214 8月2日 士16使20エレ29マコ15
士師記16章……サムソンの愛した女が敵に通じていたために、隙を突かれたサムソンは両目をえぐり出されて敵の意のままにされました。しかし、主はサムソンを負けたままになさらず、ナジル人の象徴である髪を伸ばされることによって、サムソンに再びチャンスを与えられました。サムソンは死にましたが、その死は主の敵に途方もない打撃を与えてのものでした。私たちも罪を犯して打撃を受けることがありますが、神さまはその上を行かれ、私たちに勝利をもたらされることによってご自身の栄光を現されます。
使徒の働き20章……主の働き人は最善を尽くして群れを主のみに献身させますが、それでもいつかはその群れを離れ、自分が導いてきた働きを手離すときがやってきます。それは、凶暴な狼のごとき攻撃者がやってこようとも、どう振る舞うかを群れの後継指導者の選択に任せるということであり、それは大局的に見れば、彼らのことを「神とその恵みのみことばにゆだね」るということです。私たちはいつでもその決断ができるように、今与えられている教会形成の現場において最善を尽くす必要があります。
エレミヤ書29章……主の民はバビロン捕囚というものを、わざわいではなく、いのちと平安を与える主の計画として受け入れる必要がありました。主のご計画はしばしば、人間的な目から見ての祝福と大いに異なることがあります。しかし私たちは、自分にとってよいことが起こらなかったとしても、主のみこころがなるならば、それで喜ぶ必要があります。私たちにとっての喜びはいつでも、主のみこころがなることであるべきです。
マルコの福音書15章……ピラトはイエスさまを十字架につける決定を下しただけではありません。まるでだめ押しのように、イエスさまをむちで打ちました。神の子さえも好き勝手にできるかのように振る舞う、神をも恐れぬ行為です。時折、ピラトはやむにやまれずイエスさまを十字架につけたなどと、ピラトを弁護するような言説に出会いますが、このようなピラトの行為は一言も弁護のしようもありません。しかし、弁護のしようのない罪を犯す罪人であるという点では、私たちも同じです。私たちが使徒信条を告白するとき「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と唱えますが、それはイエスさまの十字架が歴史的事実であり、ローマの権力のもとに執り行われたということを言い表すのとともに、ピラトのごとき弁護できぬ罪人である私たちがイエスさまを十字架につけ、むち打ったということでもあります。
<祈りの課題>イエスさまの十字架を覚え、徹底して悔い改める私たちとなりますように。
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