259 9月16日 Ⅱサム12Ⅱコリ5エゼ19詩64-65

サムエル記第二12章……罪を犯したダビデはさばかれることはありませんでしたが、子どもを失うという形で懲らしめの御手が下りました。ダビデはこの懲らしめの御手が完全に下されたとき、淡々とそれを受け入れました。主が一度下されるとお決めになった懲らしめは、どんなにやめてくださいと人が言おうとも、必ず下されます。それを受け入れることは、主のご主権を認めるということであり、この点においてダビデはふさわしい立ち直りを体験しました。主はダビデをこの点においてもはやお責めにならず、ダビデが子どもを失ったのちにバテ・シェバとの間にもうけたソロモンを特別に愛してくださいました。

コリント人への手紙第二5章……創造主なるイエス・キリストがすべての被造物なる人のために死なれたということは、すべての人が死んだということです。それは、どんな宗教を信じていたとしても、たとえ無神論者であったとしてもです。私たち人間はひとりとして例外なく、創造主なる神さまの被造物であることに変わりはないからです。このお方の死と復活によって私たちは新しく造られたもので、すべては新しくなりました。

エゼキエル書19章……この哀歌では、北イスラエルと南ユダが、母獅子から生まれた二頭の子獅子になぞらえられています。この子獅子たちはきわめて獰猛で、手がつけられないほど暴力的でした。このような観点からイスラエルとユダを見ると、この猛獣に悩まされていた周辺諸国が子獅子たちを退治したのは、まったく正当に見えてきます。主の民はそれほど罪深い中にあったということを、彼らは認める必要がありました。実に、主の民の不従順は、周りの人たちに対しても大いなる迷惑となります。私たちは主に従順な歩みをもって、周りに対して証しとなる生活を志していますでしょうか?

詩篇64篇~65篇……幸いな人は、主が選んでみもとに近寄せられた人のことです。その人は主がくださるあらゆるよいもので満ち足ります。私たちがほんとうの意味で、満たされ、喜ぶことのできる場所は、ただ主の御前だけです。私たちはそれ以外のものによって喜びを得ようとしても、まことの満足を得ることはできません。

<祈りの課題>私たちの歩みが周りに証しとなるように、従順に励むものとなりますように。

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