272 9月29日 Ⅰ列1ガラ5エゼ32詩80
列王記第一1章……アドニヤが王位にのし上がろうとしたのは、神さまのみこころを無視してのことでした。ダビデは本来、ソロモンを王座につけることが主のみこころであると受け取っていた(17節)わけで、それを無視するということは、主のみこころを踏みにじることでした。しかし主は、そのようなアドニヤの悪だくみを打ち砕かれました。人間の力をもってしては、どんなに巧みな計画を立てたとしても、主のみこころを変えることはできません。
ガラテヤ人への手紙5章……私たちは御霊によって生き、御霊によって進む存在です。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という、御霊の実を結んで生きる者であって、19節から21節までに列挙された生き方が生活の中に身を結んでいるならば、私たちは悔い改める必要があります。日々御霊に満たされ、みこころにかなう人格へと整えられてまいりましょう。
エゼキエル書32章……この世で大いなる権勢を誇るような者は、獅子のごとく格好よく君臨する存在だと自分のことを思うでしょう。しかし、主の御目から見れば、そのような者は醜い海の巨獣にすぎません。大きいばかりで迷惑をかける存在です。私たちはもしかして、この世で称賛されるような存在になりたがり、この世の富や名誉を手に入れようと、汲々としてはいないでしょうか。しかし、そのような者も主を無視し、そのみこころを踏みにじるようでは、いずれ主に滅ぼされてしまいます。
詩篇80篇……私たち主の民は、主の御顔の光に照らされて力を得、歩みます。もし、主が御顔を向けてくださらないならば、私たちはどうやって歩むことができるでしょうか。しかし、私たちは時に、主の御顔が見えなくなるときがあります。それは、私たちに罪があるからです(イザヤ59:2)。私たちが御顔を仰ぎ見ることを願うならば、私たちは悔い改める必要があります。
<祈りの課題>私たちが日々、御霊の実を結びますように。
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