224 8月12日 Ⅰサム2ロマ2エレ41詩15-16
サムエル記第一2章……ハンナはサムエルを主にささげ、親子で離れて生活しましたが、それでもハンナは、毎年の祭りの日に備え、サムエルのために小さな上着をつくってあげるのを常としました。ここに母の祈りを見ることができないでしょうか。子どもというものは決して親の所有物ではなく、神さまのものですが、しかし親は、子どもがいかに神さまのものであったとしても、子どもが健やかに成長するために最善を尽くす必要があります。ハンナが決してサムエルのことを見捨てていなかったどころか、祈り心をもって上着をつくってやったように、私たちも子どもたちを主にささげながらも、祈りのうちにできるかぎりのことをしてあげたいものです。
ローマ人への手紙2章……クリスチャンはただ単に罪赦されたものにとどまらず、罪赦されたその生き方を人々に対して示す存在です。しかし私たちはなんと、他人の罪に不寛容である一方で、自分の犯す罪には驚くほど寛容なのでしょうか。そのような者に下る神の怒りを、私たちはあまりにも甘く見ています。そんな私たちに必要なのは、その世に神の怒りに値する自分であることにおののき、日々徹底した悔い改めの祈りを神の御前にささげることです。
エレミヤ書41章……イシュマエルの起こしたクーデターは、一見すると、もともとが神の民の敵であったカルデヤ人(バビロン)に対抗する行動のようですが、実際はユダの亡国に乗じて乗っ取りを計る、やはり神の民の敵であるアンモンの手先になることであり、少なくともユダを神のみもとに奪還する行動とは程遠いものです。そのようなよこしまな動機は、彼の取ったきわめて残忍な行動に表れています。現代における神の民の共同体は教会ですが、徳にならないリーダーシップを「発揮」して自分の好きなように教会をかき回す人というのはいるものです。私たちは主のご栄光を顕すという、クリスチャンとしての生きる目的をつねに見失うことなく、イシュマエルのようなよこしまな者から教会という主の共同体が守られるよう、祈って取り組んでまいりましょう。
詩篇15篇~16篇……主が私たちに与えてくださる割り当ての地、ゆずりの地は好ましく、素晴らしいものです。では、私たちにとっての割り当ての地、ゆずりの地とは何のことでしょうか。それは、この地上のあらゆる物質的なものを超えた、主ご自身です。ふつう人は、主ご自身が割り当てられるという恵みをいただくことはありません。しかし私たちは、ほかならぬ主ご自身によって、ご自身を割り当てていただくという恵みをいただきました。私たちはそれゆえ、主ご自身によってこそ、ほんとうの満足を体験するもので、ほかの何をもってしても、ほんとうの満足を味わうことはありません。
<祈りの課題>祈り心をもって子どもたちを育てる私たちになることができますように。そのために、子育てにおいて主の恵みに委ね、手離すべきを手離す選択をすることができますように。
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