216 8月4日 士18使22エレ32詩1-2
士師記18章……ミカの家の祭司はもともとが間違った選択をしていましたが、それに加え、ダン族の妻子となるという二重のあやまちを犯しました。その選択の根拠となったことは、ダンという部族全体の妻子となるといいという誘惑です。結局、このことがみこころにかなわなかったのは、ダン族が土地を得たのち、その地に「自分たちのために彫像を立てた」ことから明らかです。私たちも事を起こそうとするとき、問われるのはその動機です。私たちは主のために事を起こすのでしょうか、それとも自分の欲望のためでしょうか。時が来ればそれは白日のもとに明らかにされます。
使徒の働き22章……パウロは語る機会が与えられたとき、躊躇することなく、自分の救いと召命の証しを語りました。その結果がたとえ更なる迫害の到来であったとしても、パウロは自分が主を迫害した罪人であったこと、しかし主がそのような生き方からキリストの証人へと自分を作り変えてくださったことを雄弁に語りました。パウロは機会さえ与えられれば、このように証しをする備えをつねにしていたのでした。私たちも救いと召命の証しをつねに備え、いついかなるときにも語る者とならせていただきたいものです。
エレミヤ書32章……神の民が偶像礼拝に陥ることは主の願っておられることでも、みこころでもありません。それは主のみこころへの不従順であり、反逆です。もし人が主の民である名乗るならば、少なくともその人は、主が自分に望んでおられるみこころをよく知り、そのみこころから外れない生き方を選ぶことです。私たちは主のみこころが何であるかを知っているならば、主の恵みによって従順の道を歩めるように祈ってまいりたいものです。
詩篇1篇~2篇……この世界で幅を利かせる権力者、思想、基準……それらのものはみなこぞって、私たちが「イエス・キリストの父なる神さま」を礼拝することを、あたかもかせや綱につながれた不自由なこと、すなわち悪いことであるかのように喧伝し、そこから自由になること、すなわち神さまに対してあからさまに不従順になることを人々に推奨してやむことを知りません。それが私たちの生きる世界というもので、私たちはそのような中でかえって不自由な思いを味わいますが、私たちは、そのような地上の者たちの営みを笑い、怒りをもって彼らのことをおさばきになる主にこそ目を留め、主を恐れる者でありたいものです。
<祈りの課題>救いの証しをいつでも語れるように、つねに備え、語るべきときが来たらあますところなく語れる者となりますように。
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