266 9月23日 Ⅱサム19Ⅱコリ12エゼ26詩74
サムエル記第二19章……ダビデが帰還することが決まったとき、人々はさまざまな反応を示しました。それが喜びとなった人、さばきを恐れなければならなかった人、申し開きをしなければならなかった人、王とともにいる権利を主張した人々、さまざまでした。このように人間模様が、ダビデの帰還によって明らかにされたように、イエスさまが再びこの地に来られるときには、人々はさまざまな反応をイエスさまに対して示します。中には、もはやおしまいであることを知り、絶望してしまう人もいるわけです。私たちはやましいことなく、喜んでイエスさまを迎えることができるでしょうか。
コリント人への手紙第二12章……コリント教会に対して終始強気で語りつづけたパウロが、唯一彼らに対して謝罪していることは、パウロがコリント教会に負担をかけなかったということです。教会が自らの形成のために他者の力を借りず、負担をするということは、成長の結果として当然伴うべきことであり、それをしないことは祝福とはいえず、不正とさえいえることです。私たちはそういうわけで、自分の群れが富んで、より宣教と教会形成に励めるようにささげることを目指してまいりたいものです。また教職者は、自分のケアしている群れをいつまでも子ども扱いしない、すなわち、まだまだささげる力がないから助けてあげなければならないと考えないことです。ささげるということにおいても、私たちはともに成長を目指しましょう。
エゼキエル書26章……神の民はさばきを受けました。しかし同時に、神の民を攻撃し、征服したとうそぶくような者に対しては、神さまが完膚なきまでにさばきを下されます。私たち神の民はときに、ひどい目にあうことによって神さまの御前に悔い改めをささげるものですが、神さまは私たちの味方であり、私たちを傷つけることによってご自身の栄光をいたくけがすものに対する御怒りは大変なものです。神さまを恐れましょう。
詩篇74篇……神の民は傷つくままでいることはありません。私たちは傷つけられるとき、いつまで敵はおごり高ぶるのかと嘆きたくなりますが、私たちが終わりの日のさばきを思うならば、その怒りから解き放たれ、かえって、彼らに臨む終わりの日の悲惨さを思い、彼らに対するあわれみの心が起きないでしょうか。彼らに救われてほしいと思わないでしょうか。かつて日本の官憲がしたように、今世界の各地において、クリスチャンはこの詩篇が語るような迫害にあっていますが、彼らの祈りは聴かれています。迫害を加える者の中から救われる人が奇跡的に起こされ、このさばきから免れています。私たちも本来、主に忘れられることのなかったはずの、主に敵対する声を上げていた者であったのが救われた者として、とりなして祈ってまいりましょう。
<祈りの課題>私たちが神さまにささげるということにおいて成長しますように。
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