127 5月7日 民15詩51イザ5ヘブ12

民数記15章……安息日を守ることも、淫らな思いを制することも、主の栄光のためです。私たちは人生のオプションとして神信仰を持っているのではありません。すべては神さま中心の生き方をするように導かれており、そのためにみことばが与えられています。

詩篇51篇……ダビデはこの詩を詠んだとき、たいへんな罪を犯したばかりの状態にありました。しかし、ダビデは心から悔い改めました。神さまはダビデのその悔い改めの結ぶ実を蔑まれることはなさらず、そのまま受け入れてくださいました。私たちに必要なのは外面を取り繕うことではなく、心からの悔い改めです。

イザヤ書5章……神の民は神ご自身がこの地に置かれた貴重な存在です。しかし彼らは、暴虐の罪を繰り返して、主のみこころから心が離れました。主は彼らをぶどう園に例えていらっしゃいますが、主の御手に委ねることを選び取らないぶどう園のぶどうはあまりに質が悪く、見捨てられるしかありません。ぶどうがよい実を結ぶためには、主に結びつくことです(ヨハネ15:4)。

ヘブル人への手紙12章……この章には「訓練」ということばが繰り返し出てきます。「訓練」というと、軍隊や体育会系が理不尽なスパルタ式で鍛えるものという印象をお持ちでしょうか? そうではなく、親が子どもを、時には厳しく、時にはやさしく導くことで、成長させることを指します。そのように、霊の父なる天の神さまは、私たちのことを訓練してくださり、ご自身の聖さにあずからせてくださいます。これこそ弟子訓練なのであって、弟子訓練とは、一部の心得違いをした牧会者ならびに教会の目立つ行為によって誤解されているとおりの理不尽なものではありません。

<祈りの課題>日本の地に聖書的に見てふさわしい弟子訓練の概念が根づき、教会が主の弟子として訓練されることを喜びとしていきますように。

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