254 9月11日 Ⅱサム6Ⅰコリ16エゼ14詩55
サムエル記第二6章……ミカルにとって、ダビデのもとに神の箱を運び入れるという祝福、すなわち、ダビデがいよいよ主の臨在のもと祝福されるということなど、どうでもよく、大事なのはダビデが王として目に見える威厳を保っているかどうかだけでした。ミカルの関心は霊的なことにはまったくありませんでした。ミカルに死ぬまで子どもがなかったということは、そのようなミカルに対する神さまのお取り扱いという側面があるのもさることながら、ダビデはミカルとはもはやひとつになることをしなかった、という意味であるとも考えられます。夫婦がひとつになるうえで大事なのは、霊的な一致であり、それがないで霊的ではない側に妥協すると、悲惨なことになります。霊的主導権を持つ側がしっかり主導権を発揮すべきということは、夫婦生活においても例外ではありません。
コリント人への手紙第一16章……みなさまは主日礼拝において献金をささげるとき、かごが回ってきたときにようやく財布を取り出すようなことをしてはいないでしょうか? 献金は礼拝の一部です。礼拝の一部ですから、その態度からしておざなりにしていてはなりません。事前に一定の額を取っておいて(封筒に入れるのがいちばんいい)、かごが回ってきたときにスムーズにささげられるようにすべきです。財物のあるところに心もあるものです。財物の管理を主にあってしっかりしましょう。
エゼキエル書14章……人がなぜ偶像に淫するようになるかといえば、心の中に偶像を秘め、目の前に偶像を置くからです。人がそこから逃れ、主に立ち帰るようになるためには、心の中から偶像を取り除き、目の前に置かれた偶像から主の御許へと身をひるがえす必要があります。偶像から神に方向転換する、これぞまことの悔い改めです。
詩篇55篇……主の民に敵対する者は間近にいた、ということはよくあることです。その前提で物事を見ているならば、いざというときにうろたえなくて済みますが、それでも親しい者の裏切りにあうわけですから、それはとても悲しいことです。しかし、そのような者に対しては、自分で復讐してはなりません。神の怒りに委ねるべきです。復讐というものは人のするものではなく、神さまのするものだからです。私たちは変わらずに、そのような人に対して善を行わなければなりません。
<祈りの課題>主に向かって心からの賛美をささげる私たちとなりますように。
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