215 8月3日 士17使21エレ30-31マコ16
士師記17章……それぞれが自分の目によいと思えることをすることは、宗教的な態度にも反映されます。家庭内でどろぼうを行い、それを元の持ち主である母親に返したら、今度はそれで偶像をつくらせるようなミカの家庭は、勝手に主の宮をつくり、祭司を任命するような者たちでした。見えるところが敬虔であればいいのではありません。敬虔を利得の手段にするような姿勢は、忌まわしいものです。私たちの主にお従いする姿勢は、このような自己中心によるものであってはなりません。自分の目によいと思う信仰の姿勢から自由になるためにも、私たちは教会に所属し、教会中心の信仰生活を送る必要があります。
使徒の働き21章……主のしもべが十字架の道を歩み、そのいのちさえも犠牲にしようとしているのを見るのは、教会に属している者たちにとっては忍びないものです。なんとしてでも犠牲になるような道を歩まないように引き留めようというものです。しかしこのときパウロは、引き留める者たちを諫め、主イエスさまの名のために死ぬことも覚悟していると語り、彼らを黙らせました。私たちも教会の人たちのことを思うと、十字架の道に踏み出すことに躊躇してしまわないでしょうか? しかし、イエスさまがお語りになった一粒の麦のたとえを想起しましょう。教会が働き人のためにとりなして祈るべきは、いのちが守られることであるのはもっともですが、それ以上に、その働き人の生き方をとおして主のご栄光が豊かに現されることではないでしょうか。
エレミヤ書30章~31章……神さまはご自身の民を建て直されます。それは、新しい契約を民と結んでくださることによってです。新しい契約は、過ぎ去っていく律法の文字(もんじ)によるものではなく、御子イエスさまご自身がもたらしてくださるものです。私たちがイエスさまの十字架を信じる信仰によって結んだ契約は、私たちの心に書き記されています。つまり、私たちにいのちあるかぎり有効なものです。決してお見捨てになることのないイエスさまに結ばれていることに感謝し、生涯お従いしましょう。
マルコの福音書16章……マルコの福音書には結びが2つありますが、一方は、宣教をイエスさまがご自身が行われたと語り、もう一方は、宣教を弟子たちが行なったとあります。これは、主のみことばを宣べ伝えるということにおける二面性を語っています。私たちがイエスさまの十字架のみことばを宣教するということは、イエスさまご自身が宣教しておられるということです。このことに私たちは恐れを抱かないでしょうか? しかし、同時に励ましと慰めをいただかないでしょうか? 私たちにとってのすべての宣教、教会形成は、イエスさまご自身が働いておられることと信じ受け入れ、イエスさまに感謝してまいりましょう。
<祈りの課題>私たちが宣教や教会形成の難題にぶつかるとき、その場所にイエスさまが直接働いてくださっていることを信じ、問題を主の御手にゆだねる私たちとなりますように。
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