273 9月30日 Ⅰ列2ガラ6エゼ33詩81-82

列王記第二2章……ソロモンが政敵に次々と手をかけるさまは、一見するととても冷酷に見えます。しかし、もしそうしなかったならば、ソロモンは政敵によって暗殺される可能性がいつも伴い、それはすなわち、主のみこころが損なわれることになります。私たちは主のみこころが自分の身を通してなるために、時には蛇のようにさとくある必要があります。愛にあふれているのは結構なことですが、それと「お人好し」はまったく異なることです。主のみこころを損なう要素は共同体の中からしっかり除いていく決断をしていくことを、私たちはつねにしていく必要があります。

ガラテヤ人への手紙6章……私たちが世の人たちと異なるのは、信仰が与えられて神の子ども、神の家族となっていることであり、それゆえに永遠のいのち、天国の恵みが与えられていることです。私たちは自分ひとりで信仰生活が完結するのではありません。ともに生かされている、教会の兄弟姉妹という共同体の中で信仰生活が続いていきます。私たちは持てるものを分かち合いつつ、愛の交わりを続けてまいりましょう。

エゼキエル書33章……主が願っていらっしゃることは、主の民が悪に陥ることなく、いのちを得ることです。そのために主は、民の中に見張りを立てられます。見張りの役割を果たす者は、精一杯のことばで警告を与えないならば、自分がその咎のゆえにさばかれるので、真剣にならざるを得ません。主の共同体はその見張りのことばに真剣に耳を傾けないならば、今度は自分たちがいのちを失います。私たちのうち、この見張りの役割を果たしたいという人はいますでしょうか。その人とそのことばを尊重し、いざというときに備えてまいりましょう。

詩篇81篇~82篇……82篇6節。日本語の聖書では「神」と「神々」を区別している分、イエスさまがヨハネの福音書10章34節で引用していらっしゃるこのみことばが、かなり難解に思えてきます。しかし、「神」と「神々」は、ヘブライ語の原語では同じ「エローヒーム」であり、人がそのように呼ばれることは、「三位一体の神さま」と同じ呼称が人に対して用いられた、ということでもあるわけです。イエスさまはそれを根拠に、ご自身は神を冒瀆していないということを立証されたわけですが、ともかく、人が神々の扱いを受けているということは、その信じ属している神々に対する信仰の結ぶ実がひどいものであり、それゆえに主なる神さまが神々もろともその人のことをさばかれる、ということです。このような聖書箇所を読むと、私たちはまことの神さまに属しているから大丈夫だ、と思いますでしょうか? たしかに、私たちは救われていますが、私たちは救われている者として、神々ともども滅びゆく人たちよりもみこころにかなった生き方を目指す必要があるのではないでしょうか? 私たちが神さまにつながるものとして結ぶ実が、弱い人たち、苦しむ人たちを助ける、麗しい実となりますように。

<祈りの課題>私たちの群れの中から、群れの見張りとして献身する人が現れますように。

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