142 5月22日 民31詩75-76イザ23Ⅰヨハ1
民数記31章……戦利品についての記述ですが、もう一方で見落とせない記述は、イスラエルを祝福したはずのバラムが死刑になったことです。それは、バラムのしたことは一見すると祝福のようでも、実際にはイスラエルに偶像礼拝を持ち込ませ、その結果多くの者を死に追いやり、イスラエルに大きなダメージを与えたからでした。バラムはまるで、こんにちにおける巧妙に教会に入り込む異端のようではないでしょうか。彼らは潜入した日曜礼拝の祈祷の時間に心を合わせ(るふりをし)ますが、実際は神の民なる教会に大きなダメージを与えます。このような者は容赦なく、教会の群れから出ていっていただかなくてはなりません。
詩篇75篇~76篇……神さまは地に住む人たちがご自身に従順であることを願われますが、ご自身に従おうとしない悪者には、それ相応の取り扱いをなさいます。ぶどう酒を与えられるとは、彼らが欲望のままに生きることをあえてお許しになるということです。しかし彼らの存在は依然として、全知全能なる神さまの御手のうちにあります。私たちは一刻も早く、この世の酔いから醒め、主に立ち帰る必要があります。
イザヤ書23章……隆盛を誇る民も主のさばきに服するときには無力です。主はご自身から離れ、肉に従って生きる者には、容赦ないさばきを下されます。しかし、時が満ちれば、主は彼らに回復を与えてくださいます。私たちもまた主の御手がくだり、大いに苦しまされることもあるものですが、絶望してはなりません。主は真摯に悔い改める者に、まことの回復を与えてくださいます。
ヨハネの手紙第一1章……6節から9節はクリスチャンの4つの局面を語っています。6節「神と交わりがあると言いながら闇の中を歩むなら偽りである」、7節「光の中を歩むならきよめられる」、8節「罪がないと言うなら偽りである」、「罪を告白するときよめられる」……ここからわかることは、私たちは、自分には罪がないと言ってはならない、罪を告白することによって私たちは光の中を歩むものとされ、きよめをいただく、ということです。私たちに必要なのは、悔い改めの生活です。悔い改めは自分の犯した罪にフォーカスすることではなく、罪を赦してくださったイエスさまの十字架にフォーカスすることです。
<祈りの課題>私たちが悔い改めというものをネガティブにとらえるのではなく、神さまとのより深い交わりに入れられる恵みの道として、ためらわずに行なっていくことができますように。
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