202 7月21日 士4使8エレ17マコ3

士師記4章……デボラの指導下にあったイスラエルの時代の記述です。デボラは女性でしたが、デボラの予言どおり、主はイスラエルの将バラクの手にではなく、女性の手に敵将シセラを渡されました。まさしく女性が活躍した時代であり、戦いでした。ここに、指導者は男性でなければならないという固定観念が覆される余地が出てまいります。主はときに、女性をお用いになることを、特に男性優位の論理が支配的である教会は謙遜に認める必要があります。

使徒の働き8章……なぜみことばを解き明かす人が必要なのでしょうか? それは、このエチオピアの宦官のように、みことばを読んでもイエスさまにたどり着けない、従って救われることがない人があまりに多いためです。聖書は地球上でいちばん普及している書物ですが、果たして(新生した)クリスチャンはどれほどいるというのでしょうか? だからこそ私たちはみことばに通じ、みことばを解き明かす者とならなければなりません。

エレミヤ書17章……安息日は全き安息の日、いかなる仕事もしない日であることを、エレミヤはこのみことばにおいて再確認しています。主の御前に安息することを選ばないならば、人間的な労働によって糧を得ようというさもしい思いに人は傾きます。しかし、少なくとも神の民は、そのような発想を持ってはいけません。安息日を覚えてこれを聖なる日とすることは、生活が変わる実践をすることであり、覚悟が必要なことですが、そのようにして強い決心で主日にまるまる礼拝をささげることを実践するなら、主は必ずその人を祝福してくださいます。

マルコの福音書3章……イエスさまの活動が旺盛になるにしたがって、故郷の者たちからは疑いの目で見られるようになり、それを気にした母マリアとヤコブ、ユダら主の兄弟たちは、イエスさまを連れ戻しにやってきました。しかしイエスさまは、ご自身の母や兄弟とは、神のみこころを行う者であると語られ、この肉の家族は神のみこころを行う者たちではないと暗に批判されました。もし、子どもが主の道に献身することを希望しているならば、その献身者の親(特に母親)は、信仰をもって子ども(とその家族)に対する影響力を手離す必要があります。さもなくば、子どもが大いに神さまに用いられる素晴しい可能性を、つぶしてしまうことになります。

<祈りの課題>自分に対する家族の聖書的ではない期待に応えるか否かを巡って悩む献身希望者が、具体的に主の望まれる道に踏み出していけるように。

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