212 7月31日 士14使18エレ27マコ13
士師記14章……主はイスラエルに敵対する民族ペリシテと事を起こすため、サムソンをお用いになりましたが、この箇所を読むと、サムソンはしたい放題のことをしていることがわかります。獣の死体に触れてそこから食べ物を取るなど、してはいけないことですし、その一連の不思議なできごとをなぞかけにすることも、それを女性の情にほだされて解き明かしてしまうことも、なぞかけに負けたために大量虐殺に手を染めることも、どれをとってもイスラエルの士師にふさわしい行動とは言えませんでした。主は私たちを用いてみわざを行われ、ご自身の栄光を現されますが、そのように主の器となっている私たちは、何をしても許されるとばかりに勝手に振舞ってはなりません。何事もふさわしい行いというものがあり、主はその行いの基準を、みことばによって示していらっしゃいます。
使徒の働き18章……アテネに続くパウロによるギリシア宣教の地はコリントで、この地での働きは1年6か月の長きにわたりました。この地にてパウロは、ローマ出身のディアスポラユダヤ人、アキラとプリスキラの夫婦という同労者を得ました。この夫婦を宣教の同労者にしながら、パウロもまた彼らにとっての糧を得るための仕事を手伝いました。このような強い協力関係が、宣教と教会形成を前進させます。私たちの教会において、そのような教職者と信徒の強力な関係は成り立ち、宣教と教会形成は前進していますでしょうか?
エレミヤ書27章……まことの主のみこころは、主の民ユダがバビロンに捕らえ移されることで、主を捨て去り偶像礼拝におぼれた彼らを懲らしめられることでした。しかしユダの宗教指導者たちは、この期に及んで主のみこころを曲解し、ユダの地にとどまることがみこころであると主張し、そのように語らないエレミヤを偽預言者扱いしました。どの時代においても、本物の主のみこころを語る者は迫害を受けます。私たちもそうではないでしょうか? しかし、いかなる目にあうとしても、主は私たちを用いてそのご栄光を現し、主のしもべとしての生き方を全うする私たちには、永遠のいのちの冠を与えてくださいます。
マルコの福音書13章……イエスさまが再びこの地に来られるときは、イエスさまご自身も知らないと言っておられます。しかしこれはイエスさまも全能ではないということではなく、その再臨の時刻、終わりの時刻がいつかということに対して、イエスさまは関心を持っておられないということです。ただし、人はその時刻がわからないからと、好き勝手なことをしていてはなりません。つねにその終わりの時が来てもいいように、世界を見張り、備え、備えさせることが必要です。私たちには終わりの時刻に対する準備ができていますでしょうか?
<祈りの課題>終わりの日に備え、備えさせる私たちとなることができますように、
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