213 8月1日 士15使19エレ28マコ14

 士師記15章……ユダの者たちは士師ではなく、ペリシテ人を君主と抱くような負け犬根性の中にありました。主はそのような敗北感に支配されたユダを目覚めさせるため、サムソンをお用いになりました。サムソンのもたらした大勝利はユダの勝利であるとともに、神さまの勝利でした。私たちの弱いものであることを自覚する必要がありますが、主は私たちのことを弱いままに留め置かれません。必ず大いなる勝利を与えてくださり、精神的にまで敗北感に支配されているような私たちを目覚めさせてくださいます。

使徒の働き19章……パウロがアジアで展開した宣教は、魔術を行う者たちを大勢主のもとに立ち帰らせたような、霊的な戦いです。彼ら魔術を行なっていた者たちは過去と決別したしるしとして、売れば銀貨50000枚にもなる高価な魔術書を、売ったのではなく、焼き捨てました。売ったならばその魔術書をだれかが手にしてオカルトの罪に手を染める可能性があるわけで、それを惜しげもなく焼き捨てたことは、過去への決別と悔い改めという意味とともに、だれにも罪を伝染させないという意味もあったわけです。私たちも罪を悔い改めるときに、このような徹底した悔い改め、人にも罪を犯させまいとする悔い改めに至っているでしょうか。

エレミヤ書28章……預言者が主の御目に認められるのは、その取り次いだとされる預言がほんとうに成就したときだけです。預言は、一部の権力者がその権力が行使されるとおりになるようにするためのプロパガンダの類では決してないのですが、預言というものはなんと、そのような人間的な権力の「霊的お墨付き」のような扱いを受けてきて、主の御名の栄光はいたく損なわれてきたことでしょうか。私たちはそのように主のみこころを粗末に扱ってはなりません。エレミヤのように、権力者が主のみこころを曲げて反抗するようなことがあろうとも、変わらずにみこころを語りつづける者でありたいものです。

マルコの福音書14章……大祭司の裁判は、イエスさまを死刑に処することなどできませんでした。どんな証言も一致しなかったからです。しかし大祭司は、イエスさまを死刑に処するための奥の手を持っており、それを行使しました。イエスさまが神の子キリストであると、主ご自身の御口から証言させたのでした。イエスさまなら当然そう証言されることを知っての上でのことでした。しかし、その結果イエスさまがおっしゃったみことば、ご自身がキリストであられること、なおその上に、さばき主として再臨されるお方であることを聞いて、恐れてイエスさまを礼拝するのではなく、イエスさまを処刑することに決めたとは、大祭司をはじめ、ユダヤの宗教指導者たちは、なんと霊的におかしな状態にあったことでしょうか。しかし、私たちは彼らを笑えません。私たちもそのように、イエスさまを十字架につけた者でした。私たちもその中からイエスさまを主と信じる信仰に導かれて救われ、神の子どもとしていただいたことを思うならば、すべては恵みであり、この恵みのゆえに救ってくださった主をほめたたえるものであり、その同じ恵みのゆえにひとりでも多くの人を救ってくださるように、祈らずにはいられないのではないでしょうか。

<祈りの課題>自分こそがイエスさまを十字架につけた罪人であることを思い、それにもかかわらず救ってくださった恵みを思い、主の御名をほめたたえます。

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