211 7月30日 士13使17エレ26マコ12
士師記13章……ナジル人は体内にいるときから、身ごもった親が口にするものなどに気をつけて過ごすように主から命じられています。こうして生まれたのがサムソンなわけですが、このできごとは、結婚して子をもうける夫婦が、その生まれる前から子どもを主のしもべとしてささげる、信仰の実践へと適用することができます。まことに、子どもは体内に授かった時点でひとつの人格であり、その生まれる前から親は、その子どもが主のものであることをしっかり認識して育んでいく必要があります。
使徒の働き17章……ベレアのユダヤ人たちの姿勢をご覧ください。パウロの語ることばを受け入れるのみならず、そのとおりかどうか毎日聖書を調べたとあります。まことの信仰の成長、教会の成長は、日曜日に聖書の解き明かしを聞いてさえいればそれでいいという人によるものではありません。みことばの解き明かしを聞いたならば、その裏付けとなるみことばをしっかり自分のものとする作業を怠りなく行うこと、これが大切です。
エレミヤ書26章……こんにちの日本においては、みことばを語ったからといのちが危険にさらされることは、基本的にはありません。しかし、みことばを正しくまっすぐに語るということは、本来、いのちを危険にさらすということです。私たちは信仰の先達や世界各国で宣教に献身している兄弟姉妹のことを心に留めたいものです。エレミヤは死をもいとわずみことばを語りましたが、私たちはみことばを語るにあたって、何を差し出すでしょうか。
マルコの福音書12章……貧しい寡婦が献金したできごとについてですが、イエスさまが献金の「多寡」ではなく「率」を問題にしておられると読み取るのは浅はかです。第一にこれは、イエスさまが、貧しい寡婦のような社会の最底辺で苦しむ人に慈しみの目を注がれ、その人の完全な献身を最大限のことばでほめておられるということであり、私たちもそのように慈しみとあわれみの心を持ち、寛大であるようにとのチャレンジと受け取るべきです。私たちは持てるものを手離してでも、社会の底辺に追いやられた人たちをケアしているでしょうか? イエスさまは表面的な宗教心になど興味を持たれず、私たちの実践を問題にされます。
<祈りの課題>私たちの周辺にいる(はずの)困窮した人たちに注がれた主のまなざしをわがものとし、私たちもそれ相応の隣人愛の実践ができますように。
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