267 9月24日 Ⅱサム20Ⅱコリ13エゼ27詩75-76

サムエル記第二20章……ヨアブは、ダビデに敵対するシェバを討つということにおいてさえ、それを権力闘争の道具とし、軍団長アマサを暗殺して自らがその地位につきました。たしかにヨアブは、ユダの人々を期日までに召集できなかったアマサに比べると、あっという間にシェバを討ち取った分、軍人としての能力は秀でていたかもしれません。しかし、ダビデ王から信任を受けていたか否かという点において、ヨアブは決定的に欠けていました。教会形成においても同じことで、卓越した能力があるように見えれば、それで優秀な油注がれた主の器であるといえるわけではありません。イエスさまを愛しているか、それゆえに、「わたしの羊」を飼う召命をいただいているか、その、イエスさまとの関係が何よりも大事です。

コリント人への手紙第二13章……主の働き人が願うべきことは、自分が弱くても、自分の仕えている群れが霊的に強くあることです。パウロがそのような姿勢でコリント教会に仕えてきたように、主の働き人は、たとえ群れからどのように思われたとしても、群れが霊的に強くあるために、あらゆる努力を惜しまずにするものです。私たちは群れが強くあるために努力していますでしょうか? どのような努力をして、どのような実を見ていますでしょうか?

エゼキエル書27章……世界の富の集結したツロは名声をほしいままにしましたが、東風によって滅ぼされたと預言は語ります。いかなる人間的な富や名声も、創造主なる神さまの御手によってはひとたまりもありません。私たちもいま、世界中の富や文化を享受する社会に生きていますが、それは主がお許しになられる間だけ楽しめるだけのもので、時が来て主がこの世に終わりをもたらされたら、すべては失われます。私たちは自分の有限な持ち物を誇ってはいないでしょうか? 誇るべきは主だけです。

詩篇75篇~76篇……この地にさばきは臨みます。そのさばきを行われるお方は主であり、主のさばきはつねに公正です。そのさばきが公正であるかどうかを決めるのは人間ではありません。ゆえに私たちはこの地に生きているかぎり、つねに主がみことばにおいてお定めになっている基準を学び、基準に生きることで、終わりの日のさばきに耐えうるものとならなければなりません。私たちは今日もみことばから主のおきてを学べますことに感謝しましょう。

<祈りの課題>さばきを待つだけの爛熟したこの世において、私たちが主の基準を見失うことなく、主の公正を学び、また主の公正を実践しながら生きる者となりますように。

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