252 9月9日 Ⅱサム3Ⅰコリ14エゼ12詩51
サムエル記第二3章……ダビデの将軍ヨアブは野心家であると同時に、小心者でした。自分から将軍の地位が移される、それも弟アサエルを殺した者に、ということに耐えられなくて、ヨアブはアブネルを暗殺しました。しかし、そのことはかえってダビデを激怒させ、ヨアブとその兄弟に対するより一層の警戒心を起こさせました。私たちはしばしば、私的な動機による行動をあたかも主のみこころから出たものであるかのように自分を偽り、行動するものですが、主はすべてご存じで、みこころだけがなります。私たちは主のみこころにかなわない者となってはなりません。
コリント人への手紙第一14章……異言で語るということは、それだけ恵みを受けているということなので、結構なことではあります(これは「異言」という「超常現象」にかぎりません)。しかし、その恵みが自分だけのものであり、その恵みがいかに深く、素晴らしいものであるかを伝えることができないならば、福音はそれ以上広がりません。福音の素晴らしさを解き明かす「預言」(これも「超常現象」とはかぎりません)が語られるということは、未信者への宣教がなされるということであり、むしろ奨励されるべきことです。私たちは受けている恵みを、自分だけのものにしていないでしょうか? それとも、外部の未信者にもわかるように解き明かすことに努めていますでしょうか?
エゼキエル書12章……終末の預言の幻は、必ず成就します。主がそう定められた以上、延ばされることはありません。それでもその預言がいまもなお成就していないように見えるのは、預言が嘘だったからではありません。ひとりでも多くの人が主に立ち帰り、救われるように、主が忍耐していらっしゃるからです。預言が成就しないように見えることを甘く見ていてはなりません。
詩篇51篇……クリスチャンはときに、取り返しのつかない罪を犯したと感じ、その罪の大きさ、恐ろしさにおののきます。しかし、私たちには希望があります。それは、主の御前に完全に砕かれた態度で出ていくならば、主はそれをいけにえとして受け入れてくださり、私たちの罪を完全に赦してくださる、ということです。私たちが罪を犯したならば、主の御顔を避けてはいけません。大いに悔い改め、イエスさまの十字架による罪の赦しを信じて、大胆に御前に出ていくことです。
<祈りの課題>私たちの味わう主の恵みが、自分たちだけのもので終わることなく、教会の外の人にもわかりやすい形で伝わっていきますように。
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