263 9月20日 Ⅱサム16Ⅱコリ9エゼ23詩70-71

サムエル記第二16章……サウルの部下だったツィバとシムイは、きわめて対照的な行動に出ます。ツィバはダビデに取り入ってメフィボシェテの財産をまんまとせしめ、シムイはダビデを呪います。ツィバはダビデを王と認め、シムイは認めなかったわけですが、よく見るとどちらも、ダビデのことよりも自分のことを優先しているという点で共通しています。ほんとうにダビデのことを思うならば、ダビデと行動を共にすべきだったのではないでしょうか。フシャイに関しては、アブサロムの陣営に今はいましたが、ダビデの命(めい)を受けてのことなので、事実上ダビデとともにいたことになります。私たちはキリストを利用してのし上がろうとするような愚を犯してはいないでしょうか? それとも、人間的には不利に思えても、キリストにつく行動を選んでいるでしょうか?

コリント人への手紙第二9章……ささげものというものは自発的になされてこそ意味のあるものです。ささげものが強制的になされたとするならば、それは意味がありません。イエスさまとともにいることを喜ぶゆえに、そのあふれる喜びの表現としてささげものをするものです。主は、ささげものをすることを志す者に、ささげるためのものを備えてくださることでご自身のご栄光を顕してくださいます。私たちはこの信仰をもってささげましょう。

エゼキエル書23章……主の民が偶像礼拝をすることがどれほど醜いかを、この章は露骨とも思えるような表現で描写しています。主は、彼らの偶像礼拝を決して軽く見ることはなさらず、その偶像の罪責を負わせられます。私たち主の民は、偶像としているもの、すなわち、それに没頭することで主との交わりをすっかり遠ざけているものはないでしょうか? この箇所を読んで、偶像礼拝がどれほど神さまの嫌われる罪であるかを知るならば、それらのものを直ちに断ち切る決断が必要です。

詩篇70篇~71篇……この両方の詩に共通することばは「恥」です。詩人は、主にある者のいのちを求める者が恥を見て、主に身を避ける者が恥を見ないようにと祈っています。恥とは、創世記のはじめに、神さまが手ずから作ってくださった獣の皮衣で覆われるべきものであったように、イエスさまの十字架の犠牲によってはじめて覆われるべきものです。私たちはイエスさまの十字架によって覆われる必要がありますし、私たちに敵対するような人たちもまた、イエスさまによらなければ覆われない自分の恥に気づかされ、イエスさまを信じるように、私たちは敵のために祈る必要があります。

<祈りの課題>私たちが一切の偶像礼拝から自由になり、ただ主だけにお従いすることができますように。

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