148 5月28日 申1詩81-82イザ29Ⅲヨハ
申命記1章……モーセはイスラエルの民の前で、みおしえを確認します。その振り返りはときに、イスラエルのマイナスの経験に触れることでもあり、痛みの伴うことでもありましたが、そのような先祖の罪を経て今の自分たちがあることを確かめています。今の私たちの存在も、過去の先祖たちと無関係に存在するのではありません。先祖の罪を認め、悔い改めることは、私たちが主のみこころにお従いするうえで必要なことです。
詩篇81篇~82篇……主にお従いしない者たちは、たとえそれが主の民であったとしても、主からそれ相応のお取り扱いを受けます。それは、主が彼らのことを、その頑なな心のままに歩むようにされる、ということです。自分は今、ひどい目にあっていないから許されている、と考えるのは、大きな間違いです。罪深い歩みをしていることそのものが罰ということに早く気づき、悔い改めるならば、それこそが恵みの歩みです。
イザヤ書29章……主の民が陥りやすい罠は、表面的には主を敬っているなりをして、心では主から遠く離れてしまう、ということです。たとえ民が主のものであったとしてもそのようになってしまうのは、指導者が間違った導きをしてしまうせいですが、主はそのような指導者の誇る「霊的な知恵」をなきものにしてしまいます。まことの知恵なるお方はイエスさまおひとりであり、指導者として立てられている者も民の一員として、イエスさまの知恵にお聞きしていく必要があります。
ヨハネの手紙第三……いつの時代のどこの教会にも、ふさわしくない形で群れのリーダーになりたがる人というのはいるものです。そのような者は気に入らなければ教会に人々を入れず、好き勝手に教会をコントロールしようとします。しかしそのような「リーダー」こそ、教会の中に立ててはいけない人です。ディオテレペスがヨハネたちを受け入れなかったことから明らかになったように、リーダーとしてふさわしいかどうかは、立てるべき霊的秩序を尊重しているかどうかで判別されます。私たちの教会でもふさわしくリーダーシップが行使されますように祈りましょう。
<祈りの課題>ふさわしくない形でリーダーシップを行使して、教会に混乱をもたらすような兄弟姉妹が悔い改め、ふさわしい人がリーダーに立てられ、そのリーダーシップに教会が従っていきますように。
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