241 8月29日 Ⅰサム21-22Ⅰコリ3エゼ1詩37
サムエル記第一21章~22章……ダビデはアヒメレクの家の者が自分のせいで皆殺しにされたことを知りましたが、その中で唯一生き残ったエブヤタルには、「私のいのちを狙う者はあなたのいのちを狙う。しかし私と一緒にいればあなたは安全だ」と告げ、安心させて力づけました。ダビデがイエスさまの象徴だと考えると、このダビデのことばは、イエスさまとともにいる者の保障された立場を表していないでしょうか。私たちもイエスさまゆえに危険にさらされます。しかし、私たちはイエスさまとともにいるかぎり、その身は守られます。
コリント人への手紙第一3章……キリストという土台を立てることは宣教によることですが、その宣教に引きつづく教会形成は、何によって行うかというかということがいざというときに問われます。華麗なこの世の知恵で建てても、イエスさまへの信仰が問われる段になって、それが何の意味も持たなかったということも有り得ます。反対に、石のように凡庸に見えても、けっして燃えず、また崩れない、イエスさまへの揺るがない信仰により宮を立てるということもあるわけです。私たちはこの世の華麗さを求めるでしょうか、それとも、凡庸でも、イエスさまへのゆるぎない信仰を求めるでしょうか。
エゼキエル書1章……エゼキエル書は、預言者エゼキエルが活動的な神の臨在の象徴を見るところから始まります。最強の知恵の象徴の人間の顔、最強の獣の獅子、最強の家畜の牛、最強の鳥の鷲……その頭上に神の臨在があります。主は、この地上の何ものよりも力強いお方であり、私たちはこのお方を礼拝し、また、このお方のみことばに耳を傾けるのです。
詩篇37篇……悪しき者は私たち正しい者の期待に反して、栄えます。そのような栄えを見るとき、私たちの取るべき態度は、みことばに従ったものとなるべきです。人の目にその栄えは永続するもののように見えても、主の御目にそれはとても短いものであり、主はその者がいつまでも栄えることをお許しになりません。なぜならば、それは主の民が虐げられることであり、主のご栄光がいたくけがされることだからです。
<祈りの課題>私たちがこの世のうらやむような華麗さを求めず、どんなに凡庸に思えても、愚直に十字架にこだわって信仰生活を立て上げていくものとなりますように。
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