217 8月5日 士19使23エレ33詩3-4
士師記19章……かつてアブラハムの時代、ソドムとゴモラに起こったことをそっくりそのままベニヤミン族の男たちが繰り返しています。いや、ここでは殺人さえ起きているのだから、ソドムのできごとよりもひどかったと言えるでしょう。聖書に記録された、目をそむけたくなるような罪のできごとの数々は、私たち主の民にとっては関係のないものでいてほしいですが、実際は、そのような醜い姿は、私たち罪人を映す鏡にもなっています。私たちが悲惨な罪を犯すことなく生きていられるのは、ひとえに主の豊かな恵みのゆえです。
使徒の働き23章……もし、パウロがこのときに殺されていたならば、獄中書簡や牧会書簡が書かれることはありませんでした。パウロに手をかけようとする者たちは、のろいをかけてまでして殺すことを誓ったりと、それがみこころのように信じ切っていましたが、神さまのほんとうのみこころは教会を世の終わりに至るまでも養うことであり、そのためにパウロはこのとき殉教してはならなかったのでした。人はいろいろなことを考えますが、ただ、主ご自身がそのご栄光を現されるみこころだけが成ります。
エレミヤ書33章……主の民を回復されるというみこころは、昼と夜が交代でやってくるのと同じくらい確実なことであると神さまはご自身はお語りになりました。このときエレミヤは、亡国を目の当たりにして、どれほど意気消沈していたことでしょうか。しかし、そのようなエレミヤ自身からまず回復を体験するためには、何よりも確実な約束のみことばを聞く必要がありました。私たちにとっても現実は無視できない大事なものですが、それ以上に大事なのは、変わることのない神さまのみことばです。
詩篇3篇~4篇……私たちはイエスさまの十字架を信じる信仰により、聖徒としていただいた存在です。神さまはそんな私たちのことを、特別に扱ってくださっています。それは、神さまを呼び求めると聞いてくださる、ということにおいてです。私たちはこの特権が与えられていながら、神さまを呼び求めないで済ましてはいないでしょうか。いつでも神さまを呼び求め、神さまに応えていただける祝福を私たちがみな体験してまいりますようにお祈りします。
<祈りの課題>私たちがもし何らかの理由で落ち込んでいるならば、主がそこから回復を与えてくださり、その回復の御業をとおしてご自身のご栄光を現してくださいますように。
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