132 5月12日 民21詩60-61イザ10:5-34ヤコ4
民数記21章……神の民は、いかに自分たちのお従いしておるお方が豊かな恵みとあわれみをくださる方であると知っていても、いざとなると不信仰ゆえに、霊的指導者に激しく逆らいます。主の恵みをないがしろにします。しかしそのような者に対して、主は激しい怒りを発せられます。その怒りは、わたしを聖としないことに対して死をもって償えと迫るかのような怒りです。この怒りから人が救われるためには、怒りをもたらすさばき主ご自身が、十字架にかかられ、「わたしを仰げ」とおっしゃり、その十字架をただ仰ぐ以外にありません。私たちは聖なる存在になどなれません。ただ、主のあわれみが、私たちの罪を赦し、私たちのことを聖なる存在としてくださるのです。
詩篇60篇~61篇……主の民はいかに全能なるお方がともにおられようと、時に打ち倒されるような苦しみに遭います。そのようなとき私たちは、主が自分に対して沈黙しておられるのではないかと錯覚しないでしょうか。しかし私たちはそのような時こそ、主がご自身の栄光を示されるゆえに、私たちのために立ち上がってくださることを覚え、祈りの声を上げるべきです。
イザヤ書10章5節~34節……主は、ご自身の民が悔い改めるために、敵の民族さえも動かされて用いられます。彼らが主の民を攻撃することをお許しになります。しかし、そのように主の道具として用いられていたにすぎない彼らがおのが力を誇り、高ぶることも、主はお許しになりません。そのような傲慢な者のことも、主は滅ぼしてしまわれます。
ヤコブの手紙4章……悪魔は私たちから逃げ去ります。しかし、条件があります。まずすることは、私たちが神に近づくことです。その次に、悪魔に対抗することです。神に近づくことなしに、私たちは悪魔に対抗することはできません。また、神に近づくならば、私たちは悪魔のことを過度に恐れる必要はなく、対抗して打ち勝つことができます。
<祈りの課題>私たちのことを、私たちの持つ信仰ゆえに迫害する方々が、主に立ち帰ることができるように、私たちが忍耐をもって祈り、そのような方々を赦し、愛していくことができますように。
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