238 8月26日 Ⅰサム18ロマ16哀3詩34

サムエル記第一18章……ダビデが戦うたびに大勝利を得ることができたのは、主がともにおられたからでしたが、それはサウルがそのように仕向け、敵の手によってダビデを滅ぼそうと考えたからだったともいえます。サウルがこれほどまでにダビデを憎んだのは、劣等感のなせるわざであり、それは突き詰めればセルフイメージが低いことに起因するものでした。もし、サウルが健康な自我像を持っていたならば、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」という女たちの歌を耳にしたら、「おお、余より十倍も有能な忠臣を持った余は幸せだ」と言えたはずではないでしょうか。このように、サウルはダビデを滅ぼしたくてたまりませんでしたが、主の祝福は、サウルのねたみをはるかに上回りました。

ローマ人への手紙16章……教会とは、すべての他教会によろしくと言うべきで、また、よろしくと言ってもらえる恵みを持つ存在です。教会が公同の存在であるということは、自分たちの群れのみが単体で存在して完結するということではなく、同じ教団教派(組織)にとどまらずにほかの立場の教会も、同じ日本にある教会にとどまらずに世界中に存在する教会も、すべてひとつの交わりの中にある、ということです。私たちは自分の属する群れを超えて、ほかの教会に、そして世界に目を向ける余裕を持ちたいものです。

哀歌3章……エレミヤは、主に見捨てられて敵のあざけりの的となったユダを自分自身になぞらえて、悲しみの告白をしています。しかし、エレミヤのこの告白はただの悲しみの告白に終わりませんでした。ついにはこの祈りを主が聴いてくださったことを知り、エレミヤは希望を回復しました。私たちもこの国のためにとりなして祈るとき、絶望に襲われてならないときがあるのではないでしょうか? しかし、主は私たちのこの切なる祈りを聴いてくださり、私たちをまことの回復へと導いてくださいます。

詩篇34篇……私たちはこの世界を生きていると、私たちのしてしまう言動の失敗をことさらに取り上げ、攻撃を仕掛けてくる者に出会い、その攻撃にさらされて弱るものです。しかし、私たちはそれで終わりではありません。私たちには主の御許という、逃げこめる場所、力づけられる場所があります。主のもとに行くならば、だれも私たちに決定的な攻撃を下すことなどできません。

<祈りの課題>思いつくかぎりの教会の祝福のために。

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