247 9月4日 Ⅰサム28Ⅰコリ9エゼ7詩45-46

サムエル記第一28章……神の油注ぎの去ったサウルは、いかなる手段を用いても神の祝福を引き寄せるお告げを受けることができませんでした。そのように行き詰った彼が頼ったものは、霊媒でした。結果として霊媒はサムエルの思いを告げることはしたものの、サウルのしたことが霊媒に伺いを立てるという、イスラエルの民として、いわんやイスラエルの王として何があってもしてはいけなかったことをしたという事実に変わりはありません。私たちは時に、御声が聴けなくてうろたえるということがあるものですが、そのようなときに私たちがすることは、悪霊につくオカルト的手段に頼ることでは決してありません。どこまでも主の御声を待ち望みましょう。

コリント人への手紙第一9章……天国で受ける賞は、だらけた生活のすえにでも得られると思ってはなりません。この地で主のみことばを宣べ伝えること、それ以上に私たちが主のみことばに聴き従うことは、とても難しいことです。それを、自分は何をやっても許されるから大丈夫だとばかりに逃げ回るのは決してよいことではありません。私たちは天国にて「よくやった。よい忠実なしもべだ」と神さまに言っていただけるという賞を得るために、あらゆる点で節制が必要です。しかし、その節制は、かえって肉を喜ばせる「苦行」ではなく、心から喜んで御霊に従うことであり、進んで選び取っていくべきものです。

エゼキエル書7章……さばきを待つ者、終局に臨む者は、預言者に幻を求めます。なんとしてでも助かりたいと思うわけです。しかし、主は、それまで民が何をしてきたかということにしたがって、彼らのことをおさばきになります。そのようなさばきが臨んでからでは、いかに幻を求めても遅いのです。主が生きる機会を与えておられるうちに、私たちは主にお従いする生き方を徹底して、いざというときに超常現象のごとく幻を求めようとあわてるという醜態をさらさないようにしたいものです。

詩篇45篇~46篇……私たち主の民は、主の御座から流れるいのちの御霊の川の流れによってうるおされ、生かされます。私たちのすることは、この川のそばに近づくことです。川はあると知らされているのですから、私たちは日々の祈りの時間において、この御霊の川の流れにうるおされ、力づけられるという体験が必要です。そしてこの川にうるおされたら、今度はほかの飢え渇いている人たちに、この川が流れるようにする必要があります。皆でともに御霊にうるおされる、そのような神の国はこの地に実現します。

<祈りの課題>日々御霊にうるおされ、御霊に従う生き方を選び取る私たちとなりますように。

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