128 5月8日 民16詩52-54イザ6ヘブ13
民数記16章……主の民の指導者がほかの民と同じ人間であることはたしかのそのとおりであり、指導者に立てられている者はおごらず、同じ人間である主の民を指導する立場にあることに恐れを覚えなければなりません。しかし、だからといって、主の民が指導者を認めなくてよいという理由にはなりません。こんにちにおいては按手という形で牧師を鼎立しますが、これは教会のわざである以上、教会が指導者を認め、立てるわけです。指導者を指導者として認めないことは、その教会の意志を損なうことであり、それはまた同時に、教会にその意志をお与えになった神さまのみこころを損なうことです。
詩篇52篇~54篇……53篇の詩は「愚か者は『神はいない』と言う」と語りますが、このようなことを言うのは無神論者にかぎらず、神の目を盗んで罪を犯す私たちすべてのクリスチャンまで含みます。まことに、善を行う者はだれひとりなく、みな無用の者です。私たちはこのままではきよく完全な神さまに認めていただくことなどできません。私たちはただ、恵みとあわれみによって救っていただいただけの存在です。
イザヤ書6章……顔を覆って謙遜な態度でおり、足を覆って行動を慎み、飛びながら立って御使いとして創造された者の本分を果たしていたセラフィムは、すべての礼拝者の模範です。この模範を前にして、イザヤは自分もまた用いていただこうという確信と勇気が生まれました。まことに、主のためのあらゆる行動には、完全な礼拝、へりくだった礼拝が先立ちます。
ヘブル人への手紙13章……7節。神の民には指導者が必須です。指導者はみことばを語って正しく解き明かし、また、その生き方をもって、みことばに従って主のご栄光を顕すとは具体的にどうすることかを、身をもって模範を示してくれる大事な存在です。指導者はその使命感を持って信徒たちに接する必要があります。
<祈りの課題>主に身をささげたすべての献身者の生活が支えられ、よき模範を示すことで主の栄光が教会を通して現れるように。
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