141 5月21日 民30詩74イザ22Ⅱペテ3
民数記30章……誓願についてのおしえ。誓願というものがいかに厳粛に行われるべきものか、細かく規定されています。誓願をするからには果たす必要があるわけです。しかし、神の民はこの誓願というものを、きわめていい加減な態度でするようになってしまいました。イエスさまはそのような人の罪性を念頭に置かれ、そのような罪人は神かけて誓う資格がないことを警告されました(マタイ5:33~37)。誓願という行為は神さまの聖性を認めたうえでのことなのに、西岸という行為で、かえって神さまの聖性を引き下げることになってしまっていたわけです。私たちは、果たせもしないことを誓うような愚かなことをしてはいないでしょうか。
詩篇74篇……神に敵対する者は、聖所に火を放って破壊したり、聖所に自分たちの神々のしるしをつけて霊的に汚したりします。これはまさに、日本がかつての韓国教会にしたことと同じではないでしょうか。1919年4月15日にクリスチャンたちを礼拝堂に閉じ込めて火を放ったことも、1938年以降に神社参拝を韓国教会に強要して礼拝堂に神棚を設置させたことも、いずれもこの詩人の嘆きにあたることです。それゆえに日本の教会の心あるクリスチャンたちは、悔い改めと謝罪を韓国教会に対して行なってきました。私たちは韓国のクリスチャンに会って謝罪する機会はそうないかもしれませんが、私たちにつながる日本人がそのようにして韓国教会を迫害したという事実は、日本人のクリスチャンとして記憶しておく必要があるのではないでしょうか。
イザヤ書22章……列王記第二によれば、エルヤキムは宮廷長官としてヒゼキヤ王の代理となり、エルサレム征服に赴いたアッシリアのラブ・シャケとの交渉に臨んだとあります。ユダとエルサレムの命運は、エルヤキムの両肩にかかっていました。しかし、エルヤキムはたまたまその役職についていた人ではありませんでした。神さまの御目には、ダビデの家の鍵を握る、単なる一国家の政治家以上の霊的指導者でした。私たちもまた、ダビデの家の鍵、御国の鍵をを託された者として、この地にキリストの救いを語ることで人々をサタンの手から奪還する使命が与えられています。
ペテロの手紙第二3章……主のみことばが描く終わりの日の様相はあまりに恐ろしいものです。しかし、それを認めたくない者たちは、現実にこの世界がそのようになっていないことを挙げ、みことばの予告を嘲笑います。それなら私たちは、この世の有様から判断して、聖書を単なる空想と思い、宗教書として扱うにとどめるのでしょうか? それではいけません。聖書は創造主が私たちにお示しくださる、現実そのものです。私たちは神さまが来たらせてくださる終わりの日を心から待ち望み、一人でも救われるように祈り、行動していく必要があります。
<祈りの課題>私たちの周りの愛する人たちに、私たちがイエスさまを伝えることができますように。
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