220 8月8日 ルツ1使26エレ36-37詩9
ルツ記1章……ルツの選択は、創造主なる神さまを神とする生活に身を投じることであり、それは落穂拾いの異邦人の身になることで、人間的に考えれば、モアブに住むよりもはるかにつらい選択をすることでした。しかし、ほんとうにつらいことは、エリメレクとナオミの一家が信じお従いした神さまから離れ、モアブの神々のもとに行くことだとルツは知っていました。私たちもまことの神さまにお従いするゆえに、厳しい選択をすることがあります。しかし、神さまは必ず、その選択を大いなる祝福に変えてくださいます。
使徒の働き26章……アグリッパ王にとっては、パウロは「罪人(ざいにん)」として拘留するような者ではありませんでした。そのことは聡明なパウロにはわかっていたはずです。それでもパウロはカエサルに上訴することにより、囚人として生きることを選択しました。結果として、そうすることでパウロはユダヤ人の暴徒たちの手から守られ、生きつづけて、書簡を用いて遠隔的に諸教会を指導することができたのでした。私たちは近視眼的な選択をしてはなりません。主にあってふさわしい選択をすることができるように、祈ってまいりましょう。
エレミヤ書36章~37章……主のみことばを語る者は、大いなる迫害にあうものです。私たちは主にお従いすることの代価を、この世的な祝福(金銭や人間関係における豊かさのようなもの)と捉えるような現世利益的発想で理解してはなりません。かえって、イエスさまの御跡を十字架を背負ってお従いするような厳しい道です。しかし、エレミヤがあえてその道を選び取り、どのような迫害にあおうとも王たちの前でみことばを語りつづけたように、私たちも主の恵みの中で、あえて厳しい道に踏み出していくことができるならば幸いです。
詩篇9篇……私たちは時に、自分が神さまから見捨てられたと思えてならないときがあるのではないでしょうか。しかし詩人ダビデは、主を求める者を主はお見捨てにならない、と歌います。私たちは窮地に陥ったとき、すべきことは嘆くことではありません。主の御名を徹底して呼び求めることです。そのとき私たちは、私たちに御手を伸ばしてくださる、生きておられる神さまのご存在を体験することができます。
<祈りの課題>いざというときにみこころにかなった選択をすることができるよう、つねにみことばに耳を傾ける私たちとなることができますように。
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