さまに気をかけていただいているということです。 マルコの福音書10章……「夫が妻を離縁することはみこころにかなっている」ということは、特に離婚することが当たり前になっている現代のキリスト教会においては、お墨付きのように「必要な」原理になってはいないでしょうか。しかし、忘れてはならないのは、この原理はもともとが、イエスさまのことばじりをとらえて、教師失格の烙印を押そうとしたパリサイ人の罠だったということです。結婚とは、神さまがひとつに結び合わせてくださったもので、それを引き離してはならない、これこそがほんとうの原理原則です。 <祈りの課題>神さまが私たちに、神さまを知る恵みを日々豊かに与えてくださるように。

208 7月27日 士10:1-11:11使14エレ23マコ9

士師記10章1節~11章11節……エフタはギルアデの家からのけ者にされていました。しかし、その当時イスラエルは大変な苦境に立たされていて、まるでギャングのようだったエフタにでも頼らなければならない有様でした。主はこのようなならず者のかしらのようだったエフタを士師として立ててくださいました。主は再起する機会を与えてくださるお方です。私たちは自分がもし悪い境遇に置かれていたら、それを動かしがたいものとして落ち込んでいてはなりません。再起させてくださる主に拠り頼んで、再スタートをいつでも切ってまいりましょう。 使徒の働き14章……福音を拒絶することはいろいろな形で臨むものです。業を行なったらそれを見て、神のしもべにすぎない者を神々のように扱ったり、反対に迫害を加えたり、まさしく、主のしもべたちが神の国に入る、すなわち、救いが全うされるまで労するためには、多くの苦しみを経るものです。私たちも主の働きをするうえで日々苦しみ、その苦しみは大半が無駄なことのように思えたりするかもしれません。しかし、その労苦のすえに、私たちの救いは完成されます。 エレミヤ書23章……預言者を気取る者は、いかにも有難そうなことばを述べて、それが神のみことばであるかのように語ります。しかし、神さまがお授けになることのないことばを語るような者に対しては、主ご自身が敵対されます。彼らは結局、利己的な理由で主の御名を利用しているだけのことで、主にお従いするためではありません。このことは時代を超えて、昔も今も同じです。偽預言者が多く世に現れるこの終わりの日においては、なおさらそうです。 マルコの福音書9章……イエスさまは時に過激と思えるような表現をお用いになります。つまずきを与えるものは、たとえ自分の手や足や目であっても取って捨てなさいとおっしゃいます。そのように、つまずきを与えるものから身を避けることには、やりすぎとも思えるような決断を強いられることがあります。それは厳しいことに思えるかもしれませんが、罪の要素を切り落として主にお従いする生き方へと踏み出すならば、びっくりするほどすっきりするものです。 <祈りの課題>私たちの生活において、主にお従いすることをとどめている悪い要素を私たちが捨て去ることができますように。

207 7月26日 士9使13エレ22マコ8

士師記9章……不正な手段でイスラエルの王にのし上がったアビメレクは、結局自滅することになります。みことばは、それが「悪の報いを彼の頭上に返された」ことであると評価しています。わが世の春を謳歌するような権力者のゆえに、この世界、わけても主につく者たちは苦しめられるのが世の常です。しかし、主は必ず正義を実現してくださるという信仰をもって、最後まで耐え忍んでまいりたいものです。 使徒の働き13章……アンティオキア教会は、せっかくの働き人となったバルナバとパウロを宣教師として送り出す決断へと導かれました。私たちは、できれば働き人を自分のところにとどめておきたいと願うものです。しかしそれでは、いつまでたってもみことばは地の果てへと伝わってまいりません。どこかで私たちは、大事な働き人であっても主の御手にゆだね、手離す決断をする必要があります。私たちにとってそれはだれでしょうか。 エレミヤ書22章……私たちがもし、主を知っていると主張するならば、私たちの生活は、公正と義を行うという形で、また、虐げられた人、貧しい人の訴えを擁護するという形で実を結んでいるはずです。そういうこともなく、自分のことしか考えないような者は、主を知っている、信じているということはできません。私たちは生活のただ中で、他者に対するあわれみの実を結んでいますでしょうか。 マルコの福音書8章……私たちは羞恥心を備えた人間ですから、恥じるものはたくさんあるでしょう。しかし、絶対に恥じてはいけないものがあります。それはイエスさまとそのみことばです。私たちはイエスさまとそのみことばを信じているゆえに、人々からあることないことを言われます。しかし、どんなことを言われたとしても、イエスさまとそのみことばを恥ずかしいと思ってはなりません。終わりの日に、そのような言動が主の評価の対象となり、さばかれることのないためです。 <祈りの課題>私たちが主にあってあわれみを注ぐべき人に、主が出会わせてくださるように。

206 7月25日 士8使12エレ21マコ7

士師記8章……ギデオンはイスラエルに、私や私の息子ではなく、主があなたがたを治めますと宣告しました。しかし、そのことばを受け取ったはずのイスラエルは、敵から奪い取った飾りでつくったエポデのところで淫行を行うようになりました。つまり、主が治めてくださることが、イスラエルの間で徹底していなかったということです。私たちも、自分たちのことを主が治めてくださるという信仰は持っているでしょう。しかし、私たちにとっては霊的姦淫の罪につながる罠となるものがあるものです。私たちにとってそれは何でしょうか。 使徒の働き12章……主の御名を宣べ伝えたというそのことのために理不尽にも牢に入れられるということはあるものです。そのとき教会のすべきことは、熱心にとりなしの祈りをささげることです。主がこのとき、教会の祈りを聴かれ、ペテロをその祈り手たちと再会させてくださったように、主は私たちの祈りを聴かれ、奇跡を起こしてくださいます。そのように信じて祈ってまいりましょう。 エレミヤ書21章……ゼデキヤたちは、自分たちは助かるということを託宣としてエレミヤから受け取ろうとしていました。自分の望むことがみこころであるようにと願ってのことでした。しかし主は、もともとがそのようにみこころを曲げる者たちである彼らに対し、徹底したさばきを下されることを宣告されました。みこころというものはどんなに人間の側で願っても、都合よく曲げることのできないものです。私たちは祈る際、願望を並べ立てるよりも、主のみこころに従順にお従いしようという姿勢で祈っていますでしょうか。 マルコの福音書7章……人は罪を犯して汚れます。その汚れは外から取り込むもののせいだと考えてはなりません。人が罪を犯すのはいつでも、自分の心の中の悪い欲望の問題です。自分の心が選択して悪いものを取り込むのであって、悪いものが周りに置かれているせいにしてはなりません。私たちが第一にすることは、悔い改めです。 <祈りの課題>自分と関係のある主の働き人の安全が守られますように。

205 7月24日 士7使11エレ20マコ6 

士師記7章……イスラエルにとっては1万人の軍勢で勝利することももちろん、主の御手によることですが、それでもそのままでは、彼らがその勝利を主の御手によるものと思わないという余地が残されていました。主はそのようなイスラエルのプライドを砕かれるべく、ほんとうの勇士だけをわずか300人残されました。主はsのようなイスラエルに勝利をもたらされ、この勝利がご自身のみわざによることをはっきり示されました。 使徒の働き11章……アンティオキア教会の形成の記録です。ここから教会は、異邦人を対象に本格的に宣教を拡大していくことになりました。しかし、異邦人の教会は本部の支援を受けるばかりの教会ではありませんでした。エルサレムが危機に陥ったならば、ちゃんと支援の物資を送りました。いかに困難な宣教の環境にあっても、さらに困難な兄弟姉妹のことを覚えて具体的な行動をする必要があります。 エレミヤ書20章……まことに主に遣わされ、主に用いられる働き人は、どんなにみことばを語れないような状況に陥ったとしても、語らずにはいられないような内的衝動に突き動かされます。その内的衝動に耐えられないのです。私たちにはそのような内的衝動があるでしょうか? その内的衝動を生み出すほど、私たちはみことばを愛し、慕い求めているでしょうか? マルコの福音書6章……使徒とは、汚れた霊を制する権限を主から与えられた霊的存在です。こんにちにおいては、だれか特定の人物が使徒というわけではありませんが、この権威をイエスさまが十二使徒という共同体に臨ませられたように、教会という共同体が悪霊を制する権威を賦与されていると考えるべきです。私たち教会は悪霊の支配から人々を自由にし、主にお従いしていく人々としていくように、祈りつつ取り組む必要があります。 <祈りの課題>悪霊の支配により悪習慣、不品行、魔術に陥っている人たちを、聖霊なる主が私たち教会を用いて自由にしてくださるように。私たちが聖霊の器として用いられますように。

204 7月23日 士6使10エレ19マコ5

士師記6章……主がギデオンを勇士としてお立てになるプロセスは、説得のプロセスということができます。主は何度となく奇蹟を見せて、ギデオンこそがイスラエルに勝利をもたらす勇士であることを示してくださいました。私たちはどうでしょうか? たしかに私たちは、ギデオンのような派手な奇蹟を体験していないかもしれません。しかし、今日もいのち与えられて生きていること、主が信仰を与えてくださりイエスさまに従うようにしてくださっていること、みな奇蹟ではないでしょうか? その奇蹟の中で、主は今日も私たちを、主の敵に打ち勝つ者としてくださっています。 使徒の働き10章……コルネリウスは神さまに選ばれて、ペテロの宣教を通して救いを受けましたが、もともと彼は祈りと施しの人で、その信仰の実践を神さまは覚えておられました。福音を受け入れるには、それ相応に心が整えられていることも必要だということを、この箇所から知ることができます。私たちが宣教すべき人々が、福音の種を受け入れるにふさわしい良い地として整えられますように祈りましょう。 エレミヤ書19章……焼き物の瓶が砕けると元に戻らないように、主が人を砕かれると、元に戻ることはありません。それほどの権威をお持ちの主を、私たちはいとも簡単に裏切ったりはしていないでしょうか? 主はたしかに、どんな罪でもイエスさまの十字架を信じる信仰ゆえに赦してくださいますが、その罪の赦しを安売りするようなことがあってはなりません。救うことのみならず、滅ぼすことのおできになる主を恐れましょう。 マルコの福音書5章……悪霊が追い出された人は、イエスさまについて行くのではなく、その地でみわざを宣べ伝えるようにと、イエスさまに遣わされました。主の弟子の群れの共同生活に入ることを含む献身の生活は、どのような形であれ、「主が具体的に何を自分に求めておられるか」を知り、そのみこころに従順に従うことがいちばんの基礎となります。自分のしたいように生きることは献身とは言いません。もし献身を志すならば、主のみこころをはっきり知るまで、主の御声をしっかり聴きつづけることが必要です。 <祈りの課題>献身を志す私たちに対する主のみこころは何であるか、私たちが具体的にしっかり受け取る者となりますように。

203 7月22日 士5使9エレ18マコ4

士師記5章……イスラエル、神の民を象徴するものは、主への賛美の歌です。ここではイスラエルのリーダーであるデボラと、将軍であるバラクが歌っていますが、勝利を得ることができたのは自分の力ではなく、主がもたらしてくださったからであることを告白し、主にご栄光をお帰ししています。私たちはこのように、力強い賛美に満たされる生き方を普段からできていますでしょうか。賛美のうちに住まわれる主を体験する生き方をつねにする私たちとなりますようにお祈りします。 使徒の働き9章……教会を迫害することは、イエスさまを迫害することです。なぜならば、教会とはキリストのみからだであるからです。そしてキリストは、神の御子、神さまそのもののお方でいらっしゃいます。サウロは神への熱心に燃えるあまり教会を迫害しましたが、その熱心はまったく間違っていました。神さまはそのようなサウロを捕らえ、まことの宣教者としてくださいました。私たちは教会を愛していますでしょうか。教会を愛するならば、それを聖なるキリストのからだと受け入れ、おいそれとないがしろにするようなことはできないはずです。 エレミヤ書18章……私たちはあまりにも美しく、あまりにも力があり、あまりにも知恵があるので、つい創造主の存在を忘れて、自分勝手に振る舞ってしまうものです。しかし私たちは、そのような自分たちが実は創造主の手の中にあり、いつでも壊され、いつでもつくり変えられる存在であることを認める必要があります。私たちがそのようなへりくだった者となるには、自分たちだけを見つめていてはだめです。それで見えてくるのは、美しさや力強さや知恵ばかりだからです。みことばと祈りをもって、日々主の御前に自分を差し出すことです。そうすれば、主の御手によりつくり変えられる喜びを知ることができます。 マルコの福音書4章……私たちは、難解な聖書のみことば、イエスさまのたとえ話のほんとうの意味を知る権限が与えられています。たとえの箇所の続きを読めば、その意味がわかるからです。ということは、このように例えだけではなく解き明かしまで収録された形でみことばが与えられている私たちは、凡庸な「群れ」ではなく、「弟子」に比肩する存在であると自覚するべきです。 <祈りの課題>平凡な生き方で満足せず、キリストの弟子としての自覚をもって生きていけるようにしてください。

202 7月21日 士4使8エレ17マコ3

士師記4章……デボラの指導下にあったイスラエルの時代の記述です。デボラは女性でしたが、デボラの予言どおり、主はイスラエルの将バラクの手にではなく、女性の手に敵将シセラを渡されました。まさしく女性が活躍した時代であり、戦いでした。ここに、指導者は男性でなければならないという固定観念が覆される余地が出てまいります。主はときに、女性をお用いになることを、特に男性優位の論理が支配的である教会は謙遜に認める必要があります。 使徒の働き8章……なぜみことばを解き明かす人が必要なのでしょうか? それは、このエチオピアの宦官のように、みことばを読んでもイエスさまにたどり着けない、従って救われることがない人があまりに多いためです。聖書は地球上でいちばん普及している書物ですが、果たして(新生した)クリスチャンはどれほどいるというのでしょうか? だからこそ私たちはみことばに通じ、みことばを解き明かす者とならなければなりません。 エレミヤ書17章……安息日は全き安息の日、いかなる仕事もしない日であることを、エレミヤはこのみことばにおいて再確認しています。主の御前に安息することを選ばないならば、人間的な労働によって糧を得ようというさもしい思いに人は傾きます。しかし、少なくとも神の民は、そのような発想を持ってはいけません。安息日を覚えてこれを聖なる日とすることは、生活が変わる実践をすることであり、覚悟が必要なことですが、そのようにして強い決心で主日にまるまる礼拝をささげることを実践するなら、主は必ずその人を祝福してくださいます。 マルコの福音書3章……イエスさまの活動が旺盛になるにしたがって、故郷の者たちからは疑いの目で見られるようになり、それを気にした母マリアとヤコブ、ユダら主の兄弟たちは、イエスさまを連れ戻しにやってきました。しかしイエスさまは、ご自身の母や兄弟とは、神のみこころを行う者であると語られ、この肉の家族は神のみこころを行う者たちではないと暗に批判されました。もし、子どもが主の道に献身することを希望しているならば、その献身者の親(特に母親)は、信仰をもって子ども(とその家族)に対する影響力を手離す必要があります。さもなくば、子どもが大いに神さまに用いられる素晴しい可能性を、つぶしてしまうことになります。 <祈りの課題>自分に対する家族の聖書的ではない期待に応えるか否かを巡って悩む...

201 7月20日 士3使7エレ16マコ2

士師記3章……士師オテニエル、エフデ、シャムガルの三代の記録です。この戦いのとき、神さまはイスラエルに対して、懲らしめというみこころのほかに、次世代を戦いに備えて鍛えられるというみこころを持っていらっしゃいました。私たちは日々の戦いにおいて、鍛えられてさらなる戦いに強力に臨むことができるという恵みをいただいています。 使徒の働き7章……ユダヤ人たちは、みことばの解き明かしを聞いてもなお心が頑なで、そのみことばによって悔い改めるどころか、みことばを説くステパノを虐殺しました。しかしステパノは、その殺人の罪を犯す者たちを赦してくださるように、御父に祈りました。私たちもまた、みことばを語るゆえに人々の反対や迫害にあうでしょう。しかしそのようなとき、そのような罪を犯してやまない彼らが神さまに赦されるように祈ることができるでしょうか。その謙遜な心が与えられるように、豊かに赦してくださるイエスさまとの交わりを日々保ってまいりましょう。 エレミヤ書16章……イスラエルに対する完膚なきまでのさばきの警告がなされた理由は、彼らが主を捨ててほかの神々に走ったからです。しかし、このような完膚なきまでのさばきは、本来ならば主に敵対する異邦人たちに下されるべきものでした。主は、たとえそれがご自身の民であったとしても、ご自身を捨て去る者には同等のさばきを下される、公正なお方です。 マルコの福音書2章……麦畑から穂を取って食べることは泥棒ではなく、律法で許されていることです。ところがパリサイ人は律法を拡大解釈し、そのことは安息日にしてはならないとなじりました。もし私たちが、安息日の規定のような律法の条文を重要視するあまり、聖霊の宮なる肉体の回復も持てなくなるようならば、本末転倒です。私たちは人を不自由にする律法主義から少しでも自由になり、私たちもまた、福音によって人を自由にする人になりたいものです。 <祈りの課題>私たちがみな、人を赦し、自由にする、イエスさまのお心をわがものとして生きることができますように。

200 7月19日 士2使6エレ15マコ1

士師記2章……主にお従いする世代が交代したとき、民が主にお従いすることをやめ、偶像に淫するようになるという問題が起こることは、主が警告されたとおりですが、果たしてそのとおりになりました。そのたびに民は苦しみました。しかし、苦しみの中で主に叫び求めたならば、主は助けを起こしてくださいました。私たちにもそのように助けの御手を伸ばしてくださると私たちは信じるべきですが、しかし私たちは主を試みて、罪におぼれるようなことがあってはなりません。懲らしめの御手が臨む前に、私たちは主への従順を欠かさないようにしたいものです。 使徒の働き6章……ステパノは偽証により訴えられたその機会を、かえってイエスさまを証しする機会として用いました。そのとき彼の顔は御使いのように輝きました。それはまた、彼のいのちがいまにも地上から取り去られようとしていたときでもありました。私たちはいかに生きるかということと同じほど、いかに死ぬかということが大事です。いのち果てるその日に向けて、私たちはいかに主との歩みをしていくべきでしょうか、祈りつつ考えてまいりたいものです。 エレミヤ書15章……主のしもべはみことばを至上の楽しみとする人です。その価値観のゆえに、世の価値観に染まった者たちからは迫害の憂き目にもあうものですが、主はそのような者たちの手から必ずしもべを助け出してくださいます。迫害を恐れず、主にお従いすることをやめないでまいりたいものです。 マルコの福音書1章……イエスさまを証しすることはすばらしいことですが、悪霊や、イエスさまのご命令に不従順な者が証しすることはふさわしくありません。私たちは聖霊に満たされ、心からの従順をもって主を証しすることが必要です。それでこそ私たちの証しは用いられます。 <祈りの課題>主に用いられるにふさわしい証し人となれるように、主よ、私たちを整えてください!

199 7月18日 士1使5エレ14マタ28

士師記1章……アドニ・ベゼクは、70人の王を奴隷として扱ったその報いがイスラエルによって下されたことを嘆きました。主は報いをされる方です。イスラエルのカナン侵攻も、神の前に大いに罪深いその地をさばかれるために主がイスラエルをお用いになったという前提をもとに考える必要があります。 使徒の働き5章……使徒たちは、イエスさまが受難にあわれたように、投獄されて法院に引き出され、鞭で打たれるという迫害にあいました。そのことを彼らは喜びました。まことに、主の御名のゆえに迫害されることは悲しむべきことではなく、ましてや恥ずべきことでもなく、喜ぶべきことです。私たちはこの最高の喜びをわがものとすべく、日々自分の十字架を背負っていこうとしているでしょうか? エレミヤ書14章……預言をすると自称する者は、いかに主の御名によってもっともらしいことを語っても、彼らのことを主が遣わされたのでない限り、そのことばはむなしく、主はそのことばのゆえに彼らのことをおさばきになります。私たちは何やら霊験あらたかな人の語ることばにいとも簡単に左右されてはいないでしょうか。私たちは、まことの神のことばである聖書を何よりもよく理解し、聖書によってすべてを吟味できるようになる必要があります。 マタイの福音書28章……女性たちは復活のイエスさまのそばにいつまでもいたかったことでしょう。しかしイエスさまは彼女たちに、弟子たちのもとに赴いて彼らにガリラヤに行くように伝えよと、新たな使命を与えられました。私たちはイエスさまとの交わりの中で平安と喜びを体験するものですが、イエスさまはそこから私たちに使命を与えられ、この世に遣わされます。私たちはいかなる使命をいただいているでしょうか。 <祈りの課題>私たちが、いかに影響力を及ぼす人のことばであろうともうのみにせず、まずみことばを学んであらゆることばや教えを吟味すべく成長できますように。