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152 6月1日 申5詩88イザ33黙3

申命記5章……主のみこころは、主の民が地上において長く生きること(すなわち、主の領域をこの地上に保ち、拡大すること)であるゆえに、主のご命令を右にも左にもそれずに守り行うことです。私たちは、どうせこの高い基準の命令など守れないと、あきらめて、刹那的な生き方をするようになってはいけません。もちろん私たちは罪人ゆえに、完全に守り切ることはできないにせよ、主は私たちを神の民にふさわしく日々きよめてくださり、みことばを守り行えるように導いてくださいます。 詩篇88篇……私たちは苦しみの中にあるとき、神の怒りを感じたりしないでしょうか。本来私たちは、神の怒りに触れるべき存在でした。しかし私たちには、朝に、昼に、夕に、神さまに叫び求めることができるという特権があります。私たちは孤独なようでいて、孤独ではないのです。 イザヤ書33章……主が救いと知恵と知識の富であるということは、単に人間的に見てそうだということ以上の次元の話です。その富は、主を恐れることによってはじめて私たちのものとなります。主を恐れること、これが人間にとって初めの行いであり(主を恐れるゆえに私たちは神を愛し、人を愛する)、すべてです。 ヨハネの黙示録3章……主は再び来られますが、もし私たちが霊的に眠っていて、この世の行いにうつつを抜かしていたら、主は「盗人のように」来られると警告していらっしゃいます。私たちにそのような終末が突然臨むことのないように、私たちはつねに目を覚まし、この世の罪深い行いに染まってしまうことのないように、互いに励まし合ってまいりたいものです。 <祈りの課題>世の終わりを感じられる今日この頃ですが、私たちが目を覚まして、再臨のイエスさまの御前に恥ずかしくなく立てるものとなれるよう、日々備えますように。

151 5月31日 申4詩86-87イザ32黙2

申命記4章……主はあらためて、新たに入って所有する地において、主だけを神とし、偶像の神々を神としてはならないことを語られました。しかし実際の歴史を見ると、イスラエルは偶像へと堕落し、ついにはここで主が警告していらっしゃったとおり、主はイスラエルにさばきを下されました。このような警告のみことばをいかなる姿勢でお聴きするかということは、いのちを左右するという点でとても大事なことです。 詩篇86篇~87篇……私たちが変わらずに保つべき信仰告白は、主だけが神であるという告白です。世界はこぞって価値観が相対化し、それは神信仰の領域にまで及んでいますが、私たちキリスト者がそのような風潮に合わせて神信仰を譲歩しているうちにも、世界では絶対に自分の信仰や主義を譲らない者たちがその領域を広げていっています。私たちがすべきことは、そのような世界において自分の信仰告白を譲らずに保ちつづけることです。 イザヤ書32章……主を認めず、キリストに敵対する不義な者、愚かなたちは自分を肥え太らせようとも、貧しい者、虐げられた者に目を向けようともしません。しかし、まことの王なるイエス・キリストが義によって治める世界が実現するとき、もはやそのような者たちは、働く余地がなくなります。私たちはそのような世界を期待していますでしょうか? ヨハネの黙示録2章……教会において責められるべきこと、それは、主の愛をもって互いに愛せよというキリストの教えから離れること、そして、そのように教える誤った教えを教会の中に招き入れてしまうことです。私たちはつねに立ち止まり、初めの愛の中にとどまっているか、心を調べていただきたいものです。 <祈りの課題>私たちが、その生活する領域のただ中にいる社会的弱者たちに目を向け、主の愛を具体的に実践するものとなりますように。

150 5月30日 申3詩85イザ31黙1

申命記3章……モーセはヨルダン川を越えて、カナンの地に行くことができるようにと主に懇願しましたが、その祈りは聞き入れられず、ヨシュアが後継者となって行くことが告げられました。これは罰ととらえるべきではなく、これまでかたくななイスラエルのため日常で大いに労したモーセのことを天国のみもとに引き寄せてくださる、恩寵ということができます。 詩篇85篇……主は御怒りを発せられるお方ですが、それとともに、御怒りから私たちのことを救ってくださるお方です。私たちは本来御怒りを受けるべき存在でしたが、御怒りに耐えることなどできません。私たちのすることは、御怒りから逃れさせてくださるために主が与えてくださった、イエスさまの十字架の恵みにすがることです。 イザヤ書31章……主の民とされている者たちは、エジプトに象徴される、この世では強大に見えても実際は偶像に仕える者にすぎない、むなしい存在に拠り頼むべきではありません。しかしこの世界で強大な力を持つ者は、創造主なる神さまに背を向けることでその力が成り立っているようなケースがとても多いものです。私たちはそのような、目に見える力ではなく、目に見えない主に拠り頼む必要があります。 ヨハネの黙示録1章……イエスさまが雲とともに来られる、終末の予告です。そのとき、特に反キリストとしてこの地にうごめいた者たちは、自分の破滅を知って嘆きますが、もう遅いです。この大いなる警告のみことばを読んで、早くイエスさまのもとに立ち帰る人は幸いです。 <祈りの課題>まだまだ、この世のものを頼りとしている要素の多いクリスチャンたちが、主のみにお従いすることができますように。

149 5月29日 申2詩83-84イザ30ユダ

申命記2章……主がイスラエルに領土を与えられるか与えられないかは、そのもともとの領土を所有する民の先祖が何者であったかにかかっていました。神さまは、アブラハム、イサク、ヤコブの祝福の家系につながる、ロト、エサウの子孫たちの領土を、イスラエルに占領するようにはおっしゃいませんでした。主と契約を結んだ族長たちの祈りは、このような形ででも有効でした。そして私たちもまた、族長たちの祈りの実が結ばれ、信仰によって救われた存在です。 詩篇83篇~84篇……族長たちの祈りが、モアブやアンモンやエドムがイスラエルの攻撃から免れるという形で実を結んだわけですが、そのような者たちも逆にイスラエルを攻撃するならば、主は容赦しませんでした。主はこのようにして、イスラエルに戒めを与えつつも、絶対的に守ってくださることを約束してくださったのでした。 イザヤ書30章……イスラエルが弱くなったとき、その拠り頼むべき存在は、エジプトのような強大に見えても主に敵対する存在ではありません。そのような存在は主の御前ではむなしいものです。私たちも世のものに拠り頼もうとする前に、主に祈り、主の御助けをいただくものとなりたいものです。 ユダの手紙……主の敵はその行いからしてけがれていました。主はそのような者に、悪魔・悪霊と同様のさばきを下されましたが、私たち主の民はこのようなけがれた行いに身を焦がすのではなく、主の勝利にあずかる者にふさわしくある必要があります。こんにち、多様化の美名のもとに、聖書が罪と定めていることを美しいこと、推奨すべきことと喧伝する風潮が多々ありますが、それは主の敵の策略であり、私たちはそこから救われ、きよさを保つことで勝利するものとなりたいものです。 <祈りの課題>みことばの戒めている悪い生活、悪習慣から抜けられないで苦しんでいる教会大しまいに、主の特別なお導きがありますように。

148 5月28日 申1詩81-82イザ29Ⅲヨハ

申命記1章……モーセはイスラエルの民の前で、みおしえを確認します。その振り返りはときに、イスラエルのマイナスの経験に触れることでもあり、痛みの伴うことでもありましたが、そのような先祖の罪を経て今の自分たちがあることを確かめています。今の私たちの存在も、過去の先祖たちと無関係に存在するのではありません。先祖の罪を認め、悔い改めることは、私たちが主のみこころにお従いするうえで必要なことです。 詩篇81篇~82篇……主にお従いしない者たちは、たとえそれが主の民であったとしても、主からそれ相応のお取り扱いを受けます。それは、主が彼らのことを、その頑なな心のままに歩むようにされる、ということです。自分は今、ひどい目にあっていないから許されている、と考えるのは、大きな間違いです。罪深い歩みをしていることそのものが罰ということに早く気づき、悔い改めるならば、それこそが恵みの歩みです。 イザヤ書29章……主の民が陥りやすい罠は、表面的には主を敬っているなりをして、心では主から遠く離れてしまう、ということです。たとえ民が主のものであったとしてもそのようになってしまうのは、指導者が間違った導きをしてしまうせいですが、主はそのような指導者の誇る「霊的な知恵」をなきものにしてしまいます。まことの知恵なるお方はイエスさまおひとりであり、指導者として立てられている者も民の一員として、イエスさまの知恵にお聞きしていく必要があります。 ヨハネの手紙第三……いつの時代のどこの教会にも、ふさわしくない形で群れのリーダーになりたがる人というのはいるものです。そのような者は気に入らなければ教会に人々を入れず、好き勝手に教会をコントロールしようとします。しかしそのような「リーダー」こそ、教会の中に立ててはいけない人です。ディオテレペスがヨハネたちを受け入れなかったことから明らかになったように、リーダーとしてふさわしいかどうかは、立てるべき霊的秩序を尊重しているかどうかで判別されます。私たちの教会でもふさわしくリーダーシップが行使されますように祈りましょう。 <祈りの課題>ふさわしくない形でリーダーシップを行使して、教会に混乱をもたらすような兄弟姉妹が悔い改め、ふさわしい人がリーダーに立てられ、そのリーダーシップに教会が従っていきますように。

147 5月27日 民36詩80イザ28Ⅱヨハ

民数記36章……ツェロフハデの娘たちは、ツェロフハデの土地の継承者に定められていましたが、ヨセフ部族に属する彼女たちが別の部族の男性に嫁いだ場合、結果としてヨセフ部族の土地が損なわれることになる、という問題が起こります。それゆえ、彼女たちはヨセフ部族に嫁ぎなさいという裁定が下されました。結婚に関するこの裁定は、地境を移すことが起こらないようにという主のみこころによるものでしたが、こんにちにおける私たちクリスチャンの結婚も、クリスチャンの社会を保つ(地境を守る)ための知恵という観点から、クリスチャンどうしでの結婚が推奨されます。ツェロフハデの娘たちがヨセフ族の男性たちの間でよい出会いに導かれる必要があったように、私たちクリスチャンも、教会の未婚の兄弟姉妹によい出会いがあるように、お祈りすべきではないでしょうか。 詩篇80篇……苦難の中にある詩人が主に祈ることは、第一に、主が自分たちのことを元に戻してくださること、そして、主が御顔を自分たちに照り輝かせてくださることです。このとき主の民は、大いなる主の懲らしめを受けて、主の敵の嘲りの的となっていましたが、それは昼も夜も涙を流すべきことでした。しかしその状態に御民がとどまることは、何よりも主のご栄光という点でふさわしくありませんでした。私たちは苦難にあっているならば、それを主からの当然のお取り扱いと達観するのではなく、涙の祈りをささげて、主のご栄光が回復されるようにとお祈りしてしかるべきです。 イザヤ書28章……収穫物に対してはそれが用いられるために、細かく砕くことをするものですが、砕きすぎるならば今度は風味や香りを損なうので、ふさわしい程度にしなければなりません。それと同じように、主はご自身の民を砕かれ、懲らしめられますが、主はそのお取り扱いにも限度を設けておられ、私たちが完全に滅んでしまうまでさばかれるということはありません。私たちはいま、主の懲らしめというべき苦難にあっているかもしれませんが、そのときは、その苦しみから救い出してくださる主に叫びましょう。 ヨハネの手紙第二……主が特に私たちに望まれ、命じられることは、私たちが互いに愛することです。愛し合うことは主の真理のうちを歩むことであり、私たち教会にとってその歩みは喜びとなります。神さまの栄光のため、私たちの喜びのため、他者を具体的に愛する行いへと、私たちの行いが...

146 5月26日 民35詩79イザ27Ⅰヨハ5

民数記35章……レビ人、献身者は、相続地を持ちません。しかし、そんな彼らも生活をする必要があります。彼らが生活をするためには、ほかの部族に土地を提供してもらう必要がありました。このようにして、イスラエルは神の民にふさわしく、生活面においても主を礼拝することを中心とした共同体となっていくことが、みこころにかなうことでした。 詩篇79篇……主の民が傷つけられるということは、主の栄光が汚されるということです。もちろんその原因は、現にこの地を生きる主の民にとっての先祖にあたる民が罪を犯したゆえ、ということもあるわけですが、もし民が主に祈り求めるならば、主はいつまでも、民が傷つき、没落したままにしてはおかれません。必ず救ってくださいます。 イザヤ書27章……7節。主の民と、主の民に敵対する者は、主から同じ取り扱いを受けることはありません。主の民に臨むものは「懲らしめ」であり、主に敵対する者に臨むものは「さばき」です。私たち主の民は、世の者たちと同じように主から見捨てられ、滅んでしまうと考えてはなりません。私たちが厳しい体験をするのは、その体験によって主に立ち帰るためであり、滅びるということではありません。 ヨハネの手紙第一5章……神を愛していることは、主にある兄弟姉妹を愛することによって証明されます。兄弟姉妹を愛することのない「信仰生活」は、「信仰生活」の名に値しません。単なるアクセサリーで「宗教」をしている程度のものです。もちろん、私たちはそれでも、兄弟姉妹が愛せないという現実に直面して、悩むこともあるでしょう。どうか神さまに祈って、愛する力が与えられるように求めてまいりたいものです。間違っても、その受け入れられない相手がさばかれるように祈ってはなりません。 <祈りの課題>私たちの間の兄弟愛が増し加わりますように。

145 5月25日 民34詩78:38-72イザ26Ⅰヨハ4

民数記34章……主がイスラエルの民に領有することをお許しになったカナンの地は、はっきりその境界線が定められていました。それより狭くても、広くてもいけなかったのでした。主の民イスラエルにとってカナンを領有することは、まさしく、主のご命令であり、主のご命令どおりにその地を治めるということでした。 詩篇78篇38節~72節……主は、ご自身の民イスラエルを救う人として、ユダの地からダビデをお選びになりました。このことは、のちの日に救い主として、ダビデのすえなるイエスさまがこの地にお生まれになることによって、その恵みが全人類のうちから召し出された神の民に及ぶことで、このみことばの恵みがいよいよ実現します。 イザヤ書26章……主が義のさばきをこの地上においてなされるとき、それは恐ろしいことではありますが、正しい者、主に選ばれた者は、そこから主の義、主はいかに正しいお方であるかを学びます。悪しき者はそこから学ぼうとしません。まことに、この地上のあらゆる戦い、疫病の流行、天変地異から、主の正しさを学ぶことができる者は幸いです。 ヨハネの手紙第一4章……私たちクリスチャンの間では、愛し合うことが強調されています。それは、神さまがまず私たちのことを愛してくださり、その愛を私たちに注いでくださった神さまが、そのように互いに愛し合うことを私たちに求めていらっしゃるからです。私たちが愛を実践することにおいて律法的にならないためには、何よりも第一に、神さまの愛を受け取ることが必要です。 <祈りの課題>戦争や疫病の流行、自然災害といったことが起こるとき、私たちが主の正しさをいよいよ思い、この恐ろしさから主を求める人が起こされるように祈る者となりますように。

144 5月24日 民33詩78:1-37イザ25Ⅰヨハ3

民数記33章……イスラエルの旅は、主がエジプトの神々にさばきを下されたことに始まり、カナンの偶像をことごとく粉砕することに終わります。主は、主の民をご自身から離れさせようとする偶像の存在をお許しになりません。私たちは主の民として、偶像をそのような忌むべきものとしてとらえ、避け、また対決する信仰を持っていますでしょうか。 詩篇78篇1節~37節……みことばには、ときに極めてかたくなだったり、愚かだったりするような信仰の先祖の所業の記録に至るまで、ことごとく収録されています。それは、私たちを教え、主の御業に目を留め、主のご命令を守るためです。御業を知り、主のご命令を守るためには、みことばをお読みすることが必須です。今日もみことばをお読みできますことを感謝しましょう。 イザヤ書25章……主がモアブをさばかれるという預言ですが、主の民は偶像の民に囲まれて、大いなる苦しみにあうものです。しかし主は必ず御民を救われ、大いに養ってくださいます。そして反対に、御民を苦しめる者には大いなるさばきを下されます。私たちも今、苦しみの中におかれているかもしれませんが、この苦しみはいつまでも続くものではないと信じましょう。 ヨハネの手紙第一3章……私たちは兄弟姉妹の苦しみに関心を持つ必要があります。自分のことにしか関心のない人は自己中心であり、そういう人にとっての信仰は、単なるアクセサリー以上のものではありません。私たちに信仰があることは、困窮する兄弟姉妹に具体的に愛を(それこそ施しのような形で)実践することによって証しされます。 <祈りの課題>自分のことだけではなく、ほかの兄弟姉妹に絶えず関心を持ち、具体的に愛を実践することができますように。

143 5月23日 民32詩77イザ24Ⅰヨハ2

民数記32章……モーセは、ガド族とルベン族がヨルダン川の東側に領地を得ようとする動機をしっかり問い、彼らこそがヨルダン川を渡ってカナンに攻め込む先頭に立つという確約を引き出しました。ガド族とルベン族もイスラエルの一員として、カナン征服のためにともに戦う必要があり、土地の取得はそれからの話でした。主の民において警戒しなければならないことは、もっともらしい理屈が通って、いちばん大事にされなければならないこと、すなわち、主のみこころに聴き従うことがおろそかにされることです。 詩篇77篇……私たちはときに、神さまがまるで自分のことを忘れてしまわれたのではないかと不安に陥るものです。しかし、そのようなとき、私たちはすることがあります。それは、神さまがこれまでの間、ずっと自分に愛のみわざを成しつづけてくださったということに心を留めることです。神さまは変わることがありません。かつてみわざを行なってくださった神さまは、これからも変わらずにみわざを行なってくださいます。 イザヤ書24章……終わりの日に主の御名がほめたたえられるという預言ですが、そのような中でイザヤは、だめだ、悲しい、と、主に背を向けた者たちの破滅を嘆き悲しんでいます。これは私たちの持つべき態度ではないでしょうか? 私たちは自分たちさえ救われればいいという態度ではいけません。この地の者たちに臨む悲惨さに対し、主がどんなに心を痛めておられるか、その痛みを思い、心を痛めつつとりなして祈ることが求められています。 ヨハネの手紙第一2章……私たちが罪を犯したとしても、御父の御前にてイエスさまがとりなしてくださいます。しかし、みことばが求めていることはあくまで、私たちが罪を犯さないようになることです。そのためにも、私たちは主の恵みの中で主のご命令を積極的に守らせていただくのであり、そのようにして神をますます知る営みをするのです。 <祈りの課題>落ち込んで神さまを見失っている兄弟姉妹が、主の恵みに気づき、早く信仰を回復しますように。

142 5月22日 民31詩75-76イザ23Ⅰヨハ1

民数記31章……戦利品についての記述ですが、もう一方で見落とせない記述は、イスラエルを祝福したはずのバラムが死刑になったことです。それは、バラムのしたことは一見すると祝福のようでも、実際にはイスラエルに偶像礼拝を持ち込ませ、その結果多くの者を死に追いやり、イスラエルに大きなダメージを与えたからでした。バラムはまるで、こんにちにおける巧妙に教会に入り込む異端のようではないでしょうか。彼らは潜入した日曜礼拝の祈祷の時間に心を合わせ(るふりをし)ますが、実際は神の民なる教会に大きなダメージを与えます。このような者は容赦なく、教会の群れから出ていっていただかなくてはなりません。 詩篇75篇~76篇……神さまは地に住む人たちがご自身に従順であることを願われますが、ご自身に従おうとしない悪者には、それ相応の取り扱いをなさいます。ぶどう酒を与えられるとは、彼らが欲望のままに生きることをあえてお許しになるということです。しかし彼らの存在は依然として、全知全能なる神さまの御手のうちにあります。私たちは一刻も早く、この世の酔いから醒め、主に立ち帰る必要があります。 イザヤ書23章……隆盛を誇る民も主のさばきに服するときには無力です。主はご自身から離れ、肉に従って生きる者には、容赦ないさばきを下されます。しかし、時が満ちれば、主は彼らに回復を与えてくださいます。私たちもまた主の御手がくだり、大いに苦しまされることもあるものですが、絶望してはなりません。主は真摯に悔い改める者に、まことの回復を与えてくださいます。 ヨハネの手紙第一1章……6節から9節はクリスチャンの4つの局面を語っています。6節「神と交わりがあると言いながら闇の中を歩むなら偽りである」、7節「光の中を歩むならきよめられる」、8節「罪がないと言うなら偽りである」、「罪を告白するときよめられる」……ここからわかることは、私たちは、自分には罪がないと言ってはならない、罪を告白することによって私たちは光の中を歩むものとされ、きよめをいただく、ということです。私たちに必要なのは、悔い改めの生活です。悔い改めは自分の犯した罪にフォーカスすることではなく、罪を赦してくださったイエスさまの十字架にフォーカスすることです。 <祈りの課題>私たちが悔い改めというものをネガティブにとらえるのではなく、神さまとのより深い交わりに入れられる恵みの道...

141 5月21日 民30詩74イザ22Ⅱペテ3

民数記30章……誓願についてのおしえ。誓願というものがいかに厳粛に行われるべきものか、細かく規定されています。誓願をするからには果たす必要があるわけです。しかし、神の民はこの誓願というものを、きわめていい加減な態度でするようになってしまいました。イエスさまはそのような人の罪性を念頭に置かれ、そのような罪人は神かけて誓う資格がないことを警告されました(マタイ5:33~37)。誓願という行為は神さまの聖性を認めたうえでのことなのに、西岸という行為で、かえって神さまの聖性を引き下げることになってしまっていたわけです。私たちは、果たせもしないことを誓うような愚かなことをしてはいないでしょうか。 詩篇74篇……神に敵対する者は、聖所に火を放って破壊したり、聖所に自分たちの神々のしるしをつけて霊的に汚したりします。これはまさに、日本がかつての韓国教会にしたことと同じではないでしょうか。1919年4月15日にクリスチャンたちを礼拝堂に閉じ込めて火を放ったことも、1938年以降に神社参拝を韓国教会に強要して礼拝堂に神棚を設置させたことも、いずれもこの詩人の嘆きにあたることです。それゆえに日本の教会の心あるクリスチャンたちは、悔い改めと謝罪を韓国教会に対して行なってきました。私たちは韓国のクリスチャンに会って謝罪する機会はそうないかもしれませんが、私たちにつながる日本人がそのようにして韓国教会を迫害したという事実は、日本人のクリスチャンとして記憶しておく必要があるのではないでしょうか。 イザヤ書22章……列王記第二によれば、エルヤキムは宮廷長官としてヒゼキヤ王の代理となり、エルサレム征服に赴いたアッシリアのラブ・シャケとの交渉に臨んだとあります。ユダとエルサレムの命運は、エルヤキムの両肩にかかっていました。しかし、エルヤキムはたまたまその役職についていた人ではありませんでした。神さまの御目には、ダビデの家の鍵を握る、単なる一国家の政治家以上の霊的指導者でした。私たちもまた、ダビデの家の鍵、御国の鍵をを託された者として、この地にキリストの救いを語ることで人々をサタンの手から奪還する使命が与えられています。 ペテロの手紙第二3章……主のみことばが描く終わりの日の様相はあまりに恐ろしいものです。しかし、それを認めたくない者たちは、現実にこの世界がそのようになっていないことを挙げ、みことばの...

140 5月20日 民29詩73イザ21Ⅱペテ2

民数記29章……ここでは特に、祭りを行うにあたって、決められた日においていかなる仕事もしてはならないことが強調されています。本来、主の民が主の御前に出るということは、経済的な必要を自分の努力で入手する「労働」の手を休め、主がつねに養ってくださっているということへの信仰と感謝を表明する意味で、完全に主の御前に出てしかるべきです。こんにち私たちは、このように仕事以上に主の御前に礼拝をもって進み出ることを大切にしようという態度を保つことが、おろそかになってはいないでしょうか。 詩篇73篇……主に敵対する者が栄え、主の民を踏みにじるとき、私たちの心は怒りで燃えないでしょうか。しかし詩人アサフは、そのように彼らに対して怒りを燃やした自分の姿に気づき、主との交わりに身を投じました。そこから彼らの最期を知り、アサフ自身も、主の御前にふさわしい態度を回復しました。私たちは特に、主の御名が汚される時怒りを覚えるものですが、その怒りは果たして、「聖なる怒り」などと正当化してもよいものか、怒る自分を正義とすることは果たしてふさわしいことなのか、よくよく自分自身を点検し、とかく感情的になることを悔い改め、主との平安の交わりの中に保たれるものとなりますように祈りましょう。 イザヤ書21章……わが世の春を謳歌し、主に就く者たちを踏みにじってやまないように見える反キリストの勢力は、その信奉していた偶像もろとも滅ぼされます。彼らがこの世界を支配しているという現実だけに目を止めて、絶望的になったりしていてはいけません。ほんとうに目を止めるべきは、そんな彼らを主がゲヘナで滅ぼされ、主に就く者たちが最後にはキリストともに勝利を得るという、ほんとうの現実です。 ペテロの手紙第二2章……この箇所で取り扱われていることは、御民、主の民の中の偽預言者の出現です。注意しなければならないことは、そのような信仰共同体の中にも、贖い主なる主さえも否定する異端は現れ、ということです。しかし、彼らがそのように異端に走る動機を突き詰めると、貪欲によって純真な教会を食い物にするため、ということです。神の羊を牧するという崇高な動機からでは決してありません。私たち教会は、リーダーになろうとする人たちのその動機を厳しく見極め、教会の聖性が保たれるようにしていかなければなりません。 <祈りの課題>教会が、巧妙なやり方で食い込んでくる異...

139 5月19日 民28詩72イザ19-20Ⅱペテ1

民数記28章……主はご自身の民に、定期的に祭りをもってご自身の御前に進み出るように命じられました。毎日ささげものをささげるだけではなく、安息日も、毎月の初めの日も、第一の月の14日から15日、そこから数えて7日間も、7週の祭りにおいても。このことからわかることは、主はそれほどまでに私たち主の民との交わりを求めていらっしゃる、ということです。それは、私たちが主を第一とすることで、主の民にふさわしい、祝福された生き方をするためです。私たちは毎日のディボーション、そして主の日の礼拝という時間において、神さまとの喜びの交わりを体験していますでしょうか。 詩篇72篇……私たちは第一ペテロ2章9節が語るように、王(である祭司)です。私たちはこの地を祝福し、この地において疎外された貧しい人がひとりでもいなくなる努力をする力を主から授かることによって、王権を行使します。人々の上に君臨し、人々の畏敬を集める王ではありません。イエス・キリストのように、仕えることで王権をこの地に顕す王です。 イザヤ書19章~20章……エジプトに対する主のさばき、その結果エジプトが主の御前に悔い改めることを予告するこのみことばは、そのはるか昔の出エジプトにおけるさばきを連想させます。ナイルの賜物として一大文明を築いたエジプトも、主の民を虐げるならばこのような悲惨な有様に転落します。私たちは、旧新約聖書に繰り返される、主の敵が奢り高ぶるあまり主の民を虐げた結果、悲惨な最期を迎えるという記述から、この地における私たちの悲惨さはいつまでも続くものではないことを覚え、ますます救い主なる主に対する信仰を新たにさせていただきたいものです。 ペテロの手紙第二1章……自分の召しと選びを確かなものにする上で必要なことは、「励む」こと、すなわち「努力する」ことです。もちろんこれは人間的な頑張りではなく、少しでも主に結びつくことができるように、主との交わりにおいて不必要なものを脱ぎ捨て、遠ざけ、その分意識して主との交わりに身を投じることです。そうするならば、主が私たちに働いてくださり、私たちを主との喜びの交わりへと導いてくださいます。 <祈りの課題>私たちがみな、なおも罪を犯させる悪習慣から抜け出し、きよい主との交わりをつねに求める者となりますように。

138 5月18日 民27詩70-71イザ17-18Ⅰペテ5

民数記27章……主は、いかなることを行えば呪われるかということについて、かなり具体的に触れられました。それは一般的な倫理に照らしてもアウトのものもある一方で、一般的に見ればそれほど問題に思えないようなものもあります。しかし大事なのは、これが創造主なる神さまが、人間にもわかるように具体的にお定めになった掟であるということで、それを人間の側で云々して、守り行うかどうかを自分で考えるべきではありません。いかなることがあろうとも、私たちは神の民である以上、守り行うべきであり、また、守り行うように人々に教えるべきことです。 詩篇70篇~71篇……私たちは恥から救い出される必要があります。私たちにとって恥であること、それは、私たちの言動を通して、人々がかえって神さまの御名をそしることです。しかし、神さまはそのような中においても、私たちを恥から救い出し、ご自身のご栄光を大いに輝かせられるお方です。私たちを敵の嘲りから守ってくださり、なおご自身のご栄光のために用いてくださる主の御名をほめたたえましょう。 イザヤ書17章~18章……自分の住む場所が廃墟のようになることは、確かに絶望的なことです。しかし、主はそのように、この地をさばかれたままにしてはおかれません。絶望のただ中にある人々の心に、主を求める思いを与えてくださり、主を礼拝するように導いてくださいます。人の回復はそのように、創造主に立ち帰ることから始まります。 ペテロの手紙第一5章……イエスさまはペテロに、わたしの羊を飼いなさいとおっしゃいましたが、そのご遺志を引き継ぐようにして、ペテロは教会の指導者たちに、神の羊の群れを牧しなさいと言いました。私たち人間は羊のように頑迷で、また愚かな者ですが、主のもとに導く牧者のもとにいるならば迷うことはありません。それだけに牧者には重い責任が伴います。しかし、教会員は教会形成の責任を牧者に押しつけてはなりません。牧者に牧羊の命令が下されているように、教会員は牧者の導きに従うこともまた命じられており、そのように導きに従うことで、教会形成にともに励んでいくことになります。 <祈りの課題>クリスチャンがみな、教会形成の主体となろうとする意識を共有し、教会形成に励んでいきますように。

137 5月17日 民26詩69イザ16Ⅰペテ4

民数記26章……59節に注目しましょう。系図の中に「ヨケベデ」の名が登場します。彼女はモーセの母親でしたが、公式的な立場は、エジプトの王女の養子とされたモーセの「乳母」でした。しかし聖書の記述から、ヨケベデはモーセ(そしてアロンとミリアム)を、イスラエルの神に対する信仰をもって育てたことが垣間見えます。私たちもクリスチャン・ホームを形成するにあたって、子どもは自分の持ち物ではなく、神さまに託されて信仰の教育を施す存在であることを肝に銘じる必要があります。 詩篇69篇……時に私たちは、神さまに祈れば祈るほど、それがわが身の苦しみとなって返ってくるような体験をしないでしょうか。この詩におけるダビデもまさにそのような苦しみの中にありました。しかし、ダビデがその苦しみのゆえに祈らないという選択をしなかったように、私たちも、どんなことがあっても祈ることをやめてはなりません。主は必ず、私たちの祈りを聞いてくださり、私たちに平安と希望を与えてくださいます。 イザヤ書16章……主に敵対するモアブが、悲惨な結末を迎えることが預言されています。注目すべきは、彼らモアブが高き所で疲れ果てるまで祈っても、何にもならないと語られていることです。主に敵対する者はいかなる宗教行為に没頭しても、その願いがかなえられることはありません。そのような中で主は、子羊(イエスさま)が王座に就く王国をご自身の国に実現されることを語られました。私たちの王はイエスさまだけで、偶像の神、まことの創造主に敵対する存在では決してありません。 ペテロの手紙第一4章……私たちは、いま生きているこの世界が「万物の終わり」であることをきちんと意識していますでしょうか? この世界には、万物の終わりにふさわしいあらゆるけがれた文化、けがれた様相が存在し、私たちを取り囲んでいますが、私たちクリスチャンの兄弟姉妹のすることは、それらのものからきよく守られるべく祈りに専念し、互いがそのような文化の中において、むしろ愛を実践することでキリストを実現できるように、愛し合い、祈り合うことです。 <祈りの課題>私たち兄弟姉妹がこの世界の闇の文化に一線を引き、この世界から愛する隣人が救われるように、名前を挙げて祈りましょう。

136 5月16日 民25詩68イザ15Ⅰペテ3

民数記25章……イスラエルはモアブの女たちと姦淫し、偶像礼拝をする罪を犯しましたが、ヨハネの黙示録2章によると、このできごとの背後には、バラクをそのようにそそのかしたバラムの存在があったことがほのめかされています。バラクはバラムを用いてイスラエルをのろうことはできませんでしたが、姦淫の罪に陥らせることには成功しました。これはバラムの霊力がイスラエルより高かったということではなく、イスラエルに隙があったということです。私たちを取り囲む反キリストの勢力は、折あらば私たちに罪を犯させようと狙っています。しかし私たちは、そこから守っていただくという意味でも、つねに主との交わりを大切にする必要があります。 詩篇68篇……19節。神さまは日々、私たちの重荷を担ってくださるお方です。私たちは重荷を担って疲れ果てます。しかし、私たちクリスチャンにとっては逃げ込むべきお方がいらっしゃいます。神さまが日々重荷を担ってくださるということは、私たちのすることは、このお方のもとに日々担っている重荷を下ろし、担っていただくことです。神さまはそのように、私たちが重荷を下ろし、その重荷を御手にゆだねることを喜んでくださいます。 イザヤ書15章……主の民に敵するモアブの滅びの記述ですが、神さまはモアブが滅ぶことを当然のこととか、喜ばしいことと語っておられるのではありません。むしろ彼らの破滅の叫びに、主は心を寄せられて慟哭しておられるようです。現代のこの世界にも主に敵対する勢力、クリスチャンに過酷な迫害を加える人々も多くいますが、それでも主は彼らの行く末を思われ、彼らがその行いゆえに滅びてしまうことを悲しんでおられます。私たちが求めるべきは彼らの破滅ではなく、彼らが主に立ち帰ることではないでしょうか。 ペテロの手紙第一3章……私たちは苦しみを受けるものですが、苦しみはその受ける理由によって、性質が大きく異なってきます。悪のために苦しみを受けることは普通に起こることで、それを克服したからと特段ほめられるようなものではありませんが、苦しめられるほどに善を行うことは簡単なことではなく、ただ主の恵みが臨むとき可能となることです。私たちはその祝福を知るなら、苦しめられることをものともせずに善を行うことに飛び込んでいけるように、主の恵みを求めていけるのではないでしょうか。 <祈りの課題>私たちに迫害を加える人たち...

135 5月15日 民24詩66-67イザ14Ⅰペテ2

民数記24章……主の民を祝福する者は祝福され、呪う者は呪われる、これが主のみこころです。私たちは全能者成るお方のこの絶対の守りをいただいている存在であって、祝福を受けようとも、呪いを受けることは決してありません。 詩篇66篇~67篇……心に不義がある者の祈りを神さまは聞いてくださいませんが、神さまはそれでも祈りを聞いてくださることを、詩人はほめたたえてくださっています。なぜならば、キリストを信じる信仰ゆえに、神さまが人を不義から贖い出してくださったからです。 イザヤ書14章……あらゆる存在の上に君臨しようとしたサタンをおさばきになったように、主はバビロンをおさばきになりました。こんにちにおいても、主はこのような反キリストの存在、傲慢さのあまり創造主なる神さまに反抗し、神さまの民を踏みにじる者をさばかれます。 ペテロの手紙第一2章……私たちのアイデンティティは、神の民です。もともとは神の民ではありませんでしたが、キリストを信じる信仰を与えられたゆえに、恵みによって神の民としていただきました。その身分をいただいたのは、単なる個人的な救いのためではなく、救い主なるこのお方の栄誉を宣べ伝えるためです。 <祈りの課題>霊的な戦いのただ中にある兄弟姉妹にに対する力が与えられ、ついには勝利しますように。

134 5月14日 民23詩64-65イザ13Ⅰペテ1

民数記23章……バラムはバラクの希望に反し、何度もイスラエルを祝福しました。それが神さまのみこころにかなっていたゆえですが、バラムがバラクに振り回されるようにして何度となく祭壇を築き、祈ったことは注目に値します。これほど主のみこころを知っていたバラムは、なぜバラクに言われるがままに、主がイスラエルを呪う可能性を考えて祭壇を築いたりしたのでしょうか。バラムはたしかに、イスラエルを祝福する器ではありましたが、その当のバラムがだれに対して従順だったかを考えると、事は単純ではありません。私たちも主のみこころを成就するために用いられるものですが、それが主へのよろこびの従順から出たことであるのか、よくその動機を点検する必要があります。 詩篇64篇~65篇……不法を行う者は全き人、すなわち、全きお方である神さまによって全き存在とされている私たちクリスチャンに対して、充分な熟慮の上に攻撃を仕掛けてくるものです。それは大変なことです。しかし、私たちは彼らの脅かしを過度に恐れることはありません。なぜなら神さまが、彼らが予想もしなかったときに彼らに対して攻撃を仕掛けられ、そのはかりごとを打ち砕かれるからです。恐れるべきは神さまです。そして神さまは私たちの味方であり、だれも私たちに敵対することはできません。 イザヤ書13章……主は終わりの日を必ずこの地上にもたらされます。それは大いなる怒りとさばきの日であり、どれほど恐ろしいものでしょうか。わが世の春を謳歌したバビロンを主が完膚なきまでに滅ぼされたように、今このときも、主に反逆してわが世の春を謳歌する大バビロン、反キリストの一大勢力も、必ず滅ぼされます。苦しむ者たちはこの約束に慰めをいただきます。 ペテロの手紙第一1章……私たちがイエスさまを信じることができているのは、たましいの救いを得ているからです。この救いを証しした旧約の預言者たちは、まさしく私たちのためにみこころを調べ、記録しました。ゆえに、私たちが救いの確信の中にとどまるためには、新約はもとより、旧約聖書をしっかり読んで学ぶ必要があります。旧新約両方に通じる者となるとき、私たちにおける救いの確信を、主はいよいよ確かなものとしてくださいます。 <祈りの課題>私たちを狙って信仰から落伍させようとする反キリストのあらゆる攻撃から、主が私たちのことを守ってくださるように。

133 5月13日 民22詩62-63イザ11-12ヤコ5

民数記22章……一見するとバラムは、創造主なる神さまと交わりを持ち、そのみことばを伝える役割を果たしているようですが、実際は、この世の富に目がくらみ、また、自分の欲望を成し遂げようと、主のみこころに不従順であろうとする者です。彼の実体は、占いのような主の禁じられる働きをして、主に敵対する者にすぎません。しかし主はそのような者さえも用いられ、主がイスラエルの民を祝福しておられれることを満天下に明らかにされました。 詩篇62篇~63篇……私たちは、自分のいのちは何にも増して大切だと考えるでしょう。しかし詩人は、主の恵みはいのちにもまさる(それゆえ賛美する)と告白しています。私たちのいのちは、主の恵みがあるゆえに存在するものです。私たちにとっては自分のいのちもたしかに大事ですが、そのいのちも主の恵みによって存在していることをつねに信じ、主の御名をほめたたえてまいりたいものです。 イザヤ書11章~12章……終わりの日、イエスさまの統べ治める天国が実現する日は、すべてのものが和解する平和の日です。私たちは地上においては争いを体験し、傷つきます。そのような私たちにとって、贖い主なる主、再臨の主は、まことの慰めをくださいます。私たちのすることは、主にのみ希望を置くことです。 ヤコブの手紙5章……人は苦しみにあるときも、喜びにあるときも、主に近づく道が開かれます。苦しみの時に神さまを忘れたり、つぶやいたりしてはいけません。そのときこそ神さまが近づいてくださり、みわざを成して栄光を顕してくださるチャンスとなります。祈りましょう。また、喜びの時に人は神さまを忘れてしまいがちです。このときこそ神さまの御前にて賛美するなら、神さまはどれほど、私たちと喜びを分かち合ってくださることでしょうか。いずれのときも、神さまの御前に出てまいりましょう。 <祈りの課題>私たちがクリスチャンらしく、あらゆるオカルト(占い、おまじない、風水、ヨガ……)から距離を置くものとなりますように。

132 5月12日 民21詩60-61イザ10:5-34ヤコ4

民数記21章……神の民は、いかに自分たちのお従いしておるお方が豊かな恵みとあわれみをくださる方であると知っていても、いざとなると不信仰ゆえに、霊的指導者に激しく逆らいます。主の恵みをないがしろにします。しかしそのような者に対して、主は激しい怒りを発せられます。その怒りは、わたしを聖としないことに対して死をもって償えと迫るかのような怒りです。この怒りから人が救われるためには、怒りをもたらすさばき主ご自身が、十字架にかかられ、「わたしを仰げ」とおっしゃり、その十字架をただ仰ぐ以外にありません。私たちは聖なる存在になどなれません。ただ、主のあわれみが、私たちの罪を赦し、私たちのことを聖なる存在としてくださるのです。 詩篇60篇~61篇……主の民はいかに全能なるお方がともにおられようと、時に打ち倒されるような苦しみに遭います。そのようなとき私たちは、主が自分に対して沈黙しておられるのではないかと錯覚しないでしょうか。しかし私たちはそのような時こそ、主がご自身の栄光を示されるゆえに、私たちのために立ち上がってくださることを覚え、祈りの声を上げるべきです。 イザヤ書10章5節~34節……主は、ご自身の民が悔い改めるために、敵の民族さえも動かされて用いられます。彼らが主の民を攻撃することをお許しになります。しかし、そのように主の道具として用いられていたにすぎない彼らがおのが力を誇り、高ぶることも、主はお許しになりません。そのような傲慢な者のことも、主は滅ぼしてしまわれます。 ヤコブの手紙4章……悪魔は私たちから逃げ去ります。しかし、条件があります。まずすることは、私たちが神に近づくことです。その次に、悪魔に対抗することです。神に近づくことなしに、私たちは悪魔に対抗することはできません。また、神に近づくならば、私たちは悪魔のことを過度に恐れる必要はなく、対抗して打ち勝つことができます。 <祈りの課題>私たちのことを、私たちの持つ信仰ゆえに迫害する方々が、主に立ち帰ることができるように、私たちが忍耐をもって祈り、そのような方々を赦し、愛していくことができますように。

131 5月11日 民20詩58-59イザ9:8-10:4ヤコ3

民数記20章……モーセとアロンが約束の地に入れなかったのは、水を欲しがって不平を鳴らしたイスラエルの民の前で、神さまの義を示さなかったためでした。このときモーセとアロンは、極めて肉的な反応をしましたが、そのことが、モーセがカナンの地に入れないという形で懲らしめを受けたことにつながったとは、なんという痛恨のできごとかと思わせます。しかし、こうも言えます。この章の中でミリアム、そしてアロンのいのちが取り去られ、モーセもまたカナンに入ることなくいのちが取り去られるわけですが、彼らははるかに素晴らしい、天の故郷に入れられたわけで、それは地上の約束の地に入れられるよりはるかに素晴らしいことです。イスラエルの民のために苦闘の連続だったモーセの歩みは、このようにして慰めを受けることになるのです。 詩篇58篇~59篇……敵からの救いを神さまに祈るダビデは、このとき、ほんとうに敵の攻撃の中にいました。それだけに、彼の周りに敵がうろつくさまを描写するのは、けっして抽象的な表現ではなく、現実そのものでした。私たちも、サタンと悪霊どもの軍勢が周囲をうろついていることは、実はこのときダビデが体験していたような危険な状態にあるわけで、侮ってはなりません。しかしそれでも、主がともにおられるゆえに、「敵を平然と眺めるようにしてくださる」主の恵みを体験できるように、主のみそばにつねにいる私たちとなりたいものです。 イザヤ書9章8節~10章4節……神の民に対する御怒りは、敵に攻撃されるままにしたり、同じ神の民同士であるのに彼らが同士討ちをするように仕向けたりします。いずれにしても大いに傷つき、喪失します。それでも神の民が悔い改めなかったとしたら、その傷と喪失はどれほど大きなものとなることでしょうか。私たちも同じです。私たちの身に及ぶ傷と喪失は決してさばきではなく、むしろ懲らしめと呼ぶべきものですが、私たちはそのような事態になる前に悔い改めによって神さまとの関係を結び直させていただく者となりたいものです。 ヤコブの手紙3章……私たちの人格、神さまとの交わりのありさまは、私たちが口にすることばに表れます。もしそのことばが人を傷つけ、罵倒するものであるならば、私たちは人を立て上げ、いやすべきことば、いのちのみことばを口にするクリスチャンとして、きわめてふさわしくなことを語っていることになります。私たちが口に...

130 5月10日 民19詩56-57イザ8:1-9:7ヤコ2

民数記19章……死人に触れる者はけがれるゆえに、主の規定にしたがってきよめられる必要がありましたが、注目すべきは、13節にあるとおり、死人に触れるということは、すなわち死んだ人間のたましいに触れるということです。死体は単なる物体ではありません。これが聖書の価値観です。また、それゆえに死体の納められた「墓」というものが大事になってきます。イエスさまが復活されたのは、お墓からでした。 詩篇56篇~57篇……暁を呼び覚ましたい、このような雄大な祈りをささげたダビデは、目下サウルから逃れて暗闇の洞窟の中にいて、暗黒の日々を過ごしていました。彼は苦闘の毎日を過ごしていましたが、それでも投げ出すことがなかったのは、主がダビデに暗闇の果ての暁を与えてくださると確信していたからでした。私たちも、いま先が見えないように思えても、必ず主はそのときを過ぎ去らせてくださり、人生を明るく照らしてくださいます。 イザヤ書8章1節~9章7節……大いなるさばきが予告された後の預言は、救い主が赤ちゃんとしてこの地にお生まれになるという、希望に満ちたメッセージです。私たちがこの世界で苦難にあうのは、神を神としない罪の中を生きるからです。しかし神さまは、イエスさまのゆえにそのさばきを過ぎ去らせてくださいます。 ヤコブの手紙2章……私たちは主の御前では貧しい出自であるにもかかわらず、罪深いことに、たとえ教会のような、すべての人が主の御前で対等であると説く群れにおいても、お金持ちやこの世の地位のある人を優遇するものです。私たちはいま一度、主の群れは自らの貧しさを主の御前で認め、主におすがりする者たちであることを確かめ、そのうえで人々にふさわしい接し方ができるようにお祈りしたいと思います。 <祈りの課題>先の見えない苦しみの中にある、私たちの周りの人が、イエスさまを知り、イエスさまに希望を見出すことができますように。

129 5月9日 民17-18詩55イザ7ヤコ1

民数記17章~18章……レビ人(レビ族)は主の民の中にあって、特別な役割を果たす分、立場も独特でした。これは他の部族より偉いとか、神さまにあって霊的ステージが高いということではありませんが、主に実をささげる献身者としてのそれ相応の自覚が求められていました。こんにちの教会献身者たちも、ほかの信徒たちと地位的な上下関係にあるわけではありませんが、民の中から献身しているということをもって、相応の自覚を持って聖い生き方を志す必要があります。 詩篇55篇……恐ろしいことに、ともに恵みにあずかっていたとばかり思っていた兄弟姉妹のような人が、私たちに致命的な形で裏切りを働くことがあるものです。そのとき私たちはどれほど傷つき、また、喪失感に襲われることでしょうか。しかし主は、そのような苦難、悲しみから、私たち主の民、主の子どもたちを完全に救うことがおできになるお方です。 イザヤ書7章……ダビデの家の危機は、ひとつのしるしが示されることを旗印に回避されることが語られています。それは難解な預言でしたが、処女が身ごもっているとは、イエスさまのお誕生についての預言です。主はこの預言のとおり、奇跡を成してくださり、イエスさまをダビデのすえとして生まれさせて、主の民に大いなる勝利を実現してくださいました。 ヤコブの手紙1章……私たちはイエスさまの十字架を信じる信仰によって救われているからと、慢心していてはなりません。私たちがほんとうにイエスさまの十字架を信じているならば、その愛が心にあふれ、愛を実践する行いとして実を結んでしかるべきです。私たちはそこまで愛にあふれているでしょうか。十字架の愛が心にあふれ、私たちも隣人に愛を行えるほど成長できますように祈りましょう。 <祈りの課題>私たちの行いが、律法主義からではなく、神との交わりの中から身を結ぶものとなるべく、日々主との交わりの中で主の愛を体験していきますように。

128 5月8日 民16詩52-54イザ6ヘブ13

民数記16章……主の民の指導者がほかの民と同じ人間であることはたしかのそのとおりであり、指導者に立てられている者はおごらず、同じ人間である主の民を指導する立場にあることに恐れを覚えなければなりません。しかし、だからといって、主の民が指導者を認めなくてよいという理由にはなりません。こんにちにおいては按手という形で牧師を鼎立しますが、これは教会のわざである以上、教会が指導者を認め、立てるわけです。指導者を指導者として認めないことは、その教会の意志を損なうことであり、それはまた同時に、教会にその意志をお与えになった神さまのみこころを損なうことです。 詩篇52篇~54篇……53篇の詩は「愚か者は『神はいない』と言う」と語りますが、このようなことを言うのは無神論者にかぎらず、神の目を盗んで罪を犯す私たちすべてのクリスチャンまで含みます。まことに、善を行う者はだれひとりなく、みな無用の者です。私たちはこのままではきよく完全な神さまに認めていただくことなどできません。私たちはただ、恵みとあわれみによって救っていただいただけの存在です。 イザヤ書6章……顔を覆って謙遜な態度でおり、足を覆って行動を慎み、飛びながら立って御使いとして創造された者の本分を果たしていたセラフィムは、すべての礼拝者の模範です。この模範を前にして、イザヤは自分もまた用いていただこうという確信と勇気が生まれました。まことに、主のためのあらゆる行動には、完全な礼拝、へりくだった礼拝が先立ちます。 ヘブル人への手紙13章……7節。神の民には指導者が必須です。指導者はみことばを語って正しく解き明かし、また、その生き方をもって、みことばに従って主のご栄光を顕すとは具体的にどうすることかを、身をもって模範を示してくれる大事な存在です。指導者はその使命感を持って信徒たちに接する必要があります。 <祈りの課題>主に身をささげたすべての献身者の生活が支えられ、よき模範を示すことで主の栄光が教会を通して現れるように。

127 5月7日 民15詩51イザ5ヘブ12

民数記15章……安息日を守ることも、淫らな思いを制することも、主の栄光のためです。私たちは人生のオプションとして神信仰を持っているのではありません。すべては神さま中心の生き方をするように導かれており、そのためにみことばが与えられています。 詩篇51篇……ダビデはこの詩を詠んだとき、たいへんな罪を犯したばかりの状態にありました。しかし、ダビデは心から悔い改めました。神さまはダビデのその悔い改めの結ぶ実を蔑まれることはなさらず、そのまま受け入れてくださいました。私たちに必要なのは外面を取り繕うことではなく、心からの悔い改めです。 イザヤ書5章……神の民は神ご自身がこの地に置かれた貴重な存在です。しかし彼らは、暴虐の罪を繰り返して、主のみこころから心が離れました。主は彼らをぶどう園に例えていらっしゃいますが、主の御手に委ねることを選び取らないぶどう園のぶどうはあまりに質が悪く、見捨てられるしかありません。ぶどうがよい実を結ぶためには、主に結びつくことです(ヨハネ15:4)。 ヘブル人への手紙12章……この章には「訓練」ということばが繰り返し出てきます。「訓練」というと、軍隊や体育会系が理不尽なスパルタ式で鍛えるものという印象をお持ちでしょうか? そうではなく、親が子どもを、時には厳しく、時にはやさしく導くことで、成長させることを指します。そのように、霊の父なる天の神さまは、私たちのことを訓練してくださり、ご自身の聖さにあずからせてくださいます。これこそ弟子訓練なのであって、弟子訓練とは、一部の心得違いをした牧会者ならびに教会の目立つ行為によって誤解されているとおりの理不尽なものではありません。 <祈りの課題>日本の地に聖書的に見てふさわしい弟子訓練の概念が根づき、教会が主の弟子として訓練されることを喜びとしていきますように。

126 5月6日 民14詩50イザ3-4ヘブ11

民数記14章……出エジプトの旅が40年にもなったのは、主のさばきと懲らしめが、反逆するイスラエルに臨んだからでした。しかしモーセは主の栄光にかけてとりなし、主はこの民が荒野で滅びたままにはなさいませんでした。もっとも大事なことは、主のご栄光が現れるということです。 詩篇50篇……正しいいけにえを捧げているかどうかという宗教行為以前に、主は御前に出ていく者の心の中をご覧になります。もしその人が「自分の道を正しくする」ために主に拠り頼み、「苦難の日に主を呼び求める」人であるならば、主は救ってくださいます。私たちの心の中を、主の御前に出ていく姿勢を、聖霊なる神さまに点検していただきましょう。 イザヤ書3章~4章……主に逆らう者に対するさばきは、その社会の中で本来保たれるべき秩序が大いに乱れるところに表れます。それは主の民を標榜する者たち、自分はきよいと思っている者たちにも、例外なく臨みます。ゆえに私たちに要求されていることは、主のみこころが示されれたら、従順にお従いすることです。 ヘブル人への手紙11章……長い時間をかけて書かれた旧約聖書に登場する人物たちは、神への信仰をもって生きた人たちであると語ります。私たちは旧約と新薬を別々の書として読むべきではありません。主イエスさまに対する信仰、この視点から旧約を読み、登場人物の言動から学んでも、充分に、そして正確に読解することができます。 <祈りの課題>聖書がしばらく読めなくなっている兄弟姉妹が、あきらめずに聖書に向かうことができますように。

125 5月5日 民12-13詩49イザ2ヘブ10

民数記12章~13章……信仰の目をもって見るかどうかで、同じものの見え方は違ってきます。ヨシュアとカレブは全能なる主のみこころゆえに、敵がどうであれ必ず占領できるという信仰を働かせましたが、残りの偵察隊はむしろ不信仰になり、恐れました。私たちが生きようとする未来もまた未知のものに満ちていますが、私たちはそれを乗り越える信仰を働かせる必要があります。それは、私たちを通して、この地上に主の統べ治める領域を拡大するためです。 詩篇49篇……人はどんな財産を差し出しても、どんな努力をしても、自分のたましいを死から贖い出すことはできません。そう考えると人生というものは、きわめて絶望的な終わり方を迎えます。しかし神さまだけは、そのような人間を贖い出してくださいます。イエスさまの十字架は、絶望的に滅びるしかなかった人間を詩から贖い出す唯一の道で、私たち人間はイエスさまの十字架を信じ受け入れることで贖い出していただけます。 イザヤ書2章……人間が高ぶるということは、神の前に身を低くすることをやめることです。その結果人は、偶像を礼拝するようになり、財宝を蓄えて弱い立場にある者たちを踏みにじるようになり、戦いを起こして他国や他民族を屈従させようとします。しかし終わりの日に、主はそのような高ぶる者どもをおさばきになります。私たちも日々の歩みが高ぶりの歩みになっていないか、しっかり省みる必要があります。 ヘブル人への手紙10章……私たちを神に受け入れられる完全なものにするものは、よい行いでもいかにも荘厳な宗教行為でも、多額の献金でもありません。私たちの側には一切存在しません。イエスさまがしてくださったこと、十字架による贖いだけが、私たちを完全な存在、神に受け入れられる存在にしてくださいました。私たちのすることは、ただこの十字架を信じることだけです。 <祈りの課題>十字架に対する信仰以外のプラスアルファで救いを得ようとする無駄なあり方、むしろ罪深いあり方から、日本と世界のすべてのクリスチャンが救われ、ただイエスさまの十字架だけで満足するように。

124 5月4日 民11詩48イザ1ヘブ9

民数記11章……主は、恵みをもって荒野のようなこの世での生活を導き、祝福してくださいます。しかし人は何とかたくななのか、自分のもといたところを恋しがり、主にお従いするよりもこの世の生活を好みます。主は、そのような欲望で団結して主に反逆するような者に対しては、たとえ主の民であったとしても大いなる憤りを下されます。私たちは心のどこかで世を好む生活を悔い改めず、主にお従いするよりもこの世と調子を合わせて生きてはいないでしょうか。 詩篇48篇……私たちの神さまは創造主です。大いなる麗しさと権威をもって、全世界に君臨されます。私たちクリスチャンだけではなく、私たち以上に世界に満ちているクリスチャンではない人たちにとっても、神さまです。私たちはこのような大いなる神さまを礼拝し、お仕えしています。 イザヤ書1章……ユダの民は主に対する礼拝をささげてはいましたが、その内実は罪に満ちていました。特にその罪は、「みなしご」や「やもめ」のような弱い立場にある人たちをないがしろにすることに現れていました。しかし、そのような者も罪を悔い改めるならば、その緋のように赤い罪も、雪のように白くしてくださると、主は約束してくださいました。 ヘブル人への手紙9章……イエスさまの十字架の死による贖いはただ一度です。年ごとに大祭司が繰り返しいけにえをささげるような宗教行為をもってして完全にきよめることのできなかった人類の罪を、キリストはただ一度の贖いによって完全にきよめてくださいました。そしてイエスさまは十字架にかかられるためにこの地に来られましたが、世の終わりには、イエスさまを信じる人たちを完全に救ってくださるために臨んでくださいます。 <祈りの課題>私たちクリスチャンが、この世において弱い立場に置かれている人たちに関心を持ち、助けの手をさしのべることができますように。

123 5月3日 民10詩46-47雅8ヘブ8

民数記10章……ホバブは本来、イスラエルの民ではありませんでした。しかしモーセは彼に、イスラエルの共同体と運命をともにする人としてついてきてほしいと言いました。このように主の共同体である教会にとって必要な人が、自分の判断で群れから離れようとする、その判断は尊重すべきではありません。その人にとっての幸せが主の民の一員として共同体と運命をともにすることであると知る以上、私たちはどんなことがあっても、その人を引き留める必要がありますし、また主がその人を引き留めてくださるように祈る必要があります。 詩篇46篇~47篇……どんな時代にも人間の住む世界には、天変地異がつきものでした。しかしそのような危険がつねにそばにあると知りながらも、幸いな聖徒は創造主なる神さまが避け所であると知り、信仰を固く保ちました。私たちの住む世界も依然として、どこに危険が潜んでいるかわからないものです。しかし、私たちは主がともにおられるゆえ、いたずらに恐れることはありません。 雅歌8章……4節のフレーズは、雅歌の中に複数回登場することばです。私たちはだれかにイエスさまを信じてほしいとき、このような「愛がそうしたいと思う」主の時を待ち望みつつ行動しているでしょうか。人間的な方法で何とかしようとすることは「揺り起こしたり、かき立てたり」する、ふさわしくない方法です。 ヘブル人への手紙8章……神さまが結んでくださる新しい契約は、古びることがありません。その内容は12節にあるとおり、主がその民の不義にあわれみをかけ、もはや民の罪を思い出さない、というものです。その契約は、イエスさまの十字架を信じる信仰によって結ばれます。 <祈りの課題>私たちが大地震のような天変地異に普段から備えながらも、いたずらに恐れておろおろすることのないように。

122 5月2日 民9詩45雅7ヘブ7

民数記9章……主の民が進むこと、とどまることは、主の臨在の象徴である雲が宿営にとどまっているか否かで決まりました。それは個人的な導きではなく、イスラエルの共同体全体に対する導きでした。私たちにとっても同じことで、主の導きというものは個人的に完結するものではなく、共同体全体の益になるように与えられるものと理解すべきです。 詩篇45篇……王に嫁ぐ娘は、キリストに嫁入りする教会の象徴です。父の家を忘れるとは、それまで育ってきたこの世の魅力を後にして、花嫁として招き入れてくださる主に全面的に献身することで得られる祝福です。私たちはキリストだけで満ち足りているでしょうか? 雅歌7章……王がシェラムの女をほめたたえることばは過分とさえ思えるものです。しかし、キリストが私たち花嫁なる教会をほめたたえることばも、このように過分とさえ思えるような表現に満ちていることを、私たちは受け止めていますでしょうか。私たちの愛は一方通行ではありません。私たちはことばを尽くしてキリストをたたえますが、キリストもまた、私たちのことをほめたたえてくださっているのです。 ヘブル人への手紙7章……イエスさまは、御父の永遠の誓いによって、ただひとりのまことの大祭司となられたお方です。このお方こそが大祭司なのであって、畏れ多くも主をさばいて死に定めた大祭司は、しょせんは自分自身の罪のためにもいけにえをささげなければならなかったような罪人にすぎませんでした。私たちが恐れるべきはイエスさま、ただおひとりです。 <祈りの課題>私たちのことを愛してくださっているイエスさまの愛を、私たちがますます実感し、心からの賛美をおささげしますように。

121 5月1日 民8詩44雅6ヘブ6

民数記8章……主に献身するレビ人は、単なる献身者ではありません。主がエジプトの長子を打たれたとき、イスラエルの長子は主のものとして聖別されましたが、その聖別されたすべてのイスラエルの長子の代わりに主がお取りになった部族がレビ人です。こんにちにおいて、直接献身を果たしている教職者やキリスト教組織のスタッフに必要な態度は、主の民すべてを代表する立場にあるゆえにその働きについているという、召命の意識ではないでしょうか。 詩篇44篇……私たちは主の民でありながらも、苦難にあうことの多いものです。しかし、主は私たちのことを忘れておられるのではありません。私たちが苦しみにあうとき、私たちのすべきことは、主の御名を呼び求めることです。呼び求めるべきお方が私たちとともにおられるとは、なんと大きな恵みでしょうか。 雅歌6章……王と結ばれるシュラムの女は、ほかの女性たちから見ても称賛される美しさを持っていました。主に結びつく人は、だれにもまして美しい存在です。私たちが教会でともに礼拝をおささげする兄弟姉妹は、王なる主に結びついているゆえにとびきり麗しい存在です。私たちはそのようにお互いを見ているでしょうか。 ヘブル人への手紙6章……4節から8節の記述を読むと、これは自分のことではないだろうかと心配になるでしょうか。しかし、もっと大事なのは9節以下です。「あなたがたについては……救いにつながることを確信しています」という前提で、ヘブル書の著者は語っています。救いは取り消されません。天からの賜物を知るなら、私たちのすることはその賜物、十字架の救いにとどまることです。 <祈りの課題>もはや救われないと絶望的になっている兄弟姉妹の信仰が、喜びとともに回復しますように。

120 4月30日 民7詩42-43雅5ヘブ5

民数記7章……祭壇が奉献されるとき、12部族の族長はそれぞれ、まったく同じものを日ごとに割り振られてささげました。ある部族がほかの部族よりも多くささげるということはなかったのでした。ささげものにおいて、部族間に優劣はありません。こんにちにおいては、主の御前に出ていく者たちは、だれもがほかの人に優先することなく、主の御前においては等しく礼拝をささげているということの象徴と言えないでしょうか。私たちもほかの兄弟姉妹と礼拝の態度や礼拝献金、奉仕その他を比較して、優越感に浸ったり、劣等感を抱いたりしないようにしたいものです。 詩篇42篇~43篇……昼も夜も涙が自分の食べ物であった、すなわち、自分の悲しみの中に閉じこもるしかない、そんな人に詩人は共感しています。しかし、どんな人であれ、落ち込んだままでいてはなりません。私たちには救い主なる神さまがいてくださいます。神さまを待ち望むならば、自分は実は救われていたことに気づかせていただき、暗闇から光に移され、神を慕いあえぐ渇きはいやされます。私たちのすることは、何かの慰めの方法でいやそうとすることではなく、悲しくてたまらなくても、神さまをじっと静かに待ち望むことです。 雅歌5章……愛する人を慕い求める思いは、病むような思いにさえなってこそ本物です。それは私たちの多くが、恋愛というものを経験したときに身をもって知っている感情でしょう。私たちはそのような燃える思いを、花婿なるイエスさまに対して持っていますでしょうか。イエスさまは私たちに対し、そのような燃える思いをもって愛を注いでくださっています。 ヘブル人への手紙5章……イエス・キリストは大祭司、神と人との仲立ちとして御父から立てられるにあたり、人としてこの世を生きられ、御父への完全な従順の生き方を実践されて、それゆえに十字架に至るまでの苦しみの歩みをされました。このように、人としてあらゆる苦しみを体験されたイエスさまは、私たちのことを理解してくださる、私たちの味方です。 <祈りの課題>今、悲しみの中にある兄弟姉妹のことを、主が慰めてくださいますように。