136 5月16日 民25詩68イザ15Ⅰペテ3

民数記25章……イスラエルはモアブの女たちと姦淫し、偶像礼拝をする罪を犯しましたが、ヨハネの黙示録2章によると、このできごとの背後には、バラクをそのようにそそのかしたバラムの存在があったことがほのめかされています。バラクはバラムを用いてイスラエルをのろうことはできませんでしたが、姦淫の罪に陥らせることには成功しました。これはバラムの霊力がイスラエルより高かったということではなく、イスラエルに隙があったということです。私たちを取り囲む反キリストの勢力は、折あらば私たちに罪を犯させようと狙っています。しかし私たちは、そこから守っていただくという意味でも、つねに主との交わりを大切にする必要があります。

詩篇68篇……19節。神さまは日々、私たちの重荷を担ってくださるお方です。私たちは重荷を担って疲れ果てます。しかし、私たちクリスチャンにとっては逃げ込むべきお方がいらっしゃいます。神さまが日々重荷を担ってくださるということは、私たちのすることは、このお方のもとに日々担っている重荷を下ろし、担っていただくことです。神さまはそのように、私たちが重荷を下ろし、その重荷を御手にゆだねることを喜んでくださいます。

イザヤ書15章……主の民に敵するモアブの滅びの記述ですが、神さまはモアブが滅ぶことを当然のこととか、喜ばしいことと語っておられるのではありません。むしろ彼らの破滅の叫びに、主は心を寄せられて慟哭しておられるようです。現代のこの世界にも主に敵対する勢力、クリスチャンに過酷な迫害を加える人々も多くいますが、それでも主は彼らの行く末を思われ、彼らがその行いゆえに滅びてしまうことを悲しんでおられます。私たちが求めるべきは彼らの破滅ではなく、彼らが主に立ち帰ることではないでしょうか。

ペテロの手紙第一3章……私たちは苦しみを受けるものですが、苦しみはその受ける理由によって、性質が大きく異なってきます。悪のために苦しみを受けることは普通に起こることで、それを克服したからと特段ほめられるようなものではありませんが、苦しめられるほどに善を行うことは簡単なことではなく、ただ主の恵みが臨むとき可能となることです。私たちはその祝福を知るなら、苦しめられることをものともせずに善を行うことに飛び込んでいけるように、主の恵みを求めていけるのではないでしょうか。

<祈りの課題>私たちに迫害を加える人たちのことを私たちが赦し、私たちが彼らの救いを覚えてとりなしの祈りをささげるものとなりますように。

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