221 8月9日 ルツ2使27エレ38詩10
ルツ記2章……ボアズのルツに対する特別な配慮を見ましょう。これは、神さまが私たちに注いでくださっているおこころの象徴ともいうべきものです。特に注目すべきは、ルツが少しでも落穂拾いの成果を得られるように、束の間からわざと穂を落とすようにとボアズが命じたことです。これはもはや「落穂」ではなく「落とされ穂」です。神さまはそのように、本来ならば私たちの望むべくもなかった救いという恵みを、特別に私たちのために落としてくださったのでした。
使徒の働き27章……一幅の冒険物語のような章です。ここでほんとうのリーダーシップを発揮したのは、船主や船長や百人隊長ではなく、囚人だったパウロでした。しかしパウロは囚人ではあったものの、特別に一目置かれていた様子がこの箇所から伝わってきます。特に注目すべきは、パウロは神さまからの特別な語りかけがあったゆえに、船に乗った者たちが全員助かると確信し、そのようにみなを励ましたことです。主はいざというとき、主のしもべを用いて多くの人のいのちを救われます。私たちもそのように用いられたいと願いますでしょうか? そのときはいつ来るかわかりません。祈りつつ備えましょう。
エレミヤ書38章……エレミヤは、ゼデキヤ王の優柔不断な態度により、泥の穴に落ち込むというひどい目に遭いました。しかしそこから助け出され、エレミヤはゼデキヤ王にみことばを語るに至りました。果たして、ゼデキヤの政治が正しかったのか、エレミヤのことばが正しかったのか、答えは明らかです。神さまはこのようにして、まことのリーダーシップはだれにあるのかを明らかにしてくださいました。私たちは決断を迫られるとき、優柔不断になってはいないでしょうか、それとも、語るべきことを大胆に語っているでしょうか。
詩篇10篇……悪しき者はなぜ悪しき者なのでしょうか? それは、弱い立場にある者を虐げて飽くことを知らないからですが、根本的な理由は「神はいない」とうそぶくからです。生活のただ中で徹底して神を認める生き方をしない者は、悪しき者、傲慢な者になるしかなく、そのような者の結ぶ実はひどい生活です。私たちはそのような生き方をしている者の表面的に敬虔に見える言動にだまされてはなりません。私たちこそ主を恐れ、その態度にふさわしい生き方をこの世に示していきましょう。
<祈りの課題>私たちが混迷するこの世において、ふさわしくリーダーシップを発揮することによって、人々をキリストに導いていくことができますように。
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