271 9月28日 Ⅱサム24ガラ4エゼ31詩79

サムエル記第二24章……ダビデはイスラエルに臨んだ神罰を、自分が処理すべきものとして、アラウナの打ち場を自費で買い取りました。悔い改めというものは、だれかが代わりにしてくれるものではありません。自分でするものです。自分で悔い改めるために、幾分かの犠牲を払うとしても、それで神さまとの関係が回復するならば何ほどのこともありません。私たちは積極的に悔い改める必要があります。

ガラテヤ人への手紙4章……ガラテヤ教会に律法主義が復活してしまったのは、人がキリストにあって自由であることを選ばず、何者かの奴隷となることに一定の快感を覚えるからではないでしょうか。しかし、それは神さまとの関係の中で自由になることを選ばず、何者かに隷属することで自分の責任を放棄する、きわめて無責任な生き方です。主の教会はそのような無責任な生き方を許容してはなりません。

エゼキエル書31章……木というものは、創造主の恵みがなければ育ちません。それを誇りとすることは愚かなことであり、傲慢なことです。エジプトも主の恵みがなければ栄えることがなかったのに、愚かにも自分の栄光を誇り、その結果主のさばきの対象となりました。私たちもまた、すべてが恵みのうちに与えられている栄光が、あたかも自分に属するもののように誇り、主とは関係のない生き方をするならば、主がそのような者をおさばきになります。

詩篇79篇……主を呼び求めず、主の民を虐げるような者たちには、主が激しい憤りを注がれます。それは、私たちが血を分けた愛する人たちに対しても、私たちのそばにいる人たちに対しても、例外ではありません。私たちは彼らの脅かしから救っていただけますが、それとともに、主は彼らに対し、大いなるさばきの御手を下されます。私たちはそれに耐えられるでしょうか。私たちは彼らが救われることを願わないでしょうか。

<祈りの課題>私たちが悔い改めを積極的にする者となりますように。

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