261 9月18日 Ⅱサム14Ⅱコリ7エゼ21詩68
サムエル記第二14章……ダビデとアブサロムの間の確執は長い時間を経て一応の落ち着きを見せますが、実際のところは見せかけだけの鎮静化にすぎませんでした。双方は間にヨアブをはさんでいましたが、直接向き合うことを避けました。それがのちの、アブサロムのクーデター、ダビデの逃亡につながることとなりました。地上の親子関係はときに問題をはらむことがありますが、そのようなときには双方が逃げずに、問題にしっかり取り組むことが必要になります。ダビデは親という点では問題だらけでしたが、天のお父さまはいっさい欠けのないお方であり、私たちはこのお方の前に何の夾雑物もなく、ありのままの姿で出ていくとき、祝福をいただきます。
コリント人への手紙第二7章……教会という共同体は、みこころに沿った悔い改めが行われる場所です。悔い改めは一時的にとても悲しい思いをさせるものですが、共同体全体が救いの喜びを味わうことができるゆえ、素晴らしいものです。しかし、世の悲しみ、すなわち、悔い改めとは名ばかりで、主に立ち帰らせることなく、共同体を悲しませるばかりのものは、共同体からいのちを奪います。
エゼキエル書21章……神の民は無条件に守られるわけではありません。主に不従順な、偶像礼拝をやめない不義な者たちに対しては、主ご自身が剣をもたらされ、完膚なきまでに滅ぼされます。私たちも、イエスさまの十字架を信じる信仰によって救われている……それはまことにそうなのですが、それゆえに、何をしても救われるとばかりに放埓な生き方をするようではなりません。私たちは終わりの日のさばきを思い、その火に恥ずかしくなく御前に立てる者となるように、日々従順あるのみの生き方をしてまいりたいものです。
詩篇68篇……私たちの生きる人生は、世界の終わりの日に雲に乗って来られるイエスさまのために道を備えることです。自分自身が恥ずかしくない生き方をするのはもちろんのこと、この地にともに豊かな主のご栄光を顕し、この地をよい地としていくことが私たちに求められています。たしかに世の終わりは絶望的な環境になりますが、その中で何もしないでいるようならば、主は果たして私たち主の民をどのように取り扱われるでしょうか。終わりの日に向けて恥ずかしくない生き方を目指してまいりましょう。
<祈りの課題>私たち主の民がたえず終わりの日を意識し、恥ずかしくなく御前に立てるように備えますように。
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