131 5月11日 民20詩58-59イザ9:8-10:4ヤコ3

民数記20章……モーセとアロンが約束の地に入れなかったのは、水を欲しがって不平を鳴らしたイスラエルの民の前で、神さまの義を示さなかったためでした。このときモーセとアロンは、極めて肉的な反応をしましたが、そのことが、モーセがカナンの地に入れないという形で懲らしめを受けたことにつながったとは、なんという痛恨のできごとかと思わせます。しかし、こうも言えます。この章の中でミリアム、そしてアロンのいのちが取り去られ、モーセもまたカナンに入ることなくいのちが取り去られるわけですが、彼らははるかに素晴らしい、天の故郷に入れられたわけで、それは地上の約束の地に入れられるよりはるかに素晴らしいことです。イスラエルの民のために苦闘の連続だったモーセの歩みは、このようにして慰めを受けることになるのです。

詩篇58篇~59篇……敵からの救いを神さまに祈るダビデは、このとき、ほんとうに敵の攻撃の中にいました。それだけに、彼の周りに敵がうろつくさまを描写するのは、けっして抽象的な表現ではなく、現実そのものでした。私たちも、サタンと悪霊どもの軍勢が周囲をうろついていることは、実はこのときダビデが体験していたような危険な状態にあるわけで、侮ってはなりません。しかしそれでも、主がともにおられるゆえに、「敵を平然と眺めるようにしてくださる」主の恵みを体験できるように、主のみそばにつねにいる私たちとなりたいものです。

イザヤ書9章8節~10章4節……神の民に対する御怒りは、敵に攻撃されるままにしたり、同じ神の民同士であるのに彼らが同士討ちをするように仕向けたりします。いずれにしても大いに傷つき、喪失します。それでも神の民が悔い改めなかったとしたら、その傷と喪失はどれほど大きなものとなることでしょうか。私たちも同じです。私たちの身に及ぶ傷と喪失は決してさばきではなく、むしろ懲らしめと呼ぶべきものですが、私たちはそのような事態になる前に悔い改めによって神さまとの関係を結び直させていただく者となりたいものです。

ヤコブの手紙3章……私たちの人格、神さまとの交わりのありさまは、私たちが口にすることばに表れます。もしそのことばが人を傷つけ、罵倒するものであるならば、私たちは人を立て上げ、いやすべきことば、いのちのみことばを口にするクリスチャンとして、きわめてふさわしくなことを語っていることになります。私たちが口にする何気ないことば、それは人に深刻な影響を及ぼしていないでしょうか。私たちの語ることばに対して、聖霊なる神さまが鋭敏な感覚を与えてくださり、平安の中で人の徳を建てることばを語らせてくださるように祈ってまいりましょう。

<祈りの課題>私たちクリスチャンが、語ることばに至るまでもキリストに似た者となりますように。

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