225 8月13日 Ⅰサム3ロマ3エレ42詩17
サムエル記第一3章……主がサムエルを預言者としてお立てになるにあたっておしめしになった最初の預言は、エリを師と仰いできたサムエルにとって、とてもつらいものではなかったでしょうか。しかし神さまは、人間的な常識ではまだ幼いと見なされるような少年に対して、もう充分にみことばを取り継げる、それも霊的な師に対しての警告のことばでも取り継げると思し召されたからこそ、サムエルにこの厳しくもつらいみこころをお示しになったのでした。私たちも、自分はまだ経験がないとか、若いなどといって、主のみことばを取り継ぐことをためらってはいないでしょうか。しかし、主がひとたびみことばを授けてくださったならば、私たちの状態がどうあれ、私たちはみことばを取り継ぐべきなのです。
ローマ人への手紙3章……私たち人間は律法を守り行うことによってではなく、イエスさまを信じる信仰によって、神さまに義と認めていただきます。しかしだからといって、律法が無効になったわけではありません。私たちが信仰によって義と認められるということにより、律法は確立するのです。だから私たちは、信仰があるからと、律法を無用にするようなことをして、たとえば旧約聖書(もしかすると新約聖書も)を読まないで済ませるようなことをしては絶対にいけません。私たちが信仰によって確立していただいたみことばとして、ますます旧新約聖書全体を大切にしたいものです。
エレミヤ書42章……ユダの残りの者たちは、どうしてもエレミヤの口から、生き残るためにバビロンではなくエジプトに落ち延びよとの託宣を聞きたがりましたが、そのような態度でいることそのものが不従順であり、その態度ゆえに相応のさばきを受けることがエレミヤから告げられました。主のみこころははっきり決まっていて、彼らがそれを知らなかったはずがありません。それなのにこの期に及んで、自分たちの聞きたいようにみことばを聞こうというのでしょうか。私たちにもそういうところがないか、よく考えましょう。いわんや、自分たちにとって耳ざわりのいいみことばを聴こうと、群れの指導者をコントロールしようとする信徒は、どんなお取り扱いを主から受けることか、恐れ、もしそのようなことをしかけているならば、即刻悔い改め、正しくみことばに聴き従いましょう。
詩篇17篇……詩人ダビデは主に向かい、自分の祈りを聞いてくださるようにと、何度も祈っています。私たちにとって祈りとは真剣な作業です。私たちは切なる思いをもって主の御前に出て、心を注ぎだすようにして何度でも祈るべきです。私たちはもしかすると、祈ることそのものをいいかげんにしてすましてはいないでしょうか。私たちには真剣に祈るべきことがたくさんあるはずです。何度でも真剣に祈りましょう。
<祈りの課題>私たちが切なる態度、真剣な態度で、主の御前に祈りつづけるものとなりますように。
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