242 8月30日 Ⅰサム23Ⅰコリ4エゼ2詩38
サムエル記第一23章……神さまはダビデのことを、サウルの手から守りつづけてくださいました。このような中でサウルの陣営に属していたはずのヨナタンがダビデのもとに行き、ダビデを力づけました。ヨナタンが恐れていたのは父サウルではなく、ダビデに油を注がれた神さまでした。私たちがほんとうに神さまを恐れているならば、だれを最も神さまにあって尊重して行動すべきかの優先順位を知ることになります。
コリント人への手紙第一4章……コリント教会に対するパウロの親心に注目しましょう。コリント教会の思い上がった態度を戒めるために、パウロはあえて極めて厳しいことば、皮肉なことばを用いています。このような語調を用いなければ悔い改める兆しのないコリント教会の頑なさは、私たちもまた持っているものではないでしょうか。キリストではなく指導者のほうを優先的に見るあまり、傲慢になってはいないでしょうか。しかしそのような態度は指導者を主にあって認めることではなく、党派をつくって指導者を辱めることです。このような罪から私たちは解放されなければなりません。
エゼキエル書2章……神さまはエゼキエルに、反逆の民であるご自身の民に「神である主はこう言われる」と、みことばを語れと命じられました。彼らが聞く、聞かないにかかわらず、みことばを語るのです。エゼキエルのすることは、みことばを聞くこと、そして語ることでした。みことばを聞く者たちの反応にかかわらず、主はみことばを語れと命じられたのです。私たちもみことばを語るとき、相手の反応(顔色)をやたら気にして語れなくなってはいないでしょうか? 主は、そうなったら語るなとはおっしゃっていません。どんなときにも、「語れ」とおっしゃっています。
詩篇38篇……主の民が罪を犯すならば、その犯した罪ゆえに極めて問われる思いになり、その責められる心は痛みと傷となります。しかし主は、それゆえに私たちのことをお見捨てになりません。私たちをその傷と痛みから解放し、回復してくださいます。だから私たちは、自分の罪が何であるかを具体的に示されることを恐れてはなりませんし、その具体的に示された罪を悔い改めることをためらってはなりません。
<祈りの課題>いつ、どんなときにも、だれに対しても、主のみことばを大胆に語る私たちとなることができますように。
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