229 8月17日 Ⅰサム9ロマ7エレ46詩22

サムエル記第一9章……サウルにとって、父親のろばをさがしに行き、その行方を尋ねようと先見者のところに行くことは、王として油を注がれることにつながりました。ろばをさがすことは責任の伴うことであり、また危険の伴うことであったので、どれだけ不安だったことでしょうか。そのような中でサウルは、神さまの導きを求める選択をしたわけですが、結局、ろばが見つかっただけではありません。王として、ペリシテの手から救う者として立てられました。彼の果たす責任は父の家だけではなく、イスラエル全家がその対象となりました。私たちも今取り組んでいることはごく小さいことかもしれません。しかし、やがて大きなこと、神の御国を主とともに治めることへとつながっていきます。

ローマ人への手紙7章……私たちにはみな、罪の律法があります。罪を犯させる肉の性質です。私たちは救っていただき、神の律法に従いたいという思いが与えられているゆえ、このような罪の思いが今なお自分の中に存在することに悩み、恥じます。このような私たちですが、それでも神の律法が与えられ、この神の律法にお従いしたいという思いが与えられているのは事実であり、それゆえに罪の中に陥ることから守られていることは感謝なことです。しかし、この神の律法を守り行うとは実際にはどういうことなのでしょうか? ユダヤの宗教指導者が解くようにではありません。イエスさまの十字架を信じよという神さまのみこころに従順にお従いすることです。信じることだけで、何の努力もいりません。

エレミヤ書46章……エジプトの滅亡が預言されています。エジプトは、バビロンの手によって滅亡することが告げられました。しかし、これは単なる国々の栄枯盛衰の物語ではありません。エジプトがさばかれるのは、神の民に特別に神さまが御目を注いでくださっているゆえです。私たちも大いなるみわざをもって神さまが守り導いてくださることを信じ、神さまに感謝しましょう。

詩篇22篇……私たちは時に、自分はだれにも助けてもらえない孤独な存在のように思えてならないことがあるでしょう。この詩篇は、そのような境地に置かれた詩人ダビデの詩ですが、同時にこれはイエスさまの十字架の預言となりました。イエスさまが十字架の上で孤独な戦いをされたのは、私たちのためです。私たちもイエスさまの十字架の勝利によって、勝利をいただいています。

<祈りの課題>神さまが特別に私たちを愛し、導いてくださっていることに、私たちがいつも感謝し、みわざを祈り求めることができますように。

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