246 9月3日 Ⅰサム27Ⅰコリ8エゼ6詩44
サムエル記第一27章……ダビデはペリシテの地に落ち延びるにあたって、王アキシュから信頼を得るために、主の民に敵対する地域の者たちを討ち、その戦利品はユダの地からのものだと王に報告するような処世術を用いました。しかし、これは自分のいのちを守るために必要な措置だったと言え、永続するやり方ではありませんでした。ダビデはすでにこのとき充分な戦力を蓄えていましたが、それがユダの王、そしてイスラエル全家の王としての戦力として堂々と用いられるようになるには、まだ下積みを必要としていました。私たちも今は不本意な下積み生活を強いられているかもしれません。しかし、今このときに小さなことに忠実になるならば、主は必ず私たちに、大きなこと、すなわち御国を委ねてくださいます。
コリント人への手紙第一8章……私たちは食べ物のような生活習慣に関しては、例えばそれを食べたということで霊的にけがれることはありません。しかし、そのことが公になったとき、ああ、クリスチャンはそういうことをしていいのか、と、信仰の弱い人が信仰から離れる口実になってしまったならば、それはきわめてよくないことです。私たちは戒律に生きる人間では決してありませんが、自由人としてほかの人のためにあえて権利を用いないという、ほんとうの意味の自由人(放埓な人ではない、という意味)として振る舞いたいものです。
エゼキエル書6章……9節にご注目ください。私たち神の民が霊的に姦淫の罪を犯す偶像礼拝を行うこと、それは、神さまのお心を傷つけることです。私たちは偶像礼拝という姦淫の罪を平気で犯すほど、神さまから遠いところにいるかもしれませんが、神さまはいつでも私たちの近くにおられ、私たちのその行為にどんなに傷ついておられるか、私たちはそのことに思いを至らせ、心からの悔い改めをささげてまいりましょう。そして、神さまを傷つけず、むしろ喜ばせる者となりますように、励んでまいりましょう。
詩篇44篇……私たちがこの地において栄えているのは神さまの御業によることであり、私たちの努力の結果ではないこと(したがって私たちの誇るべきことではないこと)を、私たちは肝に銘じる必要があります。ゆえに、私たちがときに神さまの祝福が遠く感じられ、敵の手に陥りそうになっているように思えるとき、私たちのすることは、神さまに拠り頼むべく祈ることです。神さまはその切なる祈りに応えてくださり、私たちにご自身をあらわしてくださいます。
<祈りの課題>私たちの振る舞いが、私たちのすぐそばにおられる神さまを傷つけることなく、むしろ喜ばせるものとなりますように。
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