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273 9月30日 Ⅰ列2ガラ6エゼ33詩81-82

列王記第二2章……ソロモンが政敵に次々と手をかけるさまは、一見するととても冷酷に見えます。しかし、もしそうしなかったならば、ソロモンは政敵によって暗殺される可能性がいつも伴い、それはすなわち、主のみこころが損なわれることになります。私たちは主のみこころが自分の身を通してなるために、時には蛇のようにさとくある必要があります。愛にあふれているのは結構なことですが、それと「お人好し」はまったく異なることです。主のみこころを損なう要素は共同体の中からしっかり除いていく決断をしていくことを、私たちはつねにしていく必要があります。 ガラテヤ人への手紙6章……私たちが世の人たちと異なるのは、信仰が与えられて神の子ども、神の家族となっていることであり、それゆえに永遠のいのち、天国の恵みが与えられていることです。私たちは自分ひとりで信仰生活が完結するのではありません。ともに生かされている、教会の兄弟姉妹という共同体の中で信仰生活が続いていきます。私たちは持てるものを分かち合いつつ、愛の交わりを続けてまいりましょう。 エゼキエル書33章……主が願っていらっしゃることは、主の民が悪に陥ることなく、いのちを得ることです。そのために主は、民の中に見張りを立てられます。見張りの役割を果たす者は、精一杯のことばで警告を与えないならば、自分がその咎のゆえにさばかれるので、真剣にならざるを得ません。主の共同体はその見張りのことばに真剣に耳を傾けないならば、今度は自分たちがいのちを失います。私たちのうち、この見張りの役割を果たしたいという人はいますでしょうか。その人とそのことばを尊重し、いざというときに備えてまいりましょう。 詩篇81篇~82篇……82篇6節。日本語の聖書では「神」と「神々」を区別している分、イエスさまがヨハネの福音書10章34節で引用していらっしゃるこのみことばが、かなり難解に思えてきます。しかし、「神」と「神々」は、ヘブライ語の原語では同じ「エローヒーム」であり、人がそのように呼ばれることは、「三位一体の神さま」と同じ呼称が人に対して用いられた、ということでもあるわけです。イエスさまはそれを根拠に、ご自身は神を冒瀆していないということを立証されたわけですが、ともかく、人が神々の扱いを受けているということは、その信じ属している神々に対する信仰の結ぶ実がひどいものであり、それゆえに主な...

272 9月29日 Ⅰ列1ガラ5エゼ32詩80

列王記第一1章……アドニヤが王位にのし上がろうとしたのは、神さまのみこころを無視してのことでした。ダビデは本来、ソロモンを王座につけることが主のみこころであると受け取っていた(17節)わけで、それを無視するということは、主のみこころを踏みにじることでした。しかし主は、そのようなアドニヤの悪だくみを打ち砕かれました。人間の力をもってしては、どんなに巧みな計画を立てたとしても、主のみこころを変えることはできません。 ガラテヤ人への手紙5章……私たちは御霊によって生き、御霊によって進む存在です。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という、御霊の実を結んで生きる者であって、19節から21節までに列挙された生き方が生活の中に身を結んでいるならば、私たちは悔い改める必要があります。日々御霊に満たされ、みこころにかなう人格へと整えられてまいりましょう。 エゼキエル書32章……この世で大いなる権勢を誇るような者は、獅子のごとく格好よく君臨する存在だと自分のことを思うでしょう。しかし、主の御目から見れば、そのような者は醜い海の巨獣にすぎません。大きいばかりで迷惑をかける存在です。私たちはもしかして、この世で称賛されるような存在になりたがり、この世の富や名誉を手に入れようと、汲々としてはいないでしょうか。しかし、そのような者も主を無視し、そのみこころを踏みにじるようでは、いずれ主に滅ぼされてしまいます。 詩篇80篇……私たち主の民は、主の御顔の光に照らされて力を得、歩みます。もし、主が御顔を向けてくださらないならば、私たちはどうやって歩むことができるでしょうか。しかし、私たちは時に、主の御顔が見えなくなるときがあります。それは、私たちに罪があるからです(イザヤ59:2)。私たちが御顔を仰ぎ見ることを願うならば、私たちは悔い改める必要があります。 <祈りの課題>私たちが日々、御霊の実を結びますように。

271 9月28日 Ⅱサム24ガラ4エゼ31詩79

サムエル記第二24章……ダビデはイスラエルに臨んだ神罰を、自分が処理すべきものとして、アラウナの打ち場を自費で買い取りました。悔い改めというものは、だれかが代わりにしてくれるものではありません。自分でするものです。自分で悔い改めるために、幾分かの犠牲を払うとしても、それで神さまとの関係が回復するならば何ほどのこともありません。私たちは積極的に悔い改める必要があります。 ガラテヤ人への手紙4章……ガラテヤ教会に律法主義が復活してしまったのは、人がキリストにあって自由であることを選ばず、何者かの奴隷となることに一定の快感を覚えるからではないでしょうか。しかし、それは神さまとの関係の中で自由になることを選ばず、何者かに隷属することで自分の責任を放棄する、きわめて無責任な生き方です。主の教会はそのような無責任な生き方を許容してはなりません。 エゼキエル書31章……木というものは、創造主の恵みがなければ育ちません。それを誇りとすることは愚かなことであり、傲慢なことです。エジプトも主の恵みがなければ栄えることがなかったのに、愚かにも自分の栄光を誇り、その結果主のさばきの対象となりました。私たちもまた、すべてが恵みのうちに与えられている栄光が、あたかも自分に属するもののように誇り、主とは関係のない生き方をするならば、主がそのような者をおさばきになります。 詩篇79篇……主を呼び求めず、主の民を虐げるような者たちには、主が激しい憤りを注がれます。それは、私たちが血を分けた愛する人たちに対しても、私たちのそばにいる人たちに対しても、例外ではありません。私たちは彼らの脅かしから救っていただけますが、それとともに、主は彼らに対し、大いなるさばきの御手を下されます。私たちはそれに耐えられるでしょうか。私たちは彼らが救われることを願わないでしょうか。 <祈りの課題>私たちが悔い改めを積極的にする者となりますように。

270 9月27日 Ⅱサム23ガラ3エゼ30詩78:38-72

サムエル記第二23章……ダビデは、義をもって、神を恐れて人を治める者の祝福を語っています。それはダビデの生涯を指していたわけですが、私たちもまた、主とともに統べ治める、王である祭司です。まさに、ダビデのすえなるイエスさまを心の中にお迎えし、イエスさまに従順である生き方をしている以上、私たちもこのような、統べ治める者の祝福をともにいただいています。 ガラテヤ人への手紙3章……アブラハムは神さまを信じて義と認められましたが、そのアブラハムの約束は、イエスさまにおいて実現しました。私たちはイエスさまを信じさえすれば、神さまの子どもとしていただけます。決して、人間的な努力の積み重ねで神の子になるのではありません。信じさえすればいい。このことを感謝しましょう。 エゼキエル書30章……神さまがエジプトをさばかれるということは、エジプトの神々をさばかれるということでした。世の勢力は、それぞれの信じている神々によって語られるものであり、イエスさまを主と告白しないならば、そのような神々をいただいた国々、民族は、終わりの日にさばかれます。私たちはそのような民の中から救われたことに恐れを抱きつつ感謝し、今日も主のさばきを待ち望みましょう。 詩篇78篇38節~72節……主は、イスラエルの度重なる不従順にあわれたすえに、ついにまことの牧者なるダビデをお立てになりました。全き心、英知の手で牧される民は、もはや神さまに対して不従順になることはありません。どれほど幸せなことでしょうか。私たちもかつては主に不従順な歩みをしていましたが、主は私たちに、まことの牧者なるイエスさまを送ってくださり、牧させてくださいます。 <祈りの課題>私たちが恵みのゆえに信仰によって救われていることを感謝しましょう。

269 9月26日 Ⅱサム22ガラ2エゼ29詩78:1-37

サムエル記第二22章……主は、ダビデに敵対する者、すなわち、ご自身に敵対する者をさばいてくださいました。そのように神に敵する者の攻撃を受けているうちは、心に安らぎがありません。彼らは悪魔の力で、全力で襲いかかってくるからです。しかし、私たちは負けてばかりはいません。私たちが真剣に祈るなら、主は私たちを暗闇の勢力から救い出してくださいます。 ガラテヤ人への手紙2章……キリスト教会を形成する上での大きな敵は「忖度」です。ペテロは割礼派への忖度のゆえに、本来受け入れて交わりを持つべき異邦人クリスチャンを遠ざけました。しかし、それはどれほど、主のみこころを損なったことでしょうか。私たちは教会を形成するにあたって、いかなるこの世的な論理も動員すべきではありません。私たちはただ、みことばの語るところにしたがって、教会を形づくっていくのみです。 エゼキエル書29章……エジプトへのさばきは、イスラエルの民が神さま以外の地上の勢力に拠り頼まないようにするためのものでした。私たちがもし、神さま以外のこの地に存在する何かを頼りにして生きているならば、主がそのようなものをさばかれ、なくされます。主はエジプトのことをバビロンを用いて滅ぼされましたが、主はあらゆるものを相働かせられ、ご自身のみこころを成し遂げてくださいます。そのみこころとは、私たちが主だけを愛し従うようになる、ということです。 詩篇78篇1節~37節……出エジプトの行程は、頑なな人間を主が忍耐され、それにもかかわらず主を信じなかった者たちに対し、主がさばきを加えられ、人々が主に立ち帰ったということの繰り返しでした。私たちはこのイスラエルの歩みを見て、なんと愚かな、と思うでしょうか。しかし、主にお従いしないで済ますことの多い者であるということにおいては、私たちも彼らと五十歩百歩です。私たちはそれにもかかわらず、神の怒りから救われていることを、当たり前のことと決して考えず、心から感謝しつつ日々歩んでまいりましょう。 <祈りの課題>私たちが主にお従いできていることを感謝しましょう。

268 9月25日 Ⅱサム21ガラ1エゼ28詩77

 サムエル記第二21章……ゆえなくギブオン人の血を流したサウルの一族は、さばきを受けることになりました。しかし、そのさばきを、アヤの娘リツパはサウルのそばにいた者として、また、彼らの母親として、しっかり見届けました。リツパは子どもを失いましたが、それによってイスラエルが飢饉から救われこともまた信じ、祈り心をもって、いけにえとなった子どもたちのことを見つめたことでしょう。私たちもまた、罪のさばきから救ってくださったイエスさまの十字架を日々見つめる者とされています。 ガラテヤ人への手紙1章……私たちは教会をとおして、正しい福音を受けています。その福音のほかによき知らせというものはありません。私たちはだまされてはなりません。私たちに異なった「福音」を宣べ伝える者は呪われるべきであり、それは、神さまの祝福は「一切」臨んでいない、ということです。私たちはそのようにして教会を破壊する者に最大級の警戒をする必要があります。 エゼキエル書28章……ツロの完璧さは、主が最高の被造物としておつくりになった人間の完璧さです。しかし、その完璧さは、神さまとの関係にあってもっとも力があるものなのに、人間はその完璧さを残したまま、神さまとの関係から離れる道を選びました。それが私たちの生きている世界のありさまですが、そのような世界は、ツロを神さまがおさばきになったように、神さまのさばきのもとにあるのではないでしょうか。 詩篇77篇……詩人アサフは、自分が弱り果てたときに、主がそれまで自分になしてくださったすべてのみわざを思い起こそうと語りました。私たちも弱ります。しかしそれは、主がそれまで私たちに対し、どんなにみわざを行なってくださったかを見失っているせいです。主はいつでも変わらずに、私たちのそばにいてくださり、みわざを行なってくださいます。たとえ、私たちが落ち込んで、主を見失っていたときもです。 <祈りの課題>私たちの生きている世界が創造主から離れるのではなく、かえって、創造主を見出して、お近づきすることができますように。

267 9月24日 Ⅱサム20Ⅱコリ13エゼ27詩75-76

サムエル記第二20章……ヨアブは、ダビデに敵対するシェバを討つということにおいてさえ、それを権力闘争の道具とし、軍団長アマサを暗殺して自らがその地位につきました。たしかにヨアブは、ユダの人々を期日までに召集できなかったアマサに比べると、あっという間にシェバを討ち取った分、軍人としての能力は秀でていたかもしれません。しかし、ダビデ王から信任を受けていたか否かという点において、ヨアブは決定的に欠けていました。教会形成においても同じことで、卓越した能力があるように見えれば、それで優秀な油注がれた主の器であるといえるわけではありません。イエスさまを愛しているか、それゆえに、「わたしの羊」を飼う召命をいただいているか、その、イエスさまとの関係が何よりも大事です。 コリント人への手紙第二13章……主の働き人が願うべきことは、自分が弱くても、自分の仕えている群れが霊的に強くあることです。パウロがそのような姿勢でコリント教会に仕えてきたように、主の働き人は、たとえ群れからどのように思われたとしても、群れが霊的に強くあるために、あらゆる努力を惜しまずにするものです。私たちは群れが強くあるために努力していますでしょうか? どのような努力をして、どのような実を見ていますでしょうか? エゼキエル書27章……世界の富の集結したツロは名声をほしいままにしましたが、東風によって滅ぼされたと預言は語ります。いかなる人間的な富や名声も、創造主なる神さまの御手によってはひとたまりもありません。私たちもいま、世界中の富や文化を享受する社会に生きていますが、それは主がお許しになられる間だけ楽しめるだけのもので、時が来て主がこの世に終わりをもたらされたら、すべては失われます。私たちは自分の有限な持ち物を誇ってはいないでしょうか? 誇るべきは主だけです。 詩篇75篇~76篇……この地にさばきは臨みます。そのさばきを行われるお方は主であり、主のさばきはつねに公正です。そのさばきが公正であるかどうかを決めるのは人間ではありません。ゆえに私たちはこの地に生きているかぎり、つねに主がみことばにおいてお定めになっている基準を学び、基準に生きることで、終わりの日のさばきに耐えうるものとならなければなりません。私たちは今日もみことばから主のおきてを学べますことに感謝しましょう。 <祈りの課題>さばきを待つだけの爛熟したこの...

266 9月23日 Ⅱサム19Ⅱコリ12エゼ26詩74

サムエル記第二19章……ダビデが帰還することが決まったとき、人々はさまざまな反応を示しました。それが喜びとなった人、さばきを恐れなければならなかった人、申し開きをしなければならなかった人、王とともにいる権利を主張した人々、さまざまでした。このように人間模様が、ダビデの帰還によって明らかにされたように、イエスさまが再びこの地に来られるときには、人々はさまざまな反応をイエスさまに対して示します。中には、もはやおしまいであることを知り、絶望してしまう人もいるわけです。私たちはやましいことなく、喜んでイエスさまを迎えることができるでしょうか。 コリント人への手紙第二12章……コリント教会に対して終始強気で語りつづけたパウロが、唯一彼らに対して謝罪していることは、パウロがコリント教会に負担をかけなかったということです。教会が自らの形成のために他者の力を借りず、負担をするということは、成長の結果として当然伴うべきことであり、それをしないことは祝福とはいえず、不正とさえいえることです。私たちはそういうわけで、自分の群れが富んで、より宣教と教会形成に励めるようにささげることを目指してまいりたいものです。また教職者は、自分のケアしている群れをいつまでも子ども扱いしない、すなわち、まだまだささげる力がないから助けてあげなければならないと考えないことです。ささげるということにおいても、私たちはともに成長を目指しましょう。 エゼキエル書26章……神の民はさばきを受けました。しかし同時に、神の民を攻撃し、征服したとうそぶくような者に対しては、神さまが完膚なきまでにさばきを下されます。私たち神の民はときに、ひどい目にあうことによって神さまの御前に悔い改めをささげるものですが、神さまは私たちの味方であり、私たちを傷つけることによってご自身の栄光をいたくけがすものに対する御怒りは大変なものです。神さまを恐れましょう。 詩篇74篇……神の民は傷つくままでいることはありません。私たちは傷つけられるとき、いつまで敵はおごり高ぶるのかと嘆きたくなりますが、私たちが終わりの日のさばきを思うならば、その怒りから解き放たれ、かえって、彼らに臨む終わりの日の悲惨さを思い、彼らに対するあわれみの心が起きないでしょうか。彼らに救われてほしいと思わないでしょうか。かつて日本の官憲がしたように、今世界の各地において、クリ...

265 9月22日 Ⅱサム18Ⅱコリ11エゼ25詩73

サムエル記第二18章……ダビデの気持ちは複雑でした。自分に敵対する者が、ほかならぬ自分の息子であったからです。しかし、ヨアブはそのような王の気持ちなど、まったく考えず、ただ血を流すことしか考えていませんでした。そのような残忍さが、アブネルとアマサの血を流すことにつながり、それゆえにダビデはソロモンに、ヨアブを処刑するように命じましたが、王の心を知らぬ者は王の重要な働きを任されるわけにはいきません。いわんや主の働き人は、人間的な成功を求めることによって、主のみこころに背くようなことになってはなりません。 コリント人への手紙第二11章……パウロは、主によって話すのではないと断りを入れて、「自慢話」を話していますが、それは、彼らコリント教会が自分を誇っていることが、パウロが実際に体験してきたことに比べて、どんなにむなしいかということを示すために、主があえてパウロに語ることをお許しになったことがらです。結果としてこのパウロの陳述は、主のみことばとして聖書に収録されました。それは何よりも、これらパウロの体験してきたことが「事実」であるからです。実際にそのような体験をしている人のことばほど説得力のあるものはありません。私たちにとってもみことばは机上の空論であってはなりません。実際に体験することで、ほかの人にみことばは伝わっていきます。 エゼキエル書25章……主の民を虐げるような者は、主が必ずさばきを下されます。ほうっておかれることはありません。私たちは、自分たちクリスチャンに迫害を加える者がいつまでも永らえているのを見て、「主よ、さばきはまだですか!」と叫びたくなってはいないでしょうか。主はそのような者たちに速やかにさばきを加えられ、そのさばきのわざをもって、ご自身の栄光を顕してくださいます。そのようなさばきに瀕する世界のために、私たち主の民はとりなして祈ってまいりましょう。 詩篇73篇……主の敵が栄えつづけたと思ったら、その最期は悲惨である……そのことをほんとうに知ることができるのは、世から見れば奥まった場所である主のみもとにいるときです。私たちがそのひそかな場所で主との交わりを持っていないならば、この世の権力者がいつまでも永らえるその姿しか見えず、悲しい思いをするしかありません。私たちにとってのまことの喜びは、世にて栄えることではありません。主のみもとにいることこそまことの...

264 9月21日 Ⅱサム17Ⅱコリ10エゼ24詩72

サムエル記第二17章……ダビデの軍勢に奇蹟的な助けが臨むようになりました。敵対する者の作戦はかき乱され、自軍の兵士たちは守られ、食糧が届けられました。このようなことはみな、偶然起こったことではありません。ダビデが神さまの側につく人だったことが、このように特別な守りをいただいた最大の理由です。 コリント人への手紙第二10章……献身者が主のために働く動機づけはどこまでも、自分のことを誇るためであってはなりません。その第一の動機となるべきものは、「その働きの対象となる信徒たちが霊的に成長すること」であるべきです。教会が献身者に接する態度も、その献身者の姿勢が前提となるべきで、自分たちの霊的成長に献身者がどれほど益しているかを思い、感謝を応分にささげるべきです。それがみこころにかなうことです。 エゼキエル書24章……エゼキエルは妻を天に送りました。しかし、神さまはそのようなさなかにもエゼキエルが自分のことを優先させることをお許しにならず、神の民に対するさばきのことばを語らせられました。まことに献身者というものは、神の民のためになにものをも犠牲にすることが求められています。そのようにして神さまはエゼキエルに働きを全うさせられ、ご自身の民にみこころを余すところなく伝えられました。私たちも主の働き人として、主を第一とする生き方をしていますでしょうか? 詩篇72篇……まことの王は、民の上に君臨して我欲を貪る存在ではありません。民を守るために粉骨砕身してこそ、主のみこころにかなう王です。まことの王なるイエスさまは、そのように神の民のためにすべてを投げうたれたお方です。私たちもイエスさまを王としてお迎えしている者として、自分のことよりも、主の民のために、隣人のために働くことが喜びとなるように、主に祈ってまいりましょう。 <祈りの課題>私たち主の民が、主への献身を喜びとする生き方を選び取っていくことができますように。

263 9月20日 Ⅱサム16Ⅱコリ9エゼ23詩70-71

サムエル記第二16章……サウルの部下だったツィバとシムイは、きわめて対照的な行動に出ます。ツィバはダビデに取り入ってメフィボシェテの財産をまんまとせしめ、シムイはダビデを呪います。ツィバはダビデを王と認め、シムイは認めなかったわけですが、よく見るとどちらも、ダビデのことよりも自分のことを優先しているという点で共通しています。ほんとうにダビデのことを思うならば、ダビデと行動を共にすべきだったのではないでしょうか。フシャイに関しては、アブサロムの陣営に今はいましたが、ダビデの命(めい)を受けてのことなので、事実上ダビデとともにいたことになります。私たちはキリストを利用してのし上がろうとするような愚を犯してはいないでしょうか? それとも、人間的には不利に思えても、キリストにつく行動を選んでいるでしょうか? コリント人への手紙第二9章……ささげものというものは自発的になされてこそ意味のあるものです。ささげものが強制的になされたとするならば、それは意味がありません。イエスさまとともにいることを喜ぶゆえに、そのあふれる喜びの表現としてささげものをするものです。主は、ささげものをすることを志す者に、ささげるためのものを備えてくださることでご自身のご栄光を顕してくださいます。私たちはこの信仰をもってささげましょう。 エゼキエル書23章……主の民が偶像礼拝をすることがどれほど醜いかを、この章は露骨とも思えるような表現で描写しています。主は、彼らの偶像礼拝を決して軽く見ることはなさらず、その偶像の罪責を負わせられます。私たち主の民は、偶像としているもの、すなわち、それに没頭することで主との交わりをすっかり遠ざけているものはないでしょうか? この箇所を読んで、偶像礼拝がどれほど神さまの嫌われる罪であるかを知るならば、それらのものを直ちに断ち切る決断が必要です。 詩篇70篇~71篇……この両方の詩に共通することばは「恥」です。詩人は、主にある者のいのちを求める者が恥を見て、主に身を避ける者が恥を見ないようにと祈っています。恥とは、創世記のはじめに、神さまが手ずから作ってくださった獣の皮衣で覆われるべきものであったように、イエスさまの十字架の犠牲によってはじめて覆われるべきものです。私たちはイエスさまの十字架によって覆われる必要がありますし、私たちに敵対するような人たちもまた、イエスさまによ...

262 9月19日 Ⅱサム15Ⅱコリ8エゼ22詩69

サムエル記第二15章……ダビデが命からがらエルサレムを逃げ出したとき、同伴することを誓ったガテ人イタイに注目しましょう。彼は亡命してきた異邦人であり、極めて弱い立場にありました。しかし彼はダビデこそ油注がれた王であり、このダビデと運命をともにすることがみこころであると信じていました。結果、イタイの誓った通りの結果となり、ダビデはエルサレムに王として戻りました。私たちも主にお従いするとき、極めて厳しい思いをすることがあるものです。しかし、主に近づき、主とともに歩むならば、そのような私たちには、この世の何ものにも代えがたい平安と祝福が伴います。 コリント人への手紙第二8章……マケドニア教会は貧しさの中にあっても、主の愛に満たされ、また、イエスさまの愛にならって、身銭を切ってささげる教会になりました。この姿はコリント教会にとってお手本であるように、私たちにとってもお手本です。私たちがこのようなお手本にならう者になるためには、まず何よりも、イエスさまが自分のことをどんなに愛してくださっているか、その愛を心から体験することです。また、ささげると「少し痛い」くらいの献金にチャレンジしてみましょう。 エゼキエル書22章……主が求めておられるのは、「破れ口に立つ人」です。身分にかかわらずどんな者も偶像に淫し、弱い立場にある者を虐げてやまないような世にあって、そのような時勢に抵抗し、まことの神のみこころをあらわすということは、極めて難しいことです。しかし、この世と調子を合わせることなく、あえてみこころに従う生き方を私たちがしていくならば、それはどれほど幸いなことでしょうか。 詩篇69篇……神の民は、霊的なシオン、神の都を永遠に受け継ぐ特権をいただいています。このような神さまとの特別な関係にあることを世の者たちはどう思ってか、私たちのことをゆえなくそしり、そればかりか、私たちの信じお従いしている神さまをそしります。しかし、そのような苦しみの中にあっても、神さまは絶対的に私たちのことを守ってくださいます。詩人ダビデは、このように責め立てる者のことをいのちの書から消し去ってくださいと祈りますが、私たち主の民を責め立てることはそれほどの大罪だと知る以上、もし私たちの肉親や親しい人がそのような大罪を犯しているならば、私たちはことのほか神さまに、イエスさまの十字架による赦しを切に求める必要があり...

261 9月18日 Ⅱサム14Ⅱコリ7エゼ21詩68

サムエル記第二14章……ダビデとアブサロムの間の確執は長い時間を経て一応の落ち着きを見せますが、実際のところは見せかけだけの鎮静化にすぎませんでした。双方は間にヨアブをはさんでいましたが、直接向き合うことを避けました。それがのちの、アブサロムのクーデター、ダビデの逃亡につながることとなりました。地上の親子関係はときに問題をはらむことがありますが、そのようなときには双方が逃げずに、問題にしっかり取り組むことが必要になります。ダビデは親という点では問題だらけでしたが、天のお父さまはいっさい欠けのないお方であり、私たちはこのお方の前に何の夾雑物もなく、ありのままの姿で出ていくとき、祝福をいただきます。 コリント人への手紙第二7章……教会という共同体は、みこころに沿った悔い改めが行われる場所です。悔い改めは一時的にとても悲しい思いをさせるものですが、共同体全体が救いの喜びを味わうことができるゆえ、素晴らしいものです。しかし、世の悲しみ、すなわち、悔い改めとは名ばかりで、主に立ち帰らせることなく、共同体を悲しませるばかりのものは、共同体からいのちを奪います。 エゼキエル書21章……神の民は無条件に守られるわけではありません。主に不従順な、偶像礼拝をやめない不義な者たちに対しては、主ご自身が剣をもたらされ、完膚なきまでに滅ぼされます。私たちも、イエスさまの十字架を信じる信仰によって救われている……それはまことにそうなのですが、それゆえに、何をしても救われるとばかりに放埓な生き方をするようではなりません。私たちは終わりの日のさばきを思い、その火に恥ずかしくなく御前に立てる者となるように、日々従順あるのみの生き方をしてまいりたいものです。 詩篇68篇……私たちの生きる人生は、世界の終わりの日に雲に乗って来られるイエスさまのために道を備えることです。自分自身が恥ずかしくない生き方をするのはもちろんのこと、この地にともに豊かな主のご栄光を顕し、この地をよい地としていくことが私たちに求められています。たしかに世の終わりは絶望的な環境になりますが、その中で何もしないでいるようならば、主は果たして私たち主の民をどのように取り扱われるでしょうか。終わりの日に向けて恥ずかしくない生き方を目指してまいりましょう。 <祈りの課題>私たち主の民がたえず終わりの日を意識し、恥ずかしくなく御前に立てるよう...

260 9月17日 Ⅱサム13Ⅱコリ6エゼ20詩66-67

サムエル記第二13章……ダビデ王が、バテ・シェバとの間にもうけた最初の子どもを失ったことにつづく次の懲らしめは、自分の家庭が破壊されたということでした。もし、ダビデがバテ・シェバに手を出すとはどれほど恐ろしいことかということをわかっているような高潔な価値観をもって自分の家庭を治めていたならば、このような破壊を味わわなくて済んだはずです。アムノンのしたことは、そっくりそのままダビデのしたことと生き写しで、アムノンはいわばダビデの身代わりにさばかれたようなものでした。私たちは外に表れた生き方だけではなく、家庭においても、主にお従いする生き方を全うしてまいりたいものです。 コリント人への手紙第二6章……神さまを父とする生き方を全うするためには、神さまにお従いしない者たちから離れること、そして、彼らの汚らわしい文化に自分から近づかないことです。私たちは伝道だの関係づくりだのとうそぶき、そのような彼らの滅びるべき文化に近づいて身をけがしてはいないでしょうか? しかし、それは神を父とする民としてまことにふさわしくない態度です。 エゼキエル書20章……主はご自身の民に、みこころにかなわない忌まわしいものを投げ捨てるように命じていらっしゃいます。それを投げ捨てず、神さまよりもそれらのものを慕い求めるような者に対しては、主はそれ相応のお取り扱いをなさいますが、それでも彼らがさばかれずに済んでいるのは、主がご自身のご栄光のゆえに、すなわち、偶像礼拝の民のそしりを受けないために、民にさばきを下さないでおられるからです。私たちは自分たちにさばきが下されないでいるからと、神さまを甘く見ていてはなりません。 詩篇66篇~67篇……詩人が告白するとおり、神さまのみわざはとても恐ろしいものです。主の敵もそのみわざを見て、神さまを認めて恐れるほかありません。しかし主が私たちに求めておられることは、いたずらに主を恐れることではありません。かえって、主に向かって喜び叫ぶことです。主の御名の栄光をほめ歌うことです。私たちは主を恐れる者ではなく、喜ぶ者としていただいています。この特権のゆえに、心から神さまをほめたたえましょう。 <祈りの課題>私たちが神さまのみこころから離れた民から離れ、また、彼らの文化に近づいて楽しむことがありませんように、自分を律する者とならせてください。

259 9月16日 Ⅱサム12Ⅱコリ5エゼ19詩64-65

サムエル記第二12章……罪を犯したダビデはさばかれることはありませんでしたが、子どもを失うという形で懲らしめの御手が下りました。ダビデはこの懲らしめの御手が完全に下されたとき、淡々とそれを受け入れました。主が一度下されるとお決めになった懲らしめは、どんなにやめてくださいと人が言おうとも、必ず下されます。それを受け入れることは、主のご主権を認めるということであり、この点においてダビデはふさわしい立ち直りを体験しました。主はダビデをこの点においてもはやお責めにならず、ダビデが子どもを失ったのちにバテ・シェバとの間にもうけたソロモンを特別に愛してくださいました。 コリント人への手紙第二5章……創造主なるイエス・キリストがすべての被造物なる人のために死なれたということは、すべての人が死んだということです。それは、どんな宗教を信じていたとしても、たとえ無神論者であったとしてもです。私たち人間はひとりとして例外なく、創造主なる神さまの被造物であることに変わりはないからです。このお方の死と復活によって私たちは新しく造られたもので、すべては新しくなりました。 エゼキエル書19章……この哀歌では、北イスラエルと南ユダが、母獅子から生まれた二頭の子獅子になぞらえられています。この子獅子たちはきわめて獰猛で、手がつけられないほど暴力的でした。このような観点からイスラエルとユダを見ると、この猛獣に悩まされていた周辺諸国が子獅子たちを退治したのは、まったく正当に見えてきます。主の民はそれほど罪深い中にあったということを、彼らは認める必要がありました。実に、主の民の不従順は、周りの人たちに対しても大いなる迷惑となります。私たちは主に従順な歩みをもって、周りに対して証しとなる生活を志していますでしょうか? 詩篇64篇~65篇……幸いな人は、主が選んでみもとに近寄せられた人のことです。その人は主がくださるあらゆるよいもので満ち足ります。私たちがほんとうの意味で、満たされ、喜ぶことのできる場所は、ただ主の御前だけです。私たちはそれ以外のものによって喜びを得ようとしても、まことの満足を得ることはできません。 <祈りの課題>私たちの歩みが周りに証しとなるように、従順に励むものとなりますように。

258 9月15日 Ⅱサム11Ⅱコリ4エゼ18詩62-63

サムエル記第二11章……表面的に見ればこういうことです。ダビデの忠僕の勇士は名誉の戦死を遂げた、その戦争未亡人をダビデ王がめとった、ああ、なんという美談だろうか……だれもがそう思うような「美談」は、ダビデがバテ・シェバを手に入れるためにこしらえた、どす黒い欲望の産物です。私たち主の民はひとつ間違えると、このような罪に陥ってしまいます。だれもダビデのことを並外れた罪人、悪人とさばくことはできません。ダビデのこの姿は私たちの鏡です。私たちはつねに悔い改め、罪に陥らないように自分自身を治めていただく必要があります。 コリント人への手紙第二4章……私たちは今たしかに苦しんでいます。その苦しみはあまりにも大きく、重いものであるかもしれません。しかし、それでもみことばは、今体験している苦しみは軽いものであると語ります。それよりもはるかに大きなもの、重いものは、のちの世にて受ける永遠の栄光です。私たちはこの御国の栄光を思うならば、今体験している苦しみを耐えることができるはずです。 エゼキエル書18章……主は、人が主に立ち帰って生きることを願っていらっしゃるのであって、人が死ぬことなど願ってはいらっしゃいません。私たちは生きて主のみこころにかなう者となるために、主のみことばに従順にお従いする必要があります。ほかの道によっては私たちは生きることはありません。 詩篇62篇~63篇……ダビデは荒野にありましたが、荒野にあっても彼はそこが聖所であると告白し、その場から神さまを仰ぎ見ました。その理由は、主の力と栄光を見るためであったと語ります。私たちはこの地上のさすらいの旅において、主の力と栄光を体験することなしには先に進むことのできない存在です。私たちはどこにおいても、そこにともにおられる主を仰ぎ見、心からの礼拝をささげてまいりたいものです。 <祈りの課題>私たちがいつでも、主とともに歩むいのちを選択していくことができますように。

257 9月14日 Ⅱサム10Ⅱコリ3エゼ17詩60-61

サムエル記第二10章……ダビデがアンモン人に戦いを挑んだ理由は、自分の臣下がたいへんな辱めを受けたということによります。もともと彼らはダビデの命(めい)を受けて、敵対する民族に対して精一杯の外交的な礼儀をわきまえて赴いたというのに、たいへんな目に遭ったわけです。ダビデはこの、自分の命を受けた臣下たちのために、最大限の責任の取り方をしました。自軍をアンモン人とアラムの連合軍に差し向け、大いなる勝利を得たのでした。主は、私たち主の民が、主の御名のゆえに負けたままでいることをお許しにならず、敵対する者たちを討ってくださいます。 コリント人への手紙第二3章……神の民であるイスラエルの人々にさえ覆いがかけられてみことばがわからなくなっているように、こんにちすべての民は、覆いがかけられてみことばを理解することができません。人がみことばを理解するためには、キリストによってその覆いが取り除けられている必要があります。キリストこそ、みことばを解き明かしてくださる唯一のお方であり、キリストなしにはいかなるみことばも、みこころにかなう形で理解することはできません。 エゼキエル書17章……神の民にふさわしいことは、神さまにのみ拠り頼むことです。世の人たちがしているように、世の勢力に拠り頼んでも、いざとなったら彼らは私たち主の民を守ってはくれません。守ってくださるのは神さまだけです。もし私たちがこの点において信仰を働かせず、神さま以外のこの世の勢力を信じ、拠り頼むようになったならば、それにふさわしい報いが私たちを待っていないでしょうか? 神さまに拠り頼まなかっただけのきびしい懲らしめが待ってはいないでしょうか? どのような状況になったとしても、神さまにのみ拠り頼む私たちとなってまいりましょう。 詩篇60篇~61篇……ダビデにまことの平安を与えた居場所は、堅固な王宮ではありません。神の臨在に満ちた幕屋です。幕屋は壁に覆われてはいませんが、神の臨在という、この世の何ものもかなわない聖性と威厳に満ちた空間です。私たちも普段の生活の中で、このような神の聖性と威厳の前に出て、平安を得る時間を確保するならば幸いです。だれにも祈っていることを明かさない「奥まった部屋」、これが私たちに必要なのです。 <祈りの課題>私たちが普段の生活の中で、祈りに集中する時間と場所を確保することができますように。

256 9月13日 Ⅱサム8-9Ⅱコリ2エゼ16詩58-59

サムエル記第二8章~9章……ダビデの食卓その他の恵みにあずかることになったメフィボシェテは、自分の立場をわきまえすぎるほどわきまえていました。本来ならば彼は、先王の家系の遺児として、ダビデに捨てられても仕方のない立場にありました。しかし、ダビデはサウルを油注がれた王と認めていたゆえに、このような極めて悲惨な境遇に身を落としていたメフィボシェテに、過分なほどの恵みを施しました。私たちも本来はさばかれるべき悲惨な罪人でしたが、主は私たちを救ってくださったイエスさまのゆえに、私たちに過分なほどの恵みを注いでくださいます。 コリント人への手紙第二2章……私たち教会は、みことばを宣べ伝える立場にある人に対し、自分たちの中の人間関係に起因する問題のゆえに、悲しみを及ぼすようなことをしてはなりません。そうするならばその働き人は悲しみ、それゆえに、私たちの群れ全体が悲しむことになります。私たちは悲しみをもたらす不寛容を正当化するのではなく、イエスさまが悔い改める者を赦してくださるその愛のゆえに、互いに赦し合い、共同体を喜びに満たしてまいりたいものです。 エゼキエル書16章……神の民が神さまを裏切り、偶像の民に拠り頼むようになるさまは、このように女の姦淫になぞらえられて描かれると、目をそむけたくなるほど醜いものです。しかし、神さまは民をさばかれたままにしてはおかれません。時至って、神さまは民を回復に導いてくださいます。私たちがこの箇所を読んで、自分の罪の醜さに気づかされ、いち早く悔い改めるならば幸いです。 詩篇58篇~59篇……自分には何の咎もないのに、まるで自分が罪人であるかのように悪い目にさらされるということは、私たち主の民にはあるものです。しかし、そのようなとき、私たちには拠り頼むべきお方、主がいらっしゃいます。主はすべて、主に敵対する者に御手を下されます。私たちはそれゆえ、主の敵がいつまでも永らえていると落胆する必要はありません。さばきもすべて、主の御手に委ねてまいりましょう。 <祈りの課題>私たちが普段、どれほど醜い罪を犯しているかにつねに気づかせていただき、みこころに沿った悔い改めをしていくことができますように。

255 9月12日 Ⅱサム7Ⅱコリ1エゼ15詩56-57

サムエル記第二7章……ダビデの家は、主がとこしえの祝福をおかれた家です。ダビデは目に見える神殿を建てるに至りませんでしたが、ダビデのすえなるイエスさまは私たちのことを神殿として立ててくださり、私たちのうちに永遠に住まってくださいます。 コリント人への手紙第二1章……私たちは苦しみます。しかし私たちは、苦しんで終わりではありません。この苦しみの中で私たちは、主に拠り頼む者にしていただきます。そして、そればかりではなく、その苦しみの中で主が味わわせてくださった慰めをもって、ほかの兄弟姉妹を慰めることができるという形で、神さまに用いていただけます。このことのゆえに感謝しましょう。 エゼキエル書15章……人はいかに神の民であっても、神さまに背き、神さまの信頼を裏切るようならば、それは実を結ばないぶどうの枝のようで、切り取られて火にくべられるほかありません。枝も何の役にも立ちませんし、その火も何かを暖めることもできず、滅びるだけです。ぶどうの枝が役に立つのはただひとつ、木にくっついて実を結ぶときだけです。イエスさまにつながらないクリスチャンもこれと同じで、神さまの栄光のためには何の役にも立たず、滅ぼされるしかありません。 詩篇56篇~57篇……エゼキエル書15章の主の民の有様とちがって、主に信頼することのできる人は幸いです。そのような人は、いかなる敵のおびやかしにあっても、主ご自身がご介入くださり、特別な守りを与えてくださいます。私たちも生きているならば、多くの困難、苦難を体験しますが、そのとき呼び求めるべきお方がいらっしゃる私たちは、なんと幸いなことでしょうか。 <祈りの課題>私たちの体験する苦しみをむだにせず、苦しみの中にあるほかの兄弟姉妹を慰め励ます原動力となりますように。

254  9月11日 Ⅱサム6Ⅰコリ16エゼ14詩55

サムエル記第二6章……ミカルにとって、ダビデのもとに神の箱を運び入れるという祝福、すなわち、ダビデがいよいよ主の臨在のもと祝福されるということなど、どうでもよく、大事なのはダビデが王として目に見える威厳を保っているかどうかだけでした。ミカルの関心は霊的なことにはまったくありませんでした。ミカルに死ぬまで子どもがなかったということは、そのようなミカルに対する神さまのお取り扱いという側面があるのもさることながら、ダビデはミカルとはもはやひとつになることをしなかった、という意味であるとも考えられます。夫婦がひとつになるうえで大事なのは、霊的な一致であり、それがないで霊的ではない側に妥協すると、悲惨なことになります。霊的主導権を持つ側がしっかり主導権を発揮すべきということは、夫婦生活においても例外ではありません。 コリント人への手紙第一16章……みなさまは主日礼拝において献金をささげるとき、かごが回ってきたときにようやく財布を取り出すようなことをしてはいないでしょうか? 献金は礼拝の一部です。礼拝の一部ですから、その態度からしておざなりにしていてはなりません。事前に一定の額を取っておいて(封筒に入れるのがいちばんいい)、かごが回ってきたときにスムーズにささげられるようにすべきです。財物のあるところに心もあるものです。財物の管理を主にあってしっかりしましょう。 エゼキエル書14章……人がなぜ偶像に淫するようになるかといえば、心の中に偶像を秘め、目の前に偶像を置くからです。人がそこから逃れ、主に立ち帰るようになるためには、心の中から偶像を取り除き、目の前に置かれた偶像から主の御許へと身をひるがえす必要があります。偶像から神に方向転換する、これぞまことの悔い改めです。 詩篇55篇……主の民に敵対する者は間近にいた、ということはよくあることです。その前提で物事を見ているならば、いざというときにうろたえなくて済みますが、それでも親しい者の裏切りにあうわけですから、それはとても悲しいことです。しかし、そのような者に対しては、自分で復讐してはなりません。神の怒りに委ねるべきです。復讐というものは人のするものではなく、神さまのするものだからです。私たちは変わらずに、そのような人に対して善を行わなければなりません。 <祈りの課題>主に向かって心からの賛美をささげる私たちとなりますように。

253 9月10日 Ⅱサム4-5Ⅰコリ15エゼ13詩52-54

サムエル記第二4章~5章……4章を読むと、イスラエルの王イシュ・ボシェテも、王位継承権において高い優先順位にあったメフィボシェテも、「弱い」という印象を受けないでしょうか。ダビデはそれでも、このサウル王朝が油注がれた真の王朝であるという態度を、最後まで貫き、王のいのちをぞんざいに扱った者に対しては、それ相応の報いを与えました。ダビデの心は状況に左右されていませんでした。ダビデはどこまでも、主が人をお立てになったというその事実に根ざして人を見て、それにふさわしい行動をしました。私たちも主に油注がれたどうしならば、お互いがお互いに対してそれにふさわしい行動をするべきではないでしょうか。 コリント人への手紙第一15章……人は必ずその地上のいのちに終わりが来ますが、私たちは、それで終わりだと考えてはなりません。私たちが恐れる死は、キリストの十字架と復活という勝利に呑み込まれたゆえ、もはやその勝利はどこにもありません。私たちはこのことを知っているゆえに、もはやこれ以上恐れる必要はありません。私たちのすることは、この究極の勝利を目指して、日々労苦することです。 エゼキエル書13章……むなしい幻、主がお見せにならなかったのにいかにも幻を見たかのように吹聴するにせ預言者は、悪者に対し、悔い改めを迫るのではなく、そのまま変わらなくていいという偽りのメッセージを語って力づけます。それはどれほど主のみこころを損なうことでしょうか。私たちが力づけるべきは正しい人であり、けっしてそういう人を悲しませてはなりませんし、反対に、悪い者にはその罪の大きさを示し、悔い改めを迫る者とならなければなりません。 詩篇52篇~54篇……私たちが主にお従いしているという理由で私たちに迫害を加えてくる人たちは、神さまを知らず、したがって神さまに対する恐れがないゆえにそのようにするのです。私たちはまず、そのような人たちのゆえなき攻撃から守られるように祈らなければなりません。主は、私たちを守ってくださることにより、ご自身のご栄光を示してくださいます。 <祈りの課題>悪を行う者たちに対してひるむことなく、私たちが罪を明らかにし、悔い改めを迫る強さが与えられますように。

252 9月9日 Ⅱサム3Ⅰコリ14エゼ12詩51

サムエル記第二3章……ダビデの将軍ヨアブは野心家であると同時に、小心者でした。自分から将軍の地位が移される、それも弟アサエルを殺した者に、ということに耐えられなくて、ヨアブはアブネルを暗殺しました。しかし、そのことはかえってダビデを激怒させ、ヨアブとその兄弟に対するより一層の警戒心を起こさせました。私たちはしばしば、私的な動機による行動をあたかも主のみこころから出たものであるかのように自分を偽り、行動するものですが、主はすべてご存じで、みこころだけがなります。私たちは主のみこころにかなわない者となってはなりません。 コリント人への手紙第一14章……異言で語るということは、それだけ恵みを受けているということなので、結構なことではあります(これは「異言」という「超常現象」にかぎりません)。しかし、その恵みが自分だけのものであり、その恵みがいかに深く、素晴らしいものであるかを伝えることができないならば、福音はそれ以上広がりません。福音の素晴らしさを解き明かす「預言」(これも「超常現象」とはかぎりません)が語られるということは、未信者への宣教がなされるということであり、むしろ奨励されるべきことです。私たちは受けている恵みを、自分だけのものにしていないでしょうか? それとも、外部の未信者にもわかるように解き明かすことに努めていますでしょうか? エゼキエル書12章……終末の預言の幻は、必ず成就します。主がそう定められた以上、延ばされることはありません。それでもその預言がいまもなお成就していないように見えるのは、預言が嘘だったからではありません。ひとりでも多くの人が主に立ち帰り、救われるように、主が忍耐していらっしゃるからです。預言が成就しないように見えることを甘く見ていてはなりません。 詩篇51篇……クリスチャンはときに、取り返しのつかない罪を犯したと感じ、その罪の大きさ、恐ろしさにおののきます。しかし、私たちには希望があります。それは、主の御前に完全に砕かれた態度で出ていくならば、主はそれをいけにえとして受け入れてくださり、私たちの罪を完全に赦してくださる、ということです。私たちが罪を犯したならば、主の御顔を避けてはいけません。大いに悔い改め、イエスさまの十字架による罪の赦しを信じて、大胆に御前に出ていくことです。 <祈りの課題>私たちの味わう主の恵みが、自分たちだけのもので...

251 9月8日 Ⅱサム2Ⅰコリ13エゼ11詩50

サムエル記第二2章……イスラエル(ベニヤミン)の代表戦士とユダの代表戦士との間の闘技は、ユダの側の圧勝に終わりました。ベニヤミンのアブネルはこれを見て、主が味方しておられるのはユダの側、すなわちダビデの側だということを見て取ったはずです(その後のイシュ・ボシェテに対する彼の態度からもそれは明らかです)。それを知ったアブネルは闘技をやめさせようとしますが、結果、ヨアブの弟アサエルの抵抗にあい、流さなくてよい血を流し、結果、それがアブネルのいのちを縮めることになりました。もとはといえばアブネルが闘技をしようと言い出したことが発端です。私たちは争うことで物事の決着をつけたがるものですが、その前に、平和の主なるイエスさまが私たちの間に平和を成し遂げてくださることがみこころだということを、私たちは謙遜に認め、主のみこころに従う必要があります。 コリント人への手紙第一13章……私たちは多くの場合、自分の蓄えた「知識」(それは聖書に関するものも含む)や、「業績」(それは教会形成に関するものも含む)を、自分の霊的成長の度合いを測る基準にします。しかし、そのような私たちは、自分がどれほどの罪人で、それにもかかわらずイエスさまがどれほどそんな自分のことを愛してくださっているか、実感していますでしょうか? その愛を自分のものにしていただいているならば、私たちもわずかながらでも、イエスさまの愛によってほかの兄弟姉妹を愛する人にならせていただけるはずです。その愛はいつまでも残るものです。 エゼキエル書11章……主は私たちのうちから石のように頑なな心を取り除き、肉のように血の通った心を与えられて、みこころを理解するようにしてくださいます。しかし、それには条件があります。私たちが主を捨て、その結果偶像(貪り)に身を焦がし、悪に手を染めることをわがうちから追放することです。そのような悪に染まった者に対する主のさばきは恐ろしいものがありますが、主は必ず、みこころにかなう者をふさわしい悔い改めへと導いてくださいます。 詩篇50篇……神さまは私たちに、目に見えるいけにえのような「宗教行為」を求めていらっしゃるのではありません。むしろ求めていらっしゃるのは、「感謝」です。感謝というものは、日々との主との生きた霊的な交わりから生まれてくるものです。その交わりは喜びを生み、けっして兄弟姉妹をさばくという形で実...

250 9月7日 Ⅱサム1Ⅰコリ12エゼ10詩49

サムエル記第二1章……サウルはダビデに悪を計りつづけましたが、ダビデは最後まで、サウルが愛される人だったと告白します。それは、サウルが主に油注がれた王だったからです。私たちクリスチャンがお互いを見る基準は、その人の表面にあらわれた性格や言動である以前に、その人に聖霊の油を注いでくださった主ご自身であるべきです。 コリント人への手紙第一12章……私たちは教会の中にあって、ほかの兄弟姉妹に与えられている賜物をうらやんだり、ねたんだりする必要はありません。なぜならば、私たちはみなすべてが主から賜物を与えられていて、その賜物の与えられたどうしが組み合わされて、ひとつの教会を形づくっているからです。私たちはむしろ、素晴らしい賜物の与えられているほかの兄弟姉妹とひとつとされていることに感謝し、誇りに思うべきです。 エゼキエル書10章……私たちの生きている世界には終わりの日があること、その終わりの日にはどれほど悲惨なさばきが臨むかということを、私たちはどれほど意識しているでしょうか。そのさばきのために主は御使いを用いられます。私たち人間には到底太刀打ちできません。私たちはただ、この主のみこころが成ることを大いに待ち望み、その日の到来を積極的に迎えるのみです。 詩篇49篇……たましいの代価はあまりにも高く、それはほかのだれも、何ものも払ってはくれません。人は罪人であるかぎり、その罪の代価を永遠の滅びという形で支払わなければなりません。イエスさまはその代価を、十字架の上で完全に支払ってくださいました。私たちが救われるためには、イエスさまの十字架を信じる以外にありません。 <祈りの課題>いずれこの地に臨むさばきを、私たちが積極的に迎えられるように、日々整えていただくように。

249 9月6日 Ⅰサム31Ⅰコリ11エゼ9詩48

サムエル記第一31章……サウルは死に、その死体は偶像の宮にさらしものにされました。主に不従順だったサウルにふさわしい最期だったといえます。私たちにとっては、いかに生きるかと同じくらい大事なことは、いかに死ぬか、すなわち最期を迎えるかということです。私たちはこの世界が終わり、イエスさまの御前に立つとき、恥ずかしくなく御前に立つ準備はできていますでしょうか。 コリント人への手紙第一11章……私たちクリスチャンは自分のしたあやまちのゆえに、しばしば厳しい目にあうことがあります。しかしそれは主から下されたさばきのようであっても、その内実は「懲らしめ」であるというべきです。私たちはこの「懲らしめ」にあうゆえに、世において犯されている「さばき」にふさわしい悪の言動から守られ、身を避けるようになっているわけです。ゆえに、この「懲らしめ」は感謝すべきことです。 エゼキエル書9章……エゼキエルが見た幻は、世の終わりに臨む主のさばきの前触れといえるものです。私たちの住むこの世界は、全体が絶望的なさばきに覆われます。しかし私たちはイエスさまの十字架の血潮によって守っていただけます。私たちは守られていることに満足しているだけではなりません。この世界からひとりでも多くの人が救い出されるように祈り、また、そのために行動すべきです。 詩篇48篇……主のさばきというものは、私たち神の民にとっては恐ろしいものではありません。なぜなら私たち神の民は、イエスさまの十字架を信じる信仰によって救われ、永遠の救いに入れられているからです。私たちのすることはむしろ、さばき主なる主がそのさばきによってこの地に正義を行なってくださることを喜ぶことです。今日も主のさばきを待ち望みましょう。 <祈りの課題>私たちが主の正しいさばきを待ち望み、さばき主なる主の御手にすべてを委ねるものとなりますように。

248 9月5日 Ⅰサム29-30Ⅰコリ10エゼ8詩47

サムエル記第一29章~30章……ダビデの身には連続して苦難が襲いかかってきました。ダビデはペリシテから追放され、アマレクによって家族もろとも略奪され、自軍はダビデを殺そうとまで言い出すありさまでした。しかしダビデはここで、主の御名によって奮い立つことができました。そこからダビデの回復が始まりました。私たちは何の落ち度がなくても、苦境に立たされるときがあります。そのようなとき私たちのすることは、状況に左右されることではなく、主の御名によって奮い立つことです。 コリント人への手紙第一10章……聖書には、過去の信仰の先達たちの失敗も余すところなく記録されています。それは、その失敗の記録を読むことにより、私たちも同じ轍を踏まないようにするためです。私たちは同じ轍を踏まないという知恵をみことばによって与えられ、滅ぼされることがないという恵みをいただきます。 エゼキエル書8章……イスラエルが淫する偶像がいかに醜いか、ご覧ください。彼らは主の民、聖い民にもかかわらず、なんという偶像礼拝に陥ったことでしょうか。神さまはそのように、ご自身の不滅のご栄光を有限な被造物に帰すような者のことを、放っておかれるという最大のさばきを下されるお方です。私たちは主を礼拝する機会が許されている間に、神さまに立ち帰るということをしなければなりません。 詩篇47篇……私たち主の民は、国々からみこころによって神の御前に集められた「高貴な者」です。私たちはそのように、主の御前に自分がどのような者であるかをしっかり認識し、主に感謝をおささげする必要があります。私たちは高貴な者としてふさわしくあり、また、ふさわしく振る舞うべきです。 <祈りの課題>聖書をお読みするとき、自分と関係のない昔話のように読まず、つねに自分に適用して読むことができますように。

247 9月4日 Ⅰサム28Ⅰコリ9エゼ7詩45-46

サムエル記第一28章……神の油注ぎの去ったサウルは、いかなる手段を用いても神の祝福を引き寄せるお告げを受けることができませんでした。そのように行き詰った彼が頼ったものは、霊媒でした。結果として霊媒はサムエルの思いを告げることはしたものの、サウルのしたことが霊媒に伺いを立てるという、イスラエルの民として、いわんやイスラエルの王として何があってもしてはいけなかったことをしたという事実に変わりはありません。私たちは時に、御声が聴けなくてうろたえるということがあるものですが、そのようなときに私たちがすることは、悪霊につくオカルト的手段に頼ることでは決してありません。どこまでも主の御声を待ち望みましょう。 コリント人への手紙第一9章……天国で受ける賞は、だらけた生活のすえにでも得られると思ってはなりません。この地で主のみことばを宣べ伝えること、それ以上に私たちが主のみことばに聴き従うことは、とても難しいことです。それを、自分は何をやっても許されるから大丈夫だとばかりに逃げ回るのは決してよいことではありません。私たちは天国にて「よくやった。よい忠実なしもべだ」と神さまに言っていただけるという賞を得るために、あらゆる点で節制が必要です。しかし、その節制は、かえって肉を喜ばせる「苦行」ではなく、心から喜んで御霊に従うことであり、進んで選び取っていくべきものです。 エゼキエル書7章……さばきを待つ者、終局に臨む者は、預言者に幻を求めます。なんとしてでも助かりたいと思うわけです。しかし、主は、それまで民が何をしてきたかということにしたがって、彼らのことをおさばきになります。そのようなさばきが臨んでからでは、いかに幻を求めても遅いのです。主が生きる機会を与えておられるうちに、私たちは主にお従いする生き方を徹底して、いざというときに超常現象のごとく幻を求めようとあわてるという醜態をさらさないようにしたいものです。 詩篇45篇~46篇……私たち主の民は、主の御座から流れるいのちの御霊の川の流れによってうるおされ、生かされます。私たちのすることは、この川のそばに近づくことです。川はあると知らされているのですから、私たちは日々の祈りの時間において、この御霊の川の流れにうるおされ、力づけられるという体験が必要です。そしてこの川にうるおされたら、今度はほかの飢え渇いている人たちに、この川が流れるよう...

246 9月3日 Ⅰサム27Ⅰコリ8エゼ6詩44

サムエル記第一27章……ダビデはペリシテの地に落ち延びるにあたって、王アキシュから信頼を得るために、主の民に敵対する地域の者たちを討ち、その戦利品はユダの地からのものだと王に報告するような処世術を用いました。しかし、これは自分のいのちを守るために必要な措置だったと言え、永続するやり方ではありませんでした。ダビデはすでにこのとき充分な戦力を蓄えていましたが、それがユダの王、そしてイスラエル全家の王としての戦力として堂々と用いられるようになるには、まだ下積みを必要としていました。私たちも今は不本意な下積み生活を強いられているかもしれません。しかし、今このときに小さなことに忠実になるならば、主は必ず私たちに、大きなこと、すなわち御国を委ねてくださいます。 コリント人への手紙第一8章……私たちは食べ物のような生活習慣に関しては、例えばそれを食べたということで霊的にけがれることはありません。しかし、そのことが公になったとき、ああ、クリスチャンはそういうことをしていいのか、と、信仰の弱い人が信仰から離れる口実になってしまったならば、それはきわめてよくないことです。私たちは戒律に生きる人間では決してありませんが、自由人としてほかの人のためにあえて権利を用いないという、ほんとうの意味の自由人(放埓な人ではない、という意味)として振る舞いたいものです。 エゼキエル書6章……9節にご注目ください。私たち神の民が霊的に姦淫の罪を犯す偶像礼拝を行うこと、それは、神さまのお心を傷つけることです。私たちは偶像礼拝という姦淫の罪を平気で犯すほど、神さまから遠いところにいるかもしれませんが、神さまはいつでも私たちの近くにおられ、私たちのその行為にどんなに傷ついておられるか、私たちはそのことに思いを至らせ、心からの悔い改めをささげてまいりましょう。そして、神さまを傷つけず、むしろ喜ばせる者となりますように、励んでまいりましょう。 詩篇44篇……私たちがこの地において栄えているのは神さまの御業によることであり、私たちの努力の結果ではないこと(したがって私たちの誇るべきことではないこと)を、私たちは肝に銘じる必要があります。ゆえに、私たちがときに神さまの祝福が遠く感じられ、敵の手に陥りそうになっているように思えるとき、私たちのすることは、神さまに拠り頼むべく祈ることです。神さまはその切なる祈りに応えてく...

245 9月2日 Ⅰサム26Ⅰコリ7エゼ5詩42-43

サムエル記第一26章……眠りこけていたサウルを前にしたダビデは、主に油注がれた者には決して手を下すことはできないと言って、殺すことはしませんでした。この眠りは主ご自身が下されたものであり、ダビデは主からのこのテストに合格したことになります。主は、「復讐はわたしのもの、わたしが報復する」(ローマ12:19)とお語りになるお方であり、復讐というものを人の手にお委ねになるお方ではありません。私たちはこの、自分で復讐したいという誘惑から絶えず守られる必要があります。 コリント人への手紙第一7章……結婚は「するかしないか」という選択で考えるべきものではありません。「召された状態にとどまっているかどうか」、これが大事です。もし、自分への召しが結婚であると確信するならば、結婚を祈り求めるべきですし、もし、自分への召しが独身であると確信するならば、きよい身を保つことで神の栄光を現す者となるように祈り求めるべきです。どちらにせよ、その召しにふさわしく歩むならば、私たちは神の栄光を現すという、至上の生き方をすることになります。 エゼキエル書5章……髪とひげを蓄えているべき預言者がそれをそり落とすということは、見ている者を不安にさせなかったでしょうか。しかし、神の民はそれほどのことを預言者にさせるほど、神の前に恥ずべき者となっていました。その責めを、滅亡という形で負わせられることとなりました。もし、私たちが主の働き人として召されているならば、民のためにこのような恥を負うことも辞さずに行わなければなりません。それは髪やひげをそり落とすという形ではないにせよ、日々の祈りの中で、民の罪と恥をイエスさまの十字架のゆえに背負う祈りは、つねにささげる必要があるのではないでしょうか。 詩篇42篇~43篇……私たちのたましいは時にうなだれます。私たちは弱いからであり、けっして不信仰だからではありません。しかし、私たちはそのようなとき、神を待ち望むという大きな祝福をいただきます。落ち込んでいるときこそ神を待ち望む、その祝福を、今これをお読みのみなさまもこの瞬間に体験されますように。 <祈りの課題>未婚の兄弟姉妹が、召しにしたがって結婚、ないしは独身であることを選択されますように。

244 9月1日 Ⅰサム25Ⅰコリ6エゼ4詩40-41

サムエル記第一25章……ダビデにとっては、咎がなかったのに言いがかりをつけて恥辱を負わせたナバルとその家に制裁を加えることは、正当なことと思われていました。しかし、それはのちの日に王となったとき、きわめて悪い歴史を刻むことになります。それを知っていたナバルの妻アビガイルは、ダビデにつく者たちが食べるだけの食糧を持参してダビデの怒りをなだめました。この行為のゆえに、ナバルが死んだらダビデは時を移さず、未亡人となったアビガイルを妻に迎えました。絶対者の怒りをなだめるためにその怒りの前に立ちはだかる姿は、御父の御前において十字架に両腕を広げ、人という人に注がれる神の怒りからかくまってくださった、イエスさまの御姿を現してはいないでしょうか。 コリント人への手紙第一6章……神の国を相続できない者の特徴は、性的に乱れているということに表れます。しかし、主はそのような者を救って、キリストのからだの一部としてくださいました。ゆえに、遊女に象徴されるあらゆるむさぼりと交わり、私たち自身をそれらのものの一部にしてしまうならば、その行為は最もキリスト者としてふさわしくない行為になります。私たちはキリストの血潮という代価が払われて買い取られたキリストのからだであるという意識をもって、神の栄光を現すべきです。 エゼキエル書4章……神の民の霊的世界の代表選手であるエゼキエルは、その奇異ともいえる行動をもって、神の民の現住所を民にあらわす責任を神さまから託されました。しかし、彼ら民がやがて食べ物にも事欠くようになることを象徴する行動をするにあたり、人糞でつくったパン菓子を食べるように命じられることには、さすがにエゼキエルも抵抗しました。しかしその理由は、生理的に受け付けられないから、という私的な理由ではありません。神のみこころにしたがって今まで生きてきた、それは食物をとる際にも徹底してきた、という、従順に裏打ちされた生活の履歴のゆえです。そのようなやり取りができるような親しさを神さまとの間に持っていたエゼキエルにならって、私たちも従順の生き方を苦しみのうちにこなすとき、神さまの励ましと許しを体験してまいりたいものです。 詩篇40篇~41篇……神さまがお喜びになるのは、私たちの「宗教行為」ではなく、心から喜んでの「従順」です。私たちはそのように信じて従順の歩みをするように努めますが、私たちが「従順...