208 7月27日 士10:1-11:11使14エレ23マコ9
士師記10章1節~11章11節……エフタはギルアデの家からのけ者にされていました。しかし、その当時イスラエルは大変な苦境に立たされていて、まるでギャングのようだったエフタにでも頼らなければならない有様でした。主はこのようなならず者のかしらのようだったエフタを士師として立ててくださいました。主は再起する機会を与えてくださるお方です。私たちは自分がもし悪い境遇に置かれていたら、それを動かしがたいものとして落ち込んでいてはなりません。再起させてくださる主に拠り頼んで、再スタートをいつでも切ってまいりましょう。
使徒の働き14章……福音を拒絶することはいろいろな形で臨むものです。業を行なったらそれを見て、神のしもべにすぎない者を神々のように扱ったり、反対に迫害を加えたり、まさしく、主のしもべたちが神の国に入る、すなわち、救いが全うされるまで労するためには、多くの苦しみを経るものです。私たちも主の働きをするうえで日々苦しみ、その苦しみは大半が無駄なことのように思えたりするかもしれません。しかし、その労苦のすえに、私たちの救いは完成されます。
エレミヤ書23章……預言者を気取る者は、いかにも有難そうなことばを述べて、それが神のみことばであるかのように語ります。しかし、神さまがお授けになることのないことばを語るような者に対しては、主ご自身が敵対されます。彼らは結局、利己的な理由で主の御名を利用しているだけのことで、主にお従いするためではありません。このことは時代を超えて、昔も今も同じです。偽預言者が多く世に現れるこの終わりの日においては、なおさらそうです。
マルコの福音書9章……イエスさまは時に過激と思えるような表現をお用いになります。つまずきを与えるものは、たとえ自分の手や足や目であっても取って捨てなさいとおっしゃいます。そのように、つまずきを与えるものから身を避けることには、やりすぎとも思えるような決断を強いられることがあります。それは厳しいことに思えるかもしれませんが、罪の要素を切り落として主にお従いする生き方へと踏み出すならば、びっくりするほどすっきりするものです。
<祈りの課題>私たちの生活において、主にお従いすることをとどめている悪い要素を私たちが捨て去ることができますように。
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